自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第二百三回 祭祀の民 その十三

おこたらず あまつくにつを つねいはひ まつりてはげむ くにからのみち
(怠らず天津國津(の神々)を常祭祀して励む國幹の道)


【虫のいろいろ】


近頃、民俗学的な視点からすると、祭祀の心がなく、その実践をしない「人間」の生活と、卵から孵化して生きてゐる「虫」の生活とに、どれほどの違ひがあるのだらうかと思ふやうになつた。


虫は、卵生であり、卵の形のまま母体外に生み出されて孵化するので、親の顔は見てゐないし、親の存在すら知らない。

誰から生を受けたことも知らずに、本能の赴くまま生まれ育つて活動し、卵を産んで死んでゆく。これが虫の一生である。


他方、人間は、哺乳類であり胎生なので、人間の一生は、出産によつて親から生を受け、親に育てられて生育する。卵といふ自己完結的な閉鎖したカプセルの中で育つて自立するのではなく、家庭といふ半閉鎖的な生活カプセルの中で育つといふ点で、虫とは違ふ。

哺乳類では、その成育過程と所要時間に長短はあるが、親による保護、授乳、給餌、学習などを受けるので、親が存在し、それに依存しなければ生きてゆけないことは認識できる。


卵生であれば、まさに親はなくても子は育つ。そのことを胎生である人間にも求めたのがルソーであつた。


そのルソーをエドマンド・バークは痛烈に批判した。そのことを『國體護持総論』第一章では次のやうに述べてゐる。


「バークは、フランス革命を目の当たりにし、『フランス革命の省察』(1790+660)を著して、「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、一七八九年からの野蛮な行動など及びもつかぬ水準の徳と知恵を祖先の中に認識したことでしょう。」「あたかも列聖された祖先の眼前にでもいるかのように何時も行為していれば、・・・無秩序と過度に導きがちな自由の精神といえども、畏怖すべき厳粛さでもって中庸を得るようになります。」として、フランス革命が祖先と伝統との決別といふ野蛮行為であることを痛烈に批判したのである。


そして、バークは、ルソーを「狂へるソクラテス」と呼び、人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが我が子5人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に触れて、「ルソーは自分とは最も遠い関係の無縁な衆生のためには思いやりの気持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞悪い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤児院へ送り込む」とその悪徳と狂気を糾弾した。

また、イボリット・テーヌは、「ルソーは、奇妙、風変りで、しかも並すぐれた人間であったが、子供のときから狂気の芽生えを心中に蔵し最後にはまったくの狂人となっている」「感覚、感情、幻想があまりにも強すぎ、見事ではあるが平衡を失した精神の所有者であった」と評価した。

このルソーの人格の著しい歪みと人格の二重性は、ルソーが重度の精神分裂症(統合失調症)と偏執病(パラノイア)であつたことによるものであり、犬猫の仔が親に棄てられても立派に育つので人間の子供も同じにするとのルソーの信念は、11歳から16歳にかけて親のない浮浪児であつたために窃盗で生活してきたことの経験からくる怨念による「転換報復」の実行であつたらう。このやうな反吐の出る人でなしの思想が人類の未來を切り開く正しい考へであるとする妄信が現代人権論であり、おぞましい悪魔の囁きに他ならないのである。

いづれにせよ、ルソーの歪んだ人格から生まれた思想は、ホッブズの考へを更に発展させた社会契約説である。ホッブズが社会契約の対象を私的な権利(自益権)のみとしたのに対し、ルソーはこれに公的な権利(公益権)をも含めたことにより、社会契約なるものが難解で複雜怪奇なものと化したのである。つまり、私的な利害を持つ個々の人民の意志の総和(全体意志)ではなく、個々の人民の私的な利害を超えた公的な利益を目指す意志(一般意志)に基づく一体としての人民がなした社会契約に基づくものとし、一般意志の行使が主権であり、一般意志を主権の作用の基礎とするのである。そして、「政治体または主権者は、その存在を社会契約の神聖さからのみ引き出す」として、社会契約は「神聖」なものとするのであるが、ここにそもそも論理破綻がある。まづ、私的利害の総体である全体意志から抽出されるはずの一般意志がなにゆゑに「公的」な性質に転化するのか、ましてや、それがなにゆゑに「神聖」なのかといふ素朴な疑問について何も説明されてゐない。否、できないのである。」


社会契約説の虚偽と欺瞞はここでのテーマではなく、バークがルソーの教育論を批判した部分、すなはち、


「人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが我が子5人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に触れて、「ルソーは自分とは最も遠い関係の無縁な衆生のためには思いやりの気持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞悪い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤児院へ送り込む」とその悪徳と狂気を糾弾した。」


との点に留意する必要がある。


つまり、「人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へ」とするルソーの教育論は、殺戮の限りを尽くした虚偽と欺瞞のフランス革命だけではなく、ロシア革命にも持ち込まれた。


家族をバラバラにして崩壊させれば、親と子供の自立を推進させ、個人主義、合理主義を徹底させることになるといふ歪んだ思想は昔からあつた。これは、ルソーからフーリエに引き継がれた家族制度解体論に由来するものであるが、特に、レーニンを支へたアレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイといふ女性革命家は、家族制度が封建時代の産物であり、かつ、資本主義の温床であるとした上で、資本主義社会における女性労働者の増加により家族の解体が進み、共産主義社会では、さらにそれが促進され、家事と育児の社会化によつて女性の解放と家族の消滅が実現するとの女性解放論を唱へたからである。


老人だけを集めた養老院、老人ホームなどで老人だけを他の世代と隔離し、終末施設で亡くなるまで生活させ、または、終末医療を行ふ一方で、子供だけを集めた孤児院(児童養護施設)に収容し、世代ごとに隔離をして年長者と年少者との交流や接触を禁止して、文化や伝統の伝承を断ち切つた上で、隔離収容した子供に革命思想を吹き込めば革命を容易に成功させることができるからである。


いま、このやうな政策は、我が国で既に採用されて徹底的に実施されてゐる。児童相談所は、その革命の先兵となつて、親と子とを引き離すことに血道を上げてゐるのである。


いまや、我が国では、「人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほり」の隔離政策が、児童相談所やこれから発足するこども家庭庁で、自立支援といふ名で親と隔絶させる政策を大々的に推進させて行くことになる。


しかも、このやうな政策によつて、親も母性、父性を劣化させ、子にも本能を強化する教育が施されないために本能的に劣化し、親は子を、子とは思はなくなるほど愛情が希薄になる。子も同様に、親を親とは思はず、親と敵対し、あるいは親を金づるとして収奪する対象としてしか扱はなくなる。


そして、若い世代が家庭を持つて子供を産み育てる本能と意欲も劣化し、少子化、劣子化が進んでゐる。


いまや、人間は、限りなく卵生ないしは卵胎生に近い状態になつてきた。ところが、虫ならば本能に従つて子孫を残すが、人間は、その本能すら劣化してきた。


人間は、ほとんど「虫」に退化したと言へる。


『國體護持総論』の第三章では、このやうに述べてゐた。


「このやうな敗戦利得者の有効論者は、占領統治の歴史的事実を捏造してまで占領憲法を有効であるとする「確信犯」であり、憲法学者(憲法業者)や法曹界、政界、官界、経済界などは、ほぼこれらの輩で占められてゐる。しかし、それ以外の有効論者の多くは、洗脳されて曲芸を仕込まれた「蚤」と、御為ごかしの「ハーメルンの笛吹き男」に譬へられる。

まづ、「蚤」についてであるが、これは、第二章で述べたとほり、尾崎一雄が昭和二十三年一月の『新潮』で発表した『虫のいろいろ』の中で、「蚤の曲芸」のことである。

これを再述すると、次の一節のことである。

「蚤の曲芸という見世物、あの大夫の仕込み方を、昔何かで読んだことがある。蚤をつかまえて、小さな丸い硝子玉に入れる。彼は得意の脚で跳ね回る。だが、周囲はは鉄壁だ。散々跳ねた末、若しかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。試しにまた一つ跳ねて見る。やっぱり駄目だ、彼は諦めておとなしくなる。すると、仕込手である人間が、外から彼を脅かす。本能的に彼は跳ねる。駄目だ、逃げられない。人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覚。この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。そこで初めて芸を習い、舞台に立たされる。このことを、私は随分無惨な話と思ったので覚えている。持って生まれたものを、手軽に変えてしまう。蚤にしてみれば、意識以前の、したがって疑問以前の行動を、一朝にして、われ誤てり、と痛感しなくてはならぬ、これほど無惨な理不尽さは少なかろう、と思った。」(文獻240)。

ここで、芸を習つた蚤とは、属国意識、敗北意識に毒されて似非改憲論(改正賛成護憲論)とか似非護憲論(改正反対護憲論)とかを騷いでゐる日本人、硝子玉とは、マスメディアなどで喧伝される戦後体制、仕込手とは、連合国主導の国連体制の喩へであることはお解りいただけるであらう。」


祭祀の心を失つた日本人は、虫と区別が付かない。一寸の虫にも五分の魂があると言はれるが、跳ねることを諦めた蚤は、蚤の魂を失ふ。日本人もまた、卵生や卵胎生に近い生き方を続け、祭祀の心を失ひ、護憲、護憲と燥いで、個人主義を謳歌し、跳ねることを完全に諦めたこの「芸を習つた蚤」と全く同じになつてゐるのである。

南出喜久治(令和4年11月1日記す)


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