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いはゆる「保守論壇」に問ふ<其の六>司馬史観と占領憲法

司馬史観の原風景

ちまたには、コミンテルン(コミンフォルム)史観とか、東京裁判史観とか、さらには、司馬遼太郎史観なるものが未だに蔓延つてゐて、昭和史を完膚無きまでに断罪する風潮が今も残つてゐる。このうち、コミンテルン史観と東京裁判史観については噴飯ものとして言及する価値がないとしても、司馬史観なるものが一斉を風靡してきたことが、保守層や保守論壇に与へた影響は計り知れないものがある。

この司馬史観、つまり、司馬遼太郎(本名・福田定一)の歴史観は、司馬の特異な「軍務体験」なるものから始まる。そのことを『朝日ジャーナル』(昭和四十六年一月一、八日号)の「対談・歴史の中の狂と死 司馬遼太郎(作家)&鶴見俊輔(評論家)」において、司馬は、次のやうに語つてゐる。これが司馬の原点となつてゐることは否定できない。

「私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。それは自分の体験からくるんですけれども、私は兵隊にとられて戦車隊におりました。終戦の直前、栃木県の佐野の辺にいたんですけれども、東京湾か相模湾に米軍が上陸してきた場合に、高崎を経由している街道を南下して迎え撃てというのです。私はそのとき、東京から大八車引いて戦争を非難すべく北上してくる人が街道にあふれます、その連中と南下しようとしている、こっち側の交通整理はちゃんとあるんですか、と連隊にやってきた大本営参謀に質問したんです。そうしたら、その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。これが私が思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点ですけれども、『ひき殺していけ』といった。」

しかし、この話にはそもそも信憑性がない。このことに関してなされた司馬のその後の発言内容にも微妙な変化があり、この話が伝聞なのか直接体験なのかも不明である。それらを総合してみると、その発言の日時も不特定で、発言者が「上司」なのか「上官」なのか、「大本営の少佐参謀」なのか、その名前の特定などは一切なされてゐない。また、司馬が当時所属してゐた戦車第一連隊の関係者や参謀本部の関係者もそのやうなおぞましい見解を持つ者は一人もなく、冗談でもそのやうな発言をした者は居ないと断言してゐるのである。

その上、当時の事情からしても、司馬がこれを真に受けて憤慨するやうな状況は全くなかつたと云へる。すなはち、昭和二十年六月八日、天皇御臨席の最高戦争指導会議(御前会議)において、聖戦完遂、國體護持、皇土保護の国策決定を行つたものの、七月二十六日には、ソ連を除外してポツダム宣言が発表され、同月二十八日には、鈴木貫太郎首相が、「ポツダム宣言」について「政府はこれを黙殺し、あくまで戦争完遂に邁進する。」と声明した。すると、八月六日、アメリカは、広島に原爆を投下し、同月八日、ソ連は、ヤルタ密約により日ソ中立条約を不当に破棄して対日宣戦を通告し、ポツダム宣言に参加することを表明した。さらに、同月九日、アメリカは、ソ連の参戦が早まつたこともあつて、今度は長崎に原爆を投下した。そして、同月十日午前二時二十分、御前会議において、國體護持などを条件としてポツダム宣言の受諾を決定し、同月十四日の御前会議では最終的な御聖断を仰いだといふ経緯からして、六月八日の国策決定のうち、聖戦完遂と皇土保護の観点から本土決戦に備へて、帝都防衛のための戦車隊投入計画の立案がなされたとしても、八月十日にはポツダム宣言を受諾といふ国策決定がなされてゐることから、それは廃案になつたはずである。司馬の話によると、前に述べたとほり、伝聞なのか直接体験なのかも不明で、発言者の名前も所属も階級も定かではない。そして、その発言の日時についても、「昭和二十年の初夏」といふ程度の曖昧なものである。「初夏」とは、陰暦四月の異称であるから、新暦では五月ころである。六月八日から八月十日までの間は、本土決戦となる可能性があると予測されてゐた時期であるが、初夏ならば、その計画案の素案が立案されうる時期ではあつたが、作戦として正式に決定されたものではありえない。沖縄戦の最中であつて、作戦計画自体が完成してゐないはずである。この時期は、本土に上陸が予測される米軍規模の検討、上陸場所の予測、米軍海兵隊が使用する火器等の装備とこれを迎撃する迫撃戦法の検討、戦車部隊の任務分担その他迎撃作戦計画に必要な情報を、沖縄戦の詳細な実情を踏まへて具体的に立案しうる以前の段階なのである。物事には順序がある。まづ、大本営において迎撃戦闘作戦計画を決定し、その計画実行のために必要な事項、すなはち、附近地域に対する戒厳命令、附近住民に対する避難命令、疎開措置、戦車移動用道路の一般車両等通行禁止措置などの事前準備が具体的に内務省などを含めて立案されることになる。それゆゑ、仮に、司馬の所属部隊を訪問したこの少佐参謀にそれなりの任務があつたとすれば、それは作戦立案のために必要な事前調査視察を兼ねて、本土決戦のための士気高揚を図る目的であつたこと以外にはなく、大本営や内務省などの協議によつて決定されるべき事項をその参謀が独断で判断することができないことは、司馬に解らないはずはない。それゆゑ、この視察に来た参謀将校に、非難措置や交通整理などの具体的な方針を質問すること自体が見当違ひである。敗戦色濃厚なこの時期に、国民の総力戦としての士気高揚が最も必要であつたにもかかはらず、苟も皇軍将校(戦車第一連隊の陸軍少尉)である司馬から、真つ先にこのやうな質問しか出てこないことにその参謀は落胆したであらう。

つまり、司馬の言葉を借りれば、交通整理の質問を受けた参謀が「初めて聞いたというようなぎょっとした顔」をするのも当たり前であらう。本来的な迎撃戦闘作戦に全く関心を持たず、交通整理のことにしか関心がない司馬の質問に、その士気が著しく低いことを感じて落胆し、このやうな自虐的ないしは揶揄したやうな回答をしたとしてもさほど不思議ではない。

このやうに検討してくると、司馬の「体験」は捏造されたものか、あるいは著しい思ひ込みによる過剰反応が虚言癖を生んだことの結果としか考へられない。学徒動員により戦車隊での士官経験があり、しかも、著名な作家となつた者の発言は、世間では重みがあると自惚れて、自らの言葉を「特権化」し、極めて微少で特異な自己の体験、しかも、「参謀との会話」にすぎないものを、「大本営の決定」であるかの如く「肥大化」させ、そして、これを「大東亜戦争全体」に「拡大化」し、ついには、これを戦争観や歴史観として「普遍化」し、傲慢にも全体としての昭和史を語つたことになる。まさに「井の中の蛙」であり、「裸の王様」である。その参謀に対する反感が、皇軍全体に対する反感に昇華し、さらに、昭和史全体に対する憎悪へと転換させたのである。

このやうに、司馬は、始めに結論ありきである。前掲『朝日ジャーナル』でも、「私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。・・・」とし、その固定観念を披瀝した上で、その後に続く対談の内容の中でも、次のやうに、司馬自身が「反國體論者」であることを明確に告白してゐる。だから、朝日ジャーナルで対談したとも云へるのである。

それは、鶴見俊輔が「・・・そういうふうな戦争の末期は、まったく集団狂気ですね。一億玉砕して神州を守る、国体を守る、と。」といふ発言に答へて、司馬は、「国体を守るということだけで十分狂気ですから。」と答へてゐることからも明らかなのである。「集団狂気」を批判するのならまだしも、これに託けて、「國體護持」の至誠を「狂気」の仕業とするのである。

勝ちいくさの明治と負けいくさの昭和

「人が時代を作るのか」、それとも「時代が人を作るのか」といふ問ひに対して、時代が人を作るのであつて、人が時代を作ることはないとしたのが、マルクスの唯物史観である。歴史を決定するのは人ではなく、経済構造であるとする唯物史観からすれば当然の帰結であつた。

しかし、人の顔が見えない祖国の歴史には愛着が抱けない。特に、史上稀な激動の時代であり、きら星の如く魅力ある人物が輩出した明治維新は、その歴史的意義が「武士の自己犠牲(自己利益の放棄)による維新」であつたといふ性質であつたことについて、これを唯物史観では説明できないとの素朴な疑問が根強かつた。特に、自己犠牲を強いた明治維新を階級闘争論で解明することは不可能であつた。革命の原動力となる「革命階級」は、自己の権益を維持し、これを拡大するために革命を行ふ。ところが、その自己権益を放棄するための革命なるものは自己矛盾であり、階級闘争ではないことになる。

そこで、たとべは、奈良本辰也は、唯物史観に影響されつつも、歴史とは、「人が時代を作る」と同時に「時代が人を作る」といふ双方向のものであつて、その「人」と「時代」とを結びつける土壌があり、明治維新の場合の変革階級は、「郷士中農層」である主張した。それは、奈良本が昭和二十二年に発表した『郷士=中農層の積極的意義』といふ論文で示された「郷士中農層論」であり、奈良本は、ここで、武士階級が武士であるといふ特権を放棄して一視同仁の維新を実現したといふ希有な明治維新の原動力は、郷士や中農層といふ、幕藩体制の主流から外れた階層であつたとし、それが武士の自己権益を放棄される契機となつたとするのである。そして、その理論を背景に、昭和二十六年に奈良本は『吉田松陰』(岩波新書)を著した。これは奈良本の郷里の英雄を描いた名著ではあるが、奈良本は、歴史学者であつたことから、これは創作による時代小説、伝記小説ではなかつたことは当然であつた。しかし、このやうな見解であつても、「自己犠牲」の根源が何であつたかが充分に説明できなかつたのである。

このやうに視点においては、「人」と「時代」といふ対立軸しかない。あつても、人の集団階層である「郷士中農層」といふやうな階級闘争的な観点しかない。人を支配し、時代を導くのが「國體」とそれについての「教育」であると気づかなかつたことに限界があつたのである。

ところが、司馬のやうな売文業の場合にはそんな生真面目なことを考へる必要も制約も全くない。ただ、面白おかしく、大衆の興味をそそり、小説が売れればよい。そのためには、徹底して「人が時代を作る」といふ観点だけに徹すれば面白くなる。唯物史観と対峙するといふやうな大層な考へなどはさらさらないのである。司馬は、これに徹して、「英雄礼賛」を基底に据へた。英雄は、戦争に勝利し、建国や国家変革を成功させるゆゑに英雄なのであつて、司馬は、これに基づき、成果主義、合理主義を過度に強調することになる。そのため、戦争に勝つて成功し成果をもたらした「明治」は明るくて素晴らしいものであるが、戦争に負けて人と財産の多くを失つた「昭和」は暗くて指弾されるものとする。つまり、明治は素晴らしかつたが、昭和は本来の日本ではなく、「鬼胎」であると決めつけて唾棄したのである。

そして、それを真に受けて熱烈に支持した保守層や、これに感化されて保守思想に目覚めた乗り換へ(転向)保守も頗る多い。左翼であつた者が、これによつて転向したことが多い理由は、「時代が人を作る」といふ唯物史観に対する批判的反動として、「人が時代を作る」といふ司馬史観に飛びついたためである。

ところが、司馬史観は、伝統主義とか保守主義とは無縁の考へである。歴史といふのは、「金太郎飴」のやうなもので、どこを切つて見ても「日本」は「日本」である。祖先から連綿として受け継ぐのであつて、どこかに「鬼胎」があり、これまでの伝統が立ち消えたのが昭和といふ時代であるならば、我々は日本人の子孫ではなくなる。祖国が苦難を乗り越えようとした辛くて苦しい時代を、敗戦といふ結果論や、当時の戦争指導層への反感などの微視的な情緒論で、昭和といふ時代の全体に唾棄するが如き振る舞ひは人の道から外れてゐる。原因があるから結果がある。大東亜戦争への道は、司馬の云ふ「素晴らしき明治」があつたためである。日清戦争や日露戦争に勝つたからこそ、欧米は、この東亜百年戦争の最終決戦として大東亜戦争といふ思想戦争を仕掛けて来た。「素晴らしい明治」がなければ、昭和の「鬼胎」はなかつた。「昭和」を唾棄するのであれば、「明治」も唾棄せねばならなくなる。ここに司馬史観の馬鹿馬鹿しさがある。

そして、保守層が、この司馬史観に毒されてゐるために、占領憲法が有効であると刷り込まれて行く。昭和を唾棄して全否定すれば、それをさらに否定して生まれてくるものは「素晴らしい」ものとすることになる。否定の否定は肯定である。そして、「素晴らしい明治」と「素晴らしい占領憲法」とが同格になつてしまふのである。

ともあれ、司馬史観の「素晴らしい明治」は、ほんとうに素晴らしかつたのか。歴史には必ず光と陰があるのであつて、その光と陰を見つめることによつて歴史の重層的な立体構造が見えてくるのである。それを無視して明治だけを絶賛する司馬史観に、むくつけしく感じるのは私だけであらうか。

司馬は、『竜馬がゆく』を嚆矢に、明治維新から明治へ向かふ作品を発表して行つた。そして、「素晴らしい明治」といふ司馬史観は、『坂の上の雲』によつて完成するのであるが、そこでは、成果主義(結果主義)で人物を評価し、戦闘における顕著な成果を上げなかつた乃木希典を悪し様に非難する。まさに、司馬遼太郎は、「勝てば官軍」の思想に支配された「合理主義者」なのであり、勝ちいくさの明治は絶賛するが、負けいくさの昭和には唾棄する。司馬史観とは、英雄礼賛の人間中心主義であるから、首領の存在が不可避であるとする金日成の主体思想と共通するものがあると云へる。

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