自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H30.12.01 第百十二回 山西省残留将兵の真実(その九)

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百十二回 山西省残留将兵の真実(その九)

ひのしたを ときはなちたる すめいくさ みをころしても かへるうぶすな
(日の下(世界)を解き放ちたる皇軍身を殺しても帰る産土(皇土))


(S名簿の虚偽記載)


S名簿によれば、昭和21年3月14日に「南団柏着」とあるが、同日15時付の軍令電文(第一軍参謀長「独歩14旅参電第451号」)の内容と比較すれば、明らかに矛盾し、虚偽であることが明らかである。


同電文から判明することは、①前日13日夜半に約3箇団の敵軍を包囲攻撃中のところ、14日13時に第243大隊主力が来遠鎮を出発して急援させ、第14旅団付近に蠢動する敵軍を徹底的に覆滅させるために、布川大尉は特務団編成要員を以て一大隊を編成して即時出発し第243大隊の戦闘に協力すべしとの軍令が存在すること、②これによりSは布川大尉の率ひる大隊傘下の中隊長として来遠鎮へ出撃したこと、③14日15時に出撃命令を受け、間もなく出撃した状況下では、甲第17号証のとほり翌15日も敵軍徹底覆滅のために激戦中であつて、その戦闘中に召集解除を受けうる余地はあり得ず不可能であること、などである。


さらに、同電文は、発信地が「南団柏」とあるやうに、南団柏には独立歩兵第14旅団司令部が置かれ、ここから隷下大隊に発信され、南溝に大隊本部のある布川大隊(第244大隊)へも発信されたものである。

いづれにせよ、同電文からして、昭和21年2月上旬には、布川大隊は、本部のある南溝に集結し、大隊長より帰国延期、残留命令を拝命し、大営盤へと転戦する途中の同年3月14日、南団柏にある第14旅団司令部から電文による出撃指令を受けたのである。


もし、布川大隊が同日に第14旅団司令部のある南団柏へ到着したといふのであれば、同司令部としては布川大隊に対して直接に出撃命令を伝達するのであつて、同所に駐留する布川大隊に対してわざわざ電文によつて出撃命令を伝達するといふ迂遠な方法を採つたと政府が主張するのであれば、それは噴飯物と言はざるを得ない。この電文の存在は、Sを含む布川大隊主力が同日には南団柏に到着してゐないことを物語る。つまり、この電文はSの「南団柏不在証明」に他ならず、S名簿の当該記載は明らかに虚偽の記載である。そもそもSは、一度も南団柏へ行つたことがないのである(平成15年2月3日付け及び同年9月16日付けS陳述書)。


さらに、S名簿によると、翌3月15日に、「善行證書附與」とあつた記載を削除してゐるのであるが、そもそも善行証書なるものを附与された事実はないにもかかはらず、これが記載され、いづれかの時点でこの記載が削除されてゐるといふ意図的な偽装行為の事実を推認させる。これは、おそらく、同日の「現役満期除隊」とあつた記載を「召集解除」と訂正したときと同時になされたものである。なぜなら、直線定規を用ゐて二条の線が引かれてゐる2箇所の削除部分の態様が同じ状況だからである。

「善行證書附與」と「現役満期除隊」とは両立し得ても、「善行證書附與」と「召集解除」とは両立し得ない。帰還命令に違反して自己の意思で残留したために召集解除となつた者に善行証書を附与することは矛盾することになるからである。


ところで、そもそも同年3月15日に「現役満期除隊」といふことは絶対にあり得ない。前述のとほり、陸軍における現役の在営期間(服役期間)は2年とされ、法第17条により徴集年の12月1日を起算日として翌々年の11月30日を以て満期除隊となるのであつて、その短縮がなされたとしても、最長60日に過ぎないのであるから、現役満期除隊の時期は、9月30日以前に遡ることはなく、3月15日に満期になることは絶対にあり得ないからである。


しかし、S名簿がこれを「召集解除」としたのは、その誤りに気付いて訂正したのではない。これはあくまでも作為的に改竄されたものである。その証左としては、Sと同様に、多くの山西省残留将兵の各陸軍戦時名簿にも同様の記載が散見されるからである。たとへば、Sの行政訴訟事件(京都地方裁判所平成13年(行ウ)第15号)と同種事件である東京地方裁判所平成13年(行ウ)第110号、第132号ないし第143号事件(以下「関連事件」といふ。)のSらの陸軍戦時名簿においても、昭和21年3月15日から同月21にかけて、「現役満期除隊」、「現地満期除隊」、「現役現地除隊」、「現地除隊」、「現地現役除隊」などとその表現はまちまちであるものの、いづれも現役満期除隊の意味と理解しうる表記があるが、前述のとほり、時期的にも「現役満期除隊」とはなり得ず、ましてや、在営期間の無期延長がなされてゐる将兵には「満期」はあり得ないにもかかはらず、このやうな誤つた記載がなされてゐる点を指摘することができる。


(現役将校の地位の継続)


昭和21年4月15日付けの第一軍司令官、参謀長「乙集参甲電第351号号外(起案用紙)」による軍令には、「誠字第307号ニヨリ日本軍民ノ中国残留ハ許可セラレサルコトヽナレリ 就キテハ本命ニ従ハスシテ今後山西側ニ脱走セル者ニ対シテハ日次ヲ遡リ3月16日以降3月25日迄間ニ於ケル除隊者トシテ処置セラレタシ(但現役将校ノ轉役ハ認メラレス) 但シ今迄ノ間ニ於テ逃亡シ特務団等ニ入リタル者ニ対シテハ逃亡者トシテノ手続ヲ採ルモノトシ其ノ官職氏名ヲ改メテ速カニ報告セラレ度 依命」と記載されてゐる。


Sは、当時陸軍歩兵現役将校(ポツダム大尉)であつたので、「現役将校ノ轉役ハ認メラレス」との部分に該当することになる。この意味は、Sのやうな現役将校の場合は、現役将校から予備役将校への「轉役(転役)」が認められず、「除隊者」扱ひをしないことなのである。換言すれば、現役のままであり、召集解除、現役免除その他の処分はなされず、現役将校の地位を喪失しないといふ意味である。


また、この括弧書の部分「但現役将校ノ轉役ハ認メラレス」は、訂正後の字句であり、訂正前は「但現役将校ヲ除ク」とあつたので、これは、実質的訂正でなく形質的な字句の訂正であつたことを意味する。つまり、Sら現役将校については「除隊者」として処置しない「例外」であり、下士官、准士官、兵とは異なる扱ひがなされてゐたことになる。


それゆゑ、この点からしても、Sの現役将校(大尉)の地位は、政府の主張する昭和21年3月15日には喪失してをらず、一か月後の前掲4月15日付け軍令が発令された時点でも除隊者ではなく、その後においても復員(昭和34年7月26日)までは現役将校の地位にあつた。


従つて、帰国延期、残留命令の有無を論ずる以前に、否、その有無とは無関係に召集解除処分自体がなく、復員まで現役将校としての地位にあつたことになる。


(「長男基準」の意味するもの)


本件山西残留将兵問題において、多くの将兵の証言に共通するのは、「長男は優先的に帰還させる」といふ残留選抜の基準があつたとする点であるが、一体この基準は何を意味するのであらうか。


総力戦による我が国の窮乏と混乱の現状を踏まへ、奪はれた独立の回復と国家再生を実現するためには、我が国の国力を回復させる不断の自助努力は勿論のことであるが、閻錫山率ゐる親日独立政権を山西省に樹立させ、その政治的、経済的牽引力によつて我が国の独立を一層推進させるといふ日閻密約の実践からすれば、我が国と山西省のそれぞれの実情に則して最も合理的な基準で「復員要員」と「残留要員」とを選別分離する必要があつたのである。


まづ、復員要員は、戸主制度、家督相続制度などで構成される我が国の家族制度の基盤となつてゐる家父長制家族制度からして、嫡男(一般には長男)を優先的に選抜して内地の国土・国力を復興させる基軸勢力とし、また、残留要員としては、精鋭将兵を優先的に選抜し、山西省独立戦争遂行の主力とすることである。ここに、選抜基準としての「長男基準」が登場してきた由縁がある。


そして、残留要員に対しては残留命令を行ひ、その名目的な処理としては細則第6条及び実施細則第9条に基づく「召集解除」としたのであるが、これが不存在かつ無効であることは前述のとほりであるとしても、この「長男基準」からして本来ならばこの名目的な基準に基づく「除隊」の根拠としては、「召集解除」ではなく、前記第一の五で述べたとほり、これと同等の効果のある「現役免除」を意味するものであつたはずである。つまり、敗戦後の内地の状況からすれば、現役兵が長男であれば、いはゆる家事故障者に該当することが推定されたからである。


それゆゑ、「家事故障者の現役免除」の方針に近似したものとして、代替的な簡易基準としての「長男基準」を代用したのであつて、家事故障者の要件を緩和して、長男であれば家事故障者とみなして現役を免除してもよいといふ方針が採られたことになる。

換言すれば、原則として残留させ、例外として長男(ただし、現役将校を除く)であれば「現役免除」して復員させるといふ基準が採用されたといふことになるのである。従つて、原則は復員、例外として残留といふ、原則と例外とが逆転した基準では決してなかつた。つまり、精鋭なる一兵団の残置を命ぜられた第一軍においては、「志願残留」ではなく、「志願復員」であつて、他の外地部隊とは原則と例外の逆転運用がなされてゐたのであるから、残留将兵に対する残留命令が存在し、仮に「召集解除」の形式措置が書面上なされてゐたとしてもそれが無効であることは明かである。


(第十総隊長今村方策大佐の自決)


ところで、これまでに判明した証拠等によれば、第一軍による特務団徴用指示(編成命令)による残留命令の存在が確認できる時期としては、昭和21年2月2日付けの第一軍参謀長「乙集参甲電第107号」の軍令が最も早いものであり、これは、Sが昭和21年2月上旬に布川大隊長から帰国延期、残留命令を受けたとの供述とほぼ符合する。


当時の第一軍は、組織、規律、指揮系統、装備、戦闘能力等において山西省にある軍事組織の中で最強の軍隊であり、上官の命令に抗命しうる状況にはなかつた。

また、特務団編成に関する一連の命令・指示は、第一軍の「軍令」によるものであつて、もし、政府が主張するとほり、第一軍参謀長「独歩14旅参電第511号」(同月20日14時)の軍令電文にある「東沁軍」、「竹兵團」及び「松兵團」なる部隊は第一軍には存在しないことを理由とするのであれば、南団柏にある第一軍隷下の独歩第14旅団の前記軍令電文によつて何故これらの部隊に発令されてゐるのかといふ点を全く説明できない。


そもそも、政府が、第一軍から発せられた一連の軍令電文の内容から、それらが軍令でないと反論すること自体が自家撞着であつて、この点について、政府は今では全く沈黙するのみである。

また、「特務団」、そして、その最終的名称である「第十総隊」は、その組織、指揮命令系統などにおいて第一軍と全く同様であつて(会議録参照)、日閻密約による政治構想を実現するための第一軍再編後の軍事組織であつた。

Sが述べてゐるとほり、この山西残留将兵問題の実相は、第一軍首脳の戦犯回避、敵前逃亡による保身のための変節によつてその悲劇が生まれたと言つて過言ではない。その事実はこれまでの状況証拠によつても証明充分であるが、太原陥落の昭和24年4月24日に、第十総隊の総隊長今村方策大佐(今村均大将の実弟)が、人民解放軍に対し第十総隊隊員全員の助命を取り付けたのちに、「閣下にだまされた」と言ひ残して自決された場面に立ち会つた第十総隊司令部勤務隊員で関連事件の原告でもある梅地四郎の平成14年11月8日付け陳述書によつても明かである。ここで「閣下」とは、澄田中将、山岡少将のことであることは多言を要しない。

南出喜久治(平成30年12月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ