國體護持總論
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代表制と直接制

このやうな状況であるにもかかはらず、依然として、多數決原理は、現在のところ、民主主義による意志形成には必須の制度として採用されてをり、國民の意志の抽出が直接的か間接的かの區別によつて、「代表制」と「直接制」とに分類されてゐる。

兩者は共に「民主制」の種類であつて、統治者と被統治者との間に自同性(同質性、identity)が認められるとされてゐる。しかし、後者では統治者と被統治者との間に、この自同の關係が當然に肯定されるのに對し、前者の場合は當然には肯定しえない。なぜなら、「代表」とは、本來、自同性(同質性)の存在を擬制するために設けられた抽象的かつ理念的な概念に過ぎず、これを自同性(同質性)が存在することの根據に用ゐることは、明らかな循環論法に陷つてしまふからである。

一般に、代表制では、まさに「代表」(representation)の關係であり、「代理」とは理念的に異なるとされ、前者は、議員が國民の意志と指圖による拘束を受けずに自らの意志で行動しうるのに對し、後者は、その拘束を受けると説明されてゐる。換言すれば、代表とは、選擧民からの「命令的委任」を受ける代理ではなく、「自由委任」の關係にあるとされ、國民全體から議會全體への委任と擬制される。これを「自由委任の原則」(命令的委任の禁止)と呼んでゐる。しかし、たとへば、占領憲法を例にとつてその規定を檢討すれば、代表(自由委任)形態になじむ規定と代理(命令的委任)形態になじむ規定とが混在してゐる。つまり、代表形態になじむ規定としては、前文第一段、第十五條第二項、第四十一條、第四十三條第一項、第五十一條などであり、また、代理形態になじむ規定としては、第一條後段、第十五條第一項、第七十九條第二項及び第三項、第九十六條などがあるのである。そのため、いづれか一方の理念的な純粹形態ではない「代表制」といふことになる。

ところで、この代表と代理を巡つて、主權論の説くところに從つて説明するとすると、先づ、主權の所在を抽象的な選擧民團を意味する「國民」とし、その國民の總有である主權を代表者が行使するといふ「代表」關係を肯定することによつて、國民全體から議會全體への委任と構成する「國民主權」論が唱へられたことになる。その後、これに對抗するものとして、主權は具體的な個々の人民に分有され、かつ、一般意志(總意)は全人民の參加によつて決せられ、人民は執行權についての監督權を保有し直接民主制や命令的委任が當然の歸結であるとする「人民主權」論が主張され、以後は、「國民主權=代表制=自由委任=代表形態」と、「人民主權=直接制=命令的委任=代理形態」といふ理念對立の圖式が生まれたのである。

しかし、實際には、世界の政治形態の殆どは代表制であり、それも純粹の「代表」でも純粹の「代理」でもない兩者の混合形態であるから、國民主權論と人民主權論との對立も、二者擇一的にいづれかの理念形態を採用するといふものではなく、いづれの理念形態を主として主張するかの比較衡量の對立となつてゐるやうである。また、「國民」と「人民」との區別も、いはば、主權の「總有」か「合有」かの區別に盡きることになる。ここで、總有と合有とを比較して區別すると、これらはいづれも共同所有の形態の種類であるが、前者の場合は、入會權(いりあひけん)のやうに、團體の構成員が個々には使用・収益する權能があるだけで、分割請求權や管理權がない形態であるのに對し、後者の場合は、遺産分割前の遺産共有状態のやうに、團體の構成員が個々には使用・収益する權能があることは勿論、分割請求權や管理權が制限的ではあるが認められる形態を云ふものであり、その区別が、國民主權と人民主權との關係に相似してゐるといふことである。

ところで、主權概念や主權の歸屬については、前に述べたとほり、その矛盾が明らかなので、この主權概念から離れて、ここでは、國家又は地方自治の政治における終極的な意志決定に參畫する權利(參政權)の歸屬主體である「選擧民團」について檢討する。

この選擧民團とは、選擧權を有する國民の總體を意味するが、個々の國民に歸屬する「選擧權」と、選擧民團に歸屬する「參政權」との關係において、前者が後者の直接的な持分權として認めうるか否かが問題となる。換言すれば、參政權と選擧權とは同質であり、參政權は個々の選擧權に細分され、個々の選擧權の全體集合が參政權であつて、個々の選擧權は參政權の持分權として認識されるとの「合有論」と、そうではなくて、あくまでも參政權は選擧民團といふ機關に單一的に歸屬し、選擧權とは選擧民團の意志決定をするについての内部的な權利であつて參政權とは異質のものであり、その持分權といふ概念は認められないとする「總有論」とに區分しうる。さういふ意味において、合有論は人民主權論に、總有論は國民主權論に、それぞれ對應してゐるといふことなのである。

そこで先づ、總有論について考察するに、これは代表形態であり、國民全體の意志を議會全體の意志と擬制するのであるが、國民全體(選擧民團)の意志が多數決原理によつて一つの意志に決せられれば、國民全體の意志(全體意志)はその内の特定の意志(一般意志)と擬制されることとなり、議會全體は、その特定の意志で統一された集團で獨占されなければならない。これは、選擧區で多數の支持を得た黨派に全議席を獨占させるといふ「多數代表制」に歸結し、議會は國民の一般意志自體であるとすることにある。皇紀二十六世紀初頭(西紀十九世紀中頃)まではイギリスなどでこのやうな制度が採られてをり、小選擧區制や大選擧區連記投票制もこの制度の變形である。この多數代表制は、「代表」形態に最も忠實な制度なのである。ところが、この制度は、國民の少數者の意志が全く考慮されない結果となる。そこで、議會を國民の一般意志自體とするのではなく、議會を國民全體の「縮圖」、即ち、個々の國民の算術的全體の意志(全體意志)の同價値的縮圖とする考へが登場する。この典型が比例代表制である。しかし、この制度は、國民の一般意志形成といふ代表制における參政權の行使(選擧)の意義を全く無意味なものとしてしまふのである。即ち、選擧は、直接投票(例へば、占領憲法の第七十九條第二項、第九十五條、第九十六條第一項など)のやうな一般意志形成とは異なり、國民全體の正確な縮圖を作成するための「國家的世論調査」と化すこととなり、大衆政治の典型的な弊害を一段と助長させることになる。

大衆國家においては、世論操作について國家權力を凌駕する權力としてマスメディアが出現し、政治的世論操作まで行ふことによつてさらに強大な政治權力として成長する。そして、マスメディアは、國家の行ふ「國家的世論調査」である「選擧」の投票前に、必ず選擧結果豫測と當落豫想を行ひ、その豫測結果が選擧結果と一致するものであることを選擧民團に繰り返し報道することによつて、選擧民團の投票行動による意外性を失はれ、選擧自體を無意味化させる。選擧民團は、マスメディアの提供した選擧結果豫測と當落豫想を指針として投票行動を決定し、その結果、選擧はマスメディアの選擧結果豫測と當落豫想のとほりとなつて、豫測の精度を高め、選擧民團の信賴を得て更に世論操作が容易な環境を形成する。これが循環的に繰り返され、選擧民團は、その政治的意志形成と投票行動をマスメディアの豫測に依存することとなり、完璧な世論操作、即ち、典型的な世論不存在の衆愚社會が出現する。その過程において、マスメディアの政治情報が大量に取得しうる都市部を中心に投票率が漸減し、投票を自己の義務と認識してゐる國民以外は投票しないといふやうな、いはば、自肅的制限選擧制度ともいふべき事態に至るのである。マスメディアの選擧投票前の選擧結果豫測と當落豫想の報道は、結果的に、投票拒否層(棄權層)に屬する國民を多數形成することになるため、國民の參政權に對する重大な侵害行爲となるのである。

これらの惡循環を打破するためには、選擧投票前における選擧結果豫測及び當落豫想の報道の禁止の外に、直接・間接に「投票義務」を賦課するか、あるいは、最低投票率を定め、それを下回つた場合には、選擧を無效として再選擧する制度などを檢討する必要があらう。

また、これらの折衷的な制度として、少數代表制(大選擧區單記投票制)や職能別代表制など樣々な選擧制度が存在するが、いづれにせよ、多數代表制と比例代表制との混合形態に過ぎない。

これらの代表制の特徴としては、立法・行政・司法の各機關の「執行權」は參政權の行使によつてその正當性(Legitimacy)を付與されることにあり、また、それに盡きるのである。そして、合有論が總有論を批判して登場してきた最大の理由は、總有論によれば、選擧民團が參政權を行使して國家機關に「執行權」を付與するにすぎず、これを實效性あらしむるための恆常的な「監督權(監察權)」がないために、次の參政權の行使時でなければ監督(監察)の實が上がらないことになつて、參政權とは、單に「執行權を付與するだけの權利」、即ち、「代表を選ぶだけの權利」に過ぎなくなつたためである。從つて、合有論の目的は、選擧民團が恆常的な「監督權(監察權)」を取得することに最大の意義があつたはずである。

では、合有論によれば、これらが解決しうるのであろうか。合有論は、少なくとも、參政權の態樣として、執行權に加へて監督權(監察權)を認めてをり、確かにその意味では總有論よりも格段に政治淨化が期待しうるからである。

ところが、合有論の實際的機能は、前述の代理(命令的委任)形態になじむ規定を充實させ活用させることに集約され、しかも、それらの規定は罷免制度などのやうに、いづれも監察を必要とする事態が起こつた後の事後的かつ臨時的な監督權(監察權)の行使が主流となるに過ぎず、事前的(豫防的)かつ恆常的な監督權(監察權)の制度や規定が備はつてゐないのが現状である。

このやうに考察してくれば、國家の淨化再生裝置に關する性能について、總有論か合有論かの二者擇一的判斷を迫られたとしても、この選擇自體には、實のところあまり實益がない。合有論といへども、總有論の依據する何らかの代表制(具體的には選擧制度)を基礎としてをり、その意味では總有論の修正に過ぎないとも言へるからである。むしろ必要なことは、どのやうな事前的(豫防的)かつ恆常的な監督權(監察權)の制度を充實させるか、それは如何なる理論的根據に基づくものかを檢討することにある。

このやうに見てくると、代表か代理か、國民主權か人民主權か、權力の合有か總有か、といつた類の「概念法學」の議論をいくら續けて行つても、一體それで何が解決するのか、そして、何が變へられるのかといふ問ひに對して、何も回答できないのである。究極のところ、これらの議論は壮大なる「無駄」であり、そのことが解ることが必要なのである。このこと明らかにしたいために、迂遠ではあつたが、この議論の樣相を明らかにしたのである。

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