國體護持總論
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著書紹介

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國體の形成過程

帝國憲法第一條の「萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といふ表現にも見られるやうに、「萬世一系」とは、文化・歴史・傳統の樞軸として、規範國體の中核的要素を構成してゐる。天皇統治とは、ブルンチュリ(Johann Kaspar Bluntschli)の見解であれば、神政政治(Theokratie)であり「神の支配する政治」である。これは、ブラクトン(Henry de Bracton)の「國王といへども神と法の下にあり」との名言の意味する「法の支配(rule of law)」、つまり「國體の支配」と共通した統治理念のことである。つまり、第一條は、「國體による統治」を意味し、「權力のよる統治」を意味するものではない。

この「神(國體)の支配する政治」の理念は、支那の律令制度を修正して導入した際に顯著となつた。支那の律令制度は、中央集權國家を建設するため、官職制と律令格式の法體系を確立したものであつて、それを人的に支へるのは官吏登用のための科擧制度である。即ち、科擧制度あつての律令制度であつた。しかし、我が國は、科擧制度を導入せず、從來よりの部族血縁連合による統治の形態を維持したのである。官吏登用の科擧制度を導入しなかつたため、官吏の任用は各部族から均等に求められることになつたが、その後次第に律令組織機構の主要官職について、有力部族による寡占が進み「貴族制」へと發展した。この貴族制は、皇位を維持する機能を果たすとともに、その反面において閨閥による皇位簒奪の危險も孕んでゐたことから、それを防止するために男系男子の皇統が守り續けられてきたのである。

さらに、特徴的なものは、行政組織において、國政を統括する太政官とは別に、神祇官といふ朝廷の祭祀を司る官職を設けたことである。この神祇官は、支那には存在しない官職であり、これを太政官よりも上位の官制としたのである。これは、我が國古來の法(正義、國體)の支配の理念ともいふべき「神政政治」の顯現であると同時に、王覇辨立を意味する「王覇の辨へ」の實踐でもある。

この「王覇の辨へ」とは、既述のとほり、皇室の傳統的な統治理念であつて、天皇(スメラミコト、オホキミ)の「王者」としての「權威」(大御稜威)に基づく「覇者」への委任により、「覇者」がその「權力」によつて統治する王覇辨立の原則である。これは、有史以來、殆ど例外なく實踐されたが、大化の改新(645+660)、延喜・天暦の治(901+660~956+660)、建武の中興(1334+660)及び大政奉還(1867+660)が天皇親政(王政復古)となつた希少事例である。なほ、「王者」の用語は、支那の易姓革命思想である「王者易姓受命」(『史記』)の「王者」の意味であつて、同じく支那の用語である「封冊」、即ち「皇帝」から國王の官爵を授けられ所領を安堵される「王」の意味ではないことに注意されたい。

政治史的に見れば、天皇親政の時代は希少事例であり、いづれも政治の大きな變革期に登場するが、その時代は常に長くは續かなかつた。有事や變革黎明期においての天皇親政、平時においての天皇不親政といふ現象である。そのことからして、大政奉還後から元老政治が終焉を迎へる昭和初期までは、天皇親政の時代であつたとも言へるが、それ以後は、「覇者」は軍部と内務省であり、その二大覇者による統治であつた。これは武家の棟梁による「幕府政治」そのものであつた。公家政權は天皇から統治權を簒奪したが、武家政權(幕府)は統帥權のみならず統治權まで簒奪した政治制度であつた。これとの比較からすれば、軍部と内務省は、武家政權が一體的に有してゐた統帥權と統治權とを分離して棲み分け支配してきたといふことができる。それが、ポツダム宣言受諾をめぐる御前會議において天皇陛下の御聖斷が下り、瞬時的に天皇親政となつたが、ポツダム宣言受諾により、再びマッカーサーといふ覇者が現れ、征日大將軍となつて「東京幕府」を開いたことになる。その後の「東京幕府」は、將軍不在のため歴代の内閣總理大臣が「執權」として統治してきたのである。そして、再び國家大改造のため、倒幕の時期が到來してゐるのである。

いづれにせよ、日本の最高權威(大御稜威)は一貫して「皇統」にあり、我が國には覇者の交替(維新)はあつても革命が一度もなく、また、なかつたことによつて傳統を形成してきたといふ嚴肅な事實がある。

大化の改新以來、邪惡な權力の打倒を根據付けた「維新思想」や、承久の亂(1221+660)において鎌倉幕府側が依據した「君側の奸」を排除する思想は、皇統の權威(大御稜威)の普遍性を基礎として、權威に整合しない權力を打倒し、「覇者といへども王者の下にある」とする神政政治の理念であり、「國體の支配」の理念なのである。

承久の亂は、仲恭天皇が僅か四歳で踐祚された承久三年(1221+660)四月二十日の翌五月に勃發した。天皇が讓位後に上皇となつて「院政」を行ふやうになつたのは白河上皇の時代(1086+660)から始まり、この戰亂も後鳥羽上皇の建久九年(1198+660)正月から始まつた長期院政下に起こつた。院政は、天皇を讓位した上皇が「治天下の君」(治天の君)となつて、天皇に代はつて政務を執る政治形態であり、このことによつて、藤原氏が天皇の外戚として攝政や關白として政務を執る攝關政治を排除したことに意義があつたものの、天皇親政を認めないことにおいては、攝關政治と同樣でありその弊害もまた同じである。承久の亂は、上皇側も鎌倉側も、君側を清め奸臣を除くとの大義名分に基づく天皇不在の覇權爭奪戰爭であつたのである。

ともあれ、神政政治の理念は、我が國における「法の支配」の理念であり、それが王覇辨立の原則である「王覇の辨へ」をも演繹するものである。そして、これらの理念及び原則の源泉は、「和の精神」にある。聖德太子は、外交において、中華思想といふ排外差別思想の支那に從屬せず、かつ征服もしない對等の友好關係を形成しようとして、對外的に「和」の實踐を行はれた。『隋書』倭國傳によれば、遣隋使が隋の煬帝に宛てた國書(607+660)に「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや。云々」とあり、さらに、翌年の『國書』にも「東の天皇(すめらみこと)、敬しみて西の皇帝に白す」とあることから、このことが窺へる。そして、國内においても、『日本書紀』卷第二十二『豐御食炊屋姫天皇 推古天皇』(トヨミカケシキヤヒメノスメラミコトすゐこてんわう)の項に、『憲法十七條』(いつくしきのりとをあまりななをち 資料四)を制定され「和」の精神(以和爲貴)を國是とされた。それは、政治のみならず、産業、文化、藝術など全ての生活事象に普洽した。

そして、この「和」の精神は、平等公平の理念を演繹する。即ち、平等を手段とし、公平を目的とする理念は、和の精神に由來する統治の基本原則なのである。それは一視同仁の實踐である『萬葉集』に象徴される。古代國家において、文化、藝術に對する敬意の念は、現在では想像を絶するほど大きい。當時において最高級の文化・藝術は、國家の最高權威の象徴であつて、『萬葉集』はその頂點に存在する。古代「やまとことのは」(大和言葉)は、それまで宣命體(宣命書き)で表記されてゐたのであるが、『萬葉集』は、その表記に代へて、後世の「かな」の源流となつた「萬葉かな」による表記といふ畫期的な世界最古の國家編纂歌集である。『萬葉集』の意義は、單に、大和言葉を日本の統一言語としたことにとどまらない。萬葉歌人は天皇から防人、農民まで、その範圍は廣範であり、作品の評價は、作者の身分や地位で左右されるのではなく、作品自體の評價によるとの基準に基づいたことにある。これは、價値の創造は平等公平に能力に即應して實現するとの平等公平の理念を顯し、大化の改新、建武の中興や明治維新のやうな王政復古の時期において、公地公民制や四民平等制などを基本政策としたことは、この理念の發現である。

また、和魂漢才などの自決と進取の精神も、差別と偏見のない價値崇拜ともいふべき平等公平の理念に由來する。この自決と進取の精神は、初めて佛教が傳來したとき、特徴的に發揮された。即ち、當初は、傳來佛教と随神の道との相剋が生れたのであるが、共に多神教(總神教)であることを契機に兩者は止揚(Aufheben)され、『日本書紀』卷第二十一『橘豐日天皇 用明天皇』(タチバナノトヨヒノスメラミコトようめいてんわう)の項にあるやうに、「天皇信佛法尊神道」(スメラミコト、ホトケノミノリヲウケタマヒカミノミチヲタフトビタマフ)として、その後、いはば「日本教」として再生發達していつた。

ところで、前述したとほり、この佛教の受容について、このことを以て國體が變質したとする見解がある。その根據は、聖德太子の憲法十七條において、「二に曰はく、篤く三寶を敬へ。三寶とは佛・法・僧なり。」とあることから、これを以て我が國の眞柱が敬神から崇佛へと變化したとするのである。しかし、この見解はこれまでの俗説に過ぎない。この點は特に重要であることから、以下の理由により誤りであることの概要を再述するので、よく肝に銘じていただきたい。

聖德太子は、敬神崇祖と輪廻轉生による盂蘭盆會を實施され、憲法十七條發令の三年後には祭祀神祇についての『推古天皇の御詔敕』(資料五)が渙發され、聖德太子は群臣を率ゐて篤く天神地祇を祀られた。『憲法十七條』には、この祭祀神祇のことなどが書かれてゐないが、それは、いはば當然のことである。憲法十七條の性質は、特に注意すべき規範と新設の規範が集大成された付加的な規範であり、古來よりの規範國體を變更するものではない。國體規範の根幹の部分であつて當然のことである祭祀神祇、敬神崇祖と輪廻轉生、さらに、四劫(成劫、住劫、壞劫、空劫)の循環をわざわざ書く必要はなかつた。それゆゑ、佛教の受容によつて國體に變更や變質はない。敬神から崇佛ではなく、敬神と崇佛が兩立し、神佛混淆が進んで神道が強化され、我が國の信仰生活の原型として包攝的に形成されてきたのである。しかし、憲法十七條を以て敬神崇祖、祭祀神祇を疎かにするかの如き不心得が生ずることを懸念されて、推古天皇の御詔敕に至つたものである。

そもそも、我が國には、釋迦の説いた純粹佛教は傳來してゐない。稻作文化圈内の多神教(總神教)文化の交流として、支那の揚子江(長江)下流付近にあつた呉の國から我が國に「私傳(密傳)」された傳來佛教は、多神教文化圈を經由する特質として、既に儒教、道教や土着の民族宗教などが融合した解脱の教へとなつてゐた。「呉」の國とは、我が國と同樣、水稻作に最適な梅雨型氣候のある中國の揚子江(長江)下流付近に存在した國家であり、①周代及び春秋時代にかけて春秋五覇の一つである「呉」(660-1000頃~660-473)、②三國時代の一國として孫權が建てた六朝の初代王朝であり六朝文化の中心であつた「呉」(222+660~280+660)、及び、③五代十國の一國(902+660~937+660)の三國を總稱するが、稻作は、この「呉」から日本へ直接傳播されたものであり、それに伴つて、稻作に必要な農具の鐵器などの金屬器製法技術などの文化が流入した。稻作は、治水、灌漑、土木、耕作・栽培・保存・再生技術などの體系的技術と、栽培に適した氣候・風土に關する農學的知識を總合した農耕文化であつて、種苗だけを取得すれば簡易に傳播するやうなものではない。そして、これらの技術と知識を傳へ、これを取得するには、文字(漢字)が不可缺であつて、稻と文字とは一體として我が國に傳はつたはずである。呉の國があつた揚子江(長江)下流付近や韓半島南部、それに日本列島は、梅雨型氣象といふ稻作に適した氣候・風土であり、我が國で多く栽培されてきた稻が我が國の野生種ではなく傳來種と交雜した栽培種であることから、呉の國付近から傳播したものであることは確かである。また、氣候や地勢が類似する地域は生活樣式が近似してゐるため、他の地域への場合と比較して、外來文化の吸收度も格段大きくなる。漢字が表意文字であつたことも、異言語社會への技術傳播を促進した一因でもある。そして、文化傳達の媒介となる文字(漢字)は、農耕技術以外の豐富な技術と文化をも傳播させる。和服の反物を意味する「呉服」の語源が、「呉」の國の織物製法に由來することもその一例であるが、さらに、傳來佛教の思想についても例外ではない。

大乘經典は、釋迦入滅(660-483又は660-383)から三百年ないし四百年を經て成立したものであり、それが「呉」の國を經由して漢字と共に我が國に傳來した。富永仲基(1715+660~1746+660)が『出定後語』で指摘したやうに、大乘經典は釋迦の教へとは關係がないとまでは斷言しえないとしても、少なくとも釋迦の純粹な教へを傳へてゐるとは斷言できない。我が國に傳來した大乘經典その他の主要佛典や主な生活言語の漢字發音表記(數字、佛教熟語、戒名などの表記)は、いづれも呉音であり、以後に百濟から傳來した漢音(唐音)表記の漢字や佛典とは著しく異なる。これは、漢字や傳來佛教が、國家間で正式に公傳される遥か以前に、民間での私傳(密傳)が盛んに行はれてゐた例證である。佛教私傳は、繼體朝(507+660~531+660)の頃に韓半島からの渡來人によるとする見解があるが、それでは公傳の時期と殆ど同時といふことになる。しかし、韓半島からの渡來人が呉音で傳へることはありえず、「法華經」の音讀が漢音(ほうかけい)ではなく呉音(ほつけきやう)であり、「般若心經」の音讀が漢音(ばんじやくしんけい)ではなく呉音(はんにやしんきやう)であることなどからして、公傳時には既に呉音の漢字と傳來佛教が定着してゐたはずである。そのため、後世になつて百濟の聖明王から朝廷に、漢音の發音で佛典等が「公傳」された時(538+660又は552+660)には、呉の國から呉音の發音で私傳(密傳)された傳來佛教が既に日本に定着してゐたと思はれ、その後も、佛教論爭を經た後、宗教的混淆が一段と深化したものと推定される。

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