國體護持總論
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帝國憲法下の二大權力

そのやうな權限の空白領域に進出してきた執政機關は、次に説明するとほり、「内務省」と「陸海軍」である。その結果、各權力間の抑制と均衡を實現する「權力分立制度」が實現したのではなく、實際には、「權力分割構造」ないしは「多重權力構造」となつてしまつた。そのため、この二大權力機關は、自己保存本能と自己增殖本能により、他の國家機關の權限まで侵奪して國の内外に擴大したのである。

「内務省」は、明治六年十一月十日に設置され、同十八年には、官房、總務、縣治、警保、土木、衞生、地理、戸籍、社寺、會計の十局から構成され、國内の行政全般を行ふ我が國最大の官僚機構に成長した。この内務省は、行政全般に對して、天皇や内閣(國務大臣)からも實質的に獨立した官僚機構として出現し成長してきた。

そして、國民のありとあらゆる經濟活動その他の生活全般に干渉と監視を行ひ、複雜かつ多岐にわたる事項についての許認可權限を有し、國民生活の隅々まで權力の網をかぶせて行つた。

警察權力が思想彈壓に着手したときから「警察國家」へと轉ずることは歴史が證明してゐる。そして、これを援護射撃するやうに、「擧國一致」のスローガンによる官製の「國民精神總動員運動」がたどりついた『國家總動員法』(昭和十三年四月一日公布)の制定と大政翼贊會の結成、「隣組」による相互監視制度によつて、内政の雄である内務省の權力を不動のものとしたのである。

また、この「内務省」に勝るとも劣らない軍事の雄である「陸海軍」、とりわけ「陸軍」は、その建軍以來の「連戰連勝」を強調謳歌し、特に、昭和初期頃から「統帥權の獨立」といふスローガンによつて自己の權力增殖を謀らうとした。

この「統帥權の獨立」の意味と、「狹義の統帥權」と「廣義の統帥權」の區別については、第一章で述べたとほりであるが、軍部は、これらの規定が絶對君主制に由來する規定であるとして内閣(國務大臣)の干渉を排除しようとしたのである。天皇を大元帥陛下として、その廣義の統帥權は、國務大臣の「輔弼」なくして、軍の中央統帥機關(海軍では軍令部、陸軍では參謀本部)が天皇を「輔翼」して行使しうるとの解釋により、内閣(國務大臣)の權限外の事項とし、さらに、天皇自身からの指示をも排除したうへ、「軍部の獨立」を實現することを終局目的とするものであつた。「輔弼」といふ憲法上の用語の使用を避け、帝國憲法では用ゐられてゐない「輔翼」といふ用語を用ゐ續けたのも、内閣から分離獨立した獨自の權限として行使したいとする軍部の意圖の現れでもあつた。そして、内閣が、帝國憲法第十三條後段の天皇大權(條約大權)を輔弼して昭和五年四月二十二日、『ロンドン海軍軍縮條約』に調印したことについて、同月二十五日、軍部は、これを統帥權の干犯であるとして政府を攻撃したのが「統帥權干犯問題」である。軍備の削減を内容とする條約は廣義の統帥權にかかわるものであるから、これを政府が締結することは統帥權の干犯であるとする詭辯である。しかし、廣義の統帥權(第十一條ないし第十三條)も狹義の統帥權(第十一條)も、他の天皇大權と同樣、本來ならば帝國憲法第三條(天皇の政治的無答責の原則)及び同法第五十五條第一項(内閣責任政治の原則)に基づき内閣(國務大臣)の輔弼により行使されるものであつて、統帥權のみを慣習的に例外と解する根據は薄弱である。この軍縮條約の締結は、天皇の條約大權(第十三條後段)に基づき、天皇の編制大權(第十二條)を制約するものであるから、編制大權の干犯があるとすれば、編制大權は條約大權で制約されず、これよりも優越する權限であることを前提としなければならなくなる。

しかし、さうであれば、編制大權を干犯したのは、天皇が行ふ條約大權であつて、つまるところ天皇批判を行つてゐることに歸着する。現に、この統帥權干犯の主張の狙ひは、明らかに軍部へ天皇大權を委讓させ、「統帥部の獨立」を目的とするものであつた。そして、これらの目的を完全に實現することになつたのが「二・二六事件」以後である。

この二・二六事件が起こつた遠因は、昭和初期の金融恐慌、世界恐慌による國力の疲弊である。金融恐慌とは、昭和二年三月十四日、片岡直温大蔵大臣が衆議院で、東京渡邊銀行が破綻との失言から端を發し、取りつけ騷動が發生して多數の中小銀行が倒産に瀕した事態のことであつて、その背景には、四年前の大正十二年九月一日に起こつた關東大震災の打撃と第一次世界大戰以後の不況の長期化などがあつた。また、昭和四年十月二十四日、ニューヨーク株式市場の株價大暴落が發端となつた世界恐慌も起こり、都市勞働者、農民等は貧困に陷り、貧富の差を一層擴大し、農村、特に東北地方に目を覆ふやうな慘状をもたらした。我が國の農民の約七十パーセントが零細な自作農・小作農であつたため、その生活破綻の悲劇はさらに深刻となつた。その發生の病根と事態解決が遲延してゐる原因は、當時の政界・財界・官界(内務省)の癒着による官僚政治の構造的腐敗にあつた。これを變革するには、陸軍主導の國家改造しかないと判斷した陸軍皇道派(内治派)の青年將校が「昭和維新」を斷行しようとしたのが、この「二・二六事件」であつた。

そして、これに對抗する陸軍最大軍閥である統制派(外治派)は、この事件を皇道派追ひ落としの口實として利用し、この事件處理を通じて軍閥抗爭に終止符を打ち、陸軍を自派で統一することに成功し、廣義の統帥權を獨占的に手中に納めたのである。皇道派と統制派との對立は、情緒的かつ抽象的なものであり、軍内部といふ「コップの中」での覇權爭奪であつて、いづれも軍部肥大化による權力增大志向を阻止しうるものではなかつた。從來までは、軍内部の二大軍閥である統制派と皇道派との相剋が軍部の暴走を自肅的に抑制しうる可能性があつたが、「血盟團事件」(昭和七年)、「五・一五事件」(同年)及び「二・二六事件」を經て皇道派が壞滅した時點で、その相互抑制機能が完全に消滅した。

また、政府要人を殺害した二・二六事件までに至る一連の事件は、その後、政府要人の軍部に對する萎縮效果を生じさせるといふ後遺症を殘すこととなり、軍事政權強化に拍車をかけるに至るのである。

このやうに、二大權力は增殖し續け、國の内外においてこれ以上擴張しえないくらゐに肥大化し、「飽和絶滅」に至る自壞寸前の状態であつた。つまり、この飽和絶滅とは、たとへば、生體細胞とは異質であり獨立して增殖する癌細胞は、生體全體にまで增殖して飽和状態となれば、生體自體を滅亡させ、その結果自らも絶滅するといふやうに、增殖の限界點は飽和状態であり、それに達すれば絶滅することを意味するのである。これと同樣に、二大權力が限界點に達して全體主義的傾向へと進んで統治態樣が硬直化し、機能不全に陷つてゐた。

その原因としては、確かに、二大權力の增殖をもたらした帝國憲法の性質が内在的な要因であつたことは否めない。それは、前章で述べたとほり、平時において、原則として「統治すれども親裁せず」といふ帝國憲法の運用ではなく、實質的には英國流の「君臨すれども統治せず」といふ運用がなされ、しかも、政務と統帥とが一體としてなされるべき國務が分離し、「政務内閣」と「統帥内閣」といふ二つの内閣が出現したことが、二大権力の增殖する基礎にあつた。そして、それ以上に、我が國を取り卷く國際環境が二大権力の增殖を促進させた。明治維新以來、我が國は獨立を維持するため數々の戰爭や事變を餘儀なくされて東亞百年戰爭を戰ひ拔いたため、恆常的に戰時體制にあり、臣民もまた「常在戰場」の認識にあつたことが、全體主義的傾向を加速した最大の原因であつた。しかも、歐米の挑發と策謀によつて大東亞戰爭を仕掛けられた我が國としては、その最中に國内の政治改革を斷行しうるだけの餘力はなかつた。連合國がポツダム宣言で求めた「日本國國民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に對する一切の障礙」を除去することを戰前において實行することは、國論の分裂を招き、それがコミンテルンが策謀した内亂の危險を高めることになつたからである。

そして、敗戰を迎へ、GHQは、占領統治下において、陸海軍と共に、陸軍省、海軍省も廢止し、さらに、昭和二十年十月、治安維持法及び特高制度が廢止され、同二十二年十二月三十一日には内務省をも廢止されて、二大權力は解體された。しかし、このことは、あくまでもGHQの目的である「日本弱體化」のためであつて、非民主的かつ暴力的に推進された占領政策を、「日本民主化」といふ逆説的な美辭麗句を掲げて強行したのである。

いづれにせよ、停戰から、昭和二十六年九月八日にサン・フランシスコ(桑港)において調印された「桑港條約」が發效することによつて本土の獨立回復までの間になされたGHQの占領政策により、我が國の社會は、非獨立の異常な政治的・法律的状況に加へて、經濟・教育・文化・世相・社會心理などあらゆる側面において完全に混迷、停滯した。即ち、敗戰により、無秩序と混亂、貧困と不正が蔓延し、世相においては、焦燥感や厭世感による自暴自棄と怠惰に陷り、敗戰による劣等感や萎縮感に支配され、その反動として、拜金主義的傾向と政治的無關心へと追ひやられた。その状況下で、連合軍の徹底したナチ的な情報操作によつて、完璧なまでの衆愚政治が行はれたのである。我が國の社會は、過去の軍部・内務省(警察)による言論統制状況から脱却したものの、これに代はつて、これに勝るとも劣らない占領軍による想像を絶する異常な言論統制状況に變貌したのである。占領期のGHQの言論統制は、戰時期の内務省の言論統制と比較して、比べものにならないほど嚴酷なものである。ところが、前者を是とし、後者を非とする完全に倒錯した認識が今もなほ續いてゐるのは、GHQの洗腦が完璧なまでに成功したことを物語るものである。

このやうに、戰前の大正デモクラシーは流産し、また、戰前戰後を通じてなされた二種類の異質な言論統制により、我が國の社會では民主主義的素地がさらに脆弱となつた。その上、眞實を傳へるべきマスメディアは、戰前戰後を通じて、常に權力に迎合し續け、ついに國體護持と臣民の側に立つことなく、内務省權力とGHQ權力の言論統制に從つた報道しか行はなかつた。これが今もなほ續いてゐる。

このやうに、政治情報が與へられてゐない社會状況下での政治は衆愚政治の典型であつて、我が國の社會は、少なくとも占領憲法制定時において、本來的な政治的意志形成の前提を全く缺いてゐたことだけは明らかである。

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