自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H30.4.15 第九十六回 法的安定性

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第九十七回 裁量労働

ゆひのみち われすすみける ひとのよの あはあはしきを をさむことはり
(結ひ(收束)の道割れ(拡散、発散、分業)進みける人の世の淡々しきを治む理)


「裁量労働制」とか、「高度プロフェッショナル制度」といふ言葉が一人歩きしたものの、表層の些末な論争に終始するだけで、これまで一度も「労働」そのものの本質に迫る議論がなされてゐないのは余りにも情けない話である。


そもそも、労働については、その計数的な価値を認識して商品化する労働価値説のやうに、賃金労働者(以下「労働者」といふ。)の労働を中心に考察されてきたが、労働者を雇用する側の事業者の労働といふものには余り着目されて来なかつた。


そして、この労働者に関しては、産業革命以後においては顕著に労働の商品化が進み、劣悪で長時間の労働環境で酷使された労働者の救済理論の嚆矢として社会主義思想が生まれた。

これには、思想内容はともかくも、さまざまな取り組みがなされ、「労働貨幣」といふ概念まで提唱された。ロバート・オウエンは、貨幣と労働とを結びつける単純な労働価値説によつて、労働の同質定量化、時間単位化により、労働価値を貨幣に代替する「労働券」といふ有価証券を労働交換所で取引するといふ構想を実施したが、その理論と運用の未熟さで失敗した。

しかし、これは、産業革命期において劣悪な環境での労働を強いられた工場労働者、特に幼年労働者及び女子労働者を保護することを目的とした工場法を各国で制定させる契機となり、これが我が国でも「工場法」(明治44年法律46号)として取り入れられ、これが現行の「労働基準法」に引き継がれてゐる。


これは、同一労働同一賃金といふ労働の同質定量化を前提とするもので、労働による成果の視点が完全に欠落してゐる。そして、この理論的な延長線上に、「最低賃金法」がある。この法律は、産業や職種に関はりなく、都道府県内の事業場で働くすべての労働者とその使用者に対して適用される「地域別的最低賃金」と、特に労働の内容が複雑で危険な種類の産業について設定された「特定最低賃金」との種別を設けてはゐるが、これらは一律の時間給を基礎とした同一労働同一賃金の変形となつてゐる。


ここにこれらの労働概念の修正のために随分前から登場したのが、労働時間と成果・業績とが必ずしも連動しない「裁量労働制」であつた。「高度プロフェッショナル制度」(ホワイトカラー・エグゼンプション)も裁量労働制に含まれる概念である。


これまでの一般の労働(非裁量労働)は、労働時間と成果・業績とが連動してゐたが、労働時間によつて計測する「時間給制度」とは異なつて、「成果主義」が適用される「専門業務型」や「企画業務型」の職種に、労働時間での同一労働同一賃金を適用させることにそもそも無理があつた。産業構造が多様化し、専門知識や専門技能によつて生み出される質の高い高付加価値な労働が求められてくると、裁量労働の概念も当然に多様化し、その適用範囲が拡大するのは産業構造上からして必然的なものであつた。


ところで、「労働」といふと、労働市場で取引される商品化した労働者の労働を連想する人が多いが、本来、労働には、労働者の労働もあれば事業者の労働もある。ところが、労働者と言ふと、それは賃金労働者を意味し、事業者は労働者としては認識されない。しかし、事業者も広義の労働者なのである。

では、狭義の労働者(労働者)と広義の労働者(事業者)とは、どんな違ひがあるのか。


その決定的な相違は、狭義の労働者(労働者)には労働の対価である収入といふ「所得保障」があるのに対し、広義の労働者(事業者)にはそれがない点である。


勿論、労働者の場合でも、解雇や使用者(事業者)の倒産などが起これば、労働者の所得保障は完全とは言へないとしても、雇用保険制度や厚生年金制度などによる保障を含めれば、やはり所得保障がなされてゐるのである。


これに対し、労働者を雇用する使用者の地位にある事業者には所得保障がない。任意の保険契約によつて救済がなされる場合があるが、それは保険契約の効果であつて、所得保障といふ制度保障ではない。成功も失敗も、倒産も休業もすべて自己責任である。


さうすると、労働時間と成果・業績とが必ずしも連動しない裁量労働制といふのは、労働態様においてどんな位置づけになるのであらうか。

結論を言へば、裁量労働の労働者は、あくまでも労働者に属してをり、成果主義が適用されるとしても、例外なく所得保障があるので、所得保障のない事業者とは決定的に異なる。事業者には、完全な成果主義が適用され、かつ、所得保障もないのである。


これを法律的に考察すると、労働、すなはち、労務の提供を目的とする契約形態には、雇用契約、請負契約、委任契約などの種別があり、労働者は、雇主(事業者)との雇用契約であるのに対し、事業者は、請負契約や委任契約などの非雇用契約であるといふ区分になる。


この区分は、社会構造や産業構造の態様や変化によつて、その契約形態が流動することになる。

過去に、偽装請負、偽装委託(委任)、偽装派遣といふ問題が注目されたことがあつた。これは、実質的には雇用契約の労働者であるが、形式的には、その労働者との間で請負契約や委任契約などの契約形態とすることによつて、事業者(使用者)が被用者(労働者)に対する安全配慮義務や安全対策施行義務を免れて労務費用を不当に節減をするといふ目的によるものであつた。


偽装であつても請負の場合は、成果主義によつて貫かれる。成果(仕事の完成)がなければ報酬が支払はれないのであるから、これは完全な成果主義である。成果がなければ、それまでに費やされた労働の対価は、原則として支払はれないのであるから、裁量労働による労働者とは全く異なるのである。

偽装請負とされなければ、その労働者は裁量労働による所得保障があるが、偽装請負契約とされたことにより、所得保障は完全に奪はれてしまふのである。


さうすると、裁量労働の労働者の範囲を拡大させることは、偽装請負によつて賃金労働者から排除されて事業者と看做された者を救済させる効果がある。


ところが、裁量労働制の適用範囲の拡大は、残業代ゼロを強要するものだとし、過労死、過労自殺を防ぎきれないといふ単細胞的で短絡的な批判があるが、このやうな議論には、我が国の産業構造をどのやうな方向へと改変してゐくのが望ましいのかといふ視点が完全に欠落してゐることが解る。


事業者と労働者との中間形態でありながら、あくまでも狭義の労働者である裁量労働の労働者の範囲を拡大させる方向と、同じく中間形態でありながら、所得保障を失つた非労働者として請負形態・委任形態による意欲的な起業者の独立を促進させ拡大させる方向とを比較して、どちらが産業社会を安定させ、より発展させることになるのかについて、誰も真剣にこの視点では考へてこなかつたのである。

少なくとも、偽装契約なるものが廃絶されて、いづれかの契約形態に明確に収斂させる政策対応が必要であるのは当然であるとしても、名目上は事業者として分類されながら、その実質は労働者でありながら、事業者の雇用から排除され、アウト・ソーシング(外部委託)の請負業者とされて、所得保障がない事業者となるのがよいのか、それとも、あくまでも所得保障がある労働者に留まるのがよいのかといふ選択を個々の労働者が判断することは、その人生設計を大きく左右するために、さう簡単には決められないであらう。


これまで雇用関係で続けてきた仕事で得たスキルが、いはゆる潰しが効くものでなければ転職(雇用)は可能であつても起業(非雇用)の機会と可能性は少ない。また、起業しても、これまで通りの仕事と収入が保障されるものでもない。


所得保障のある安定した雇用形態での仕事を続けるか、所得保障を捨てて脱サラにより起業して更に高収入を得る見込みがある仕事に転ずるか、といふ判断は人生において多くの人が直面する。しかし、この判断をなしうるには、起業を目指す事業家を支援する環境整備が整つてゐなければならないが、これが極めて不充分である現状では、起業による事業者への道が閉ざされてゐるに等しい。


起業支援が充実してこそ、裁量労働制の範囲の拡大が意味を持つことになる。裁量労働者は起業予備軍であり、産業の裾野を広げて活性化させることに貢献するからである。このままでは、労働者(雇用)から事業者(非雇用)への転身も、事業者から労働者への転身も困難となり、相互の流動性がなくなつてしまふのである。


つまり、この根底には、我が国の戦国時代の混乱期に適用された成果主義、結果主義、実力主義の方向が原則的によいとするのか、それとも、江戸時代の安定期に適用された年功主義、家族主義が原則的によいとするのか、といふ究極の選択を突きつけられてゐるのである。


成果主義には、労働意欲の向上や責任の明確化などの利点はあるとしても、これは臨時的、緊急的、限定的な事象において適用される性質のもので、社会の安定には全く貢献しない。また、成果主義の事業が長期化すると、短期的視点に終始して組織が硬直化し、まさに無能な上司で溢れかへるといふ、ローレンス・J・ピーターが提唱したピーターの法則による結果となるのは必至である。


そもそも、労働の原点は、第一次産業の労働にある。これは、自然を相手にするので、凶作、不漁などがあるため、所得保障は稀薄であるが、我々の先祖は、それを労働(努力)によつて乗り越えてきたのである。

事業者と労働者の二階層は、分業体制によつて生まれたものである。分業体制は、利便性と効率性のみを追求するので、人と人との絆を限りなく弱くさせてしまふ。しかし、この事業者と労働者といふ階層は、分業から統業へと向かふ自立再生社会では早晩消滅する。

雇用は、大家族の単位共同社会(まほらまと)に吸収され、奢侈な過剰消費はなくなり、適正な消費によつて経済は安定する。

自然と向き合つた暮らしにより、食糧自給、エネルギー自給を個々の大家族で達成させることができれば、契約で結ばれた事業者と労働者との他人同士による利益共同体ではなく、親子、兄妹などの親族同士の助け合ひによる信頼関係のある単位共同社会となつて、全ての人々が裁量労働によつて幸せと安定を意欲的に目指すことができるのである。

南出喜久治(平成30年4月15日記す)


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