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トップページ > 各種論文目次 > H20.07.29 いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の六›司馬史観と占領憲法2(続き)

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薩長史観と司馬史観

ところで、この「勝てば官軍」の思想の影響を受けた保守層の場合は、その根源にある思想である「薩長史観」から逃れられないことになることに留意せねばならない。

この薩長史観は、「三回にわたる薩長連合(薩長同盟)」による「有司専制」によつて確立したものである。ここで「三回」としたのは、文久三年八月に為された西郷隆盛らの薩摩と桂小五郎(木戸孝允)らの長州とが倒幕を目的とした「第一次薩長同盟」だけではなく、明治政府成立後の、明治六年の政変(第二次薩長同盟)と明治十四年の政変(第三次薩長同盟)のことである。これによつて、薩長同盟による薩長の有司専制によつて、薩長史観が確定したことになつた。

まづ、明治六年の政変(第二次薩長同盟)とは、数々の汚職事件などを犯し続けてきた井上馨、山縣有朋らの悪事を容認し続けてきた長州閥(汚官派)と、何の成果も得られずに維新創業の最も重要な時期に職務放棄して単なる物見遊山だけをして帰朝した岩倉具視、木戸孝允、大久保利通ら欧米使節団(外遊派)とが結託して、その不正を追及しようとした西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣らを排除した「薩長汚官連合」による政変のことである。そして、明治十四年の政変(第三次薩長同盟)は、議会開設と憲法制定についての急進派(大隈重信ら)を伊藤博文らの漸進派(薩長派)が罷免して排除した政変のことである。そして、これらの三回による薩長同盟によつて薩長による有司専制が確立し、これによつて歴史観としての薩長史観が不動のものとなつたと云へる。

このやうな薩長同盟による有司専制によつて抑圧されたのは、第一次薩長同盟によつて賊軍の汚名を着せられて排除された会津などの奥羽越列藩と、明治政府成立後の第二次及び第三次の薩長同盟によつて政府主流から排除された土佐などであつた。

ところが、大正、昭和になると、軍部の指導層には薩長閥以外の者が進出する。特に、戊辰戦争で賊軍とされた藩からの出身者は、賊軍の汚名を尊皇の至誠を以て払拭しようとする精神主義が強くなる。そのやうな背景があることから、司馬は、「ひき殺していけ」とした少佐参謀が東北人であり、彼も長州人を反面教師として、長州人以上に尊皇的であらうとした歴史的コンプレックスが「ひき殺していけ」といふやうな暴走と狂信を生んだとするのである。司馬の感覚には、薩長史観に対する批判といふよりも、それ以上に、奥羽越に対する憎悪の方が大きいことが解る。尊皇の精神性において薩長よりも勝つてゐたとする自負と、その薩長に敗れたといふ憎悪によつて、明治政府に占める地位が薩長閥を凌駕することによつて報復を実現するのだといふ倒錯が奥羽越にはあつたとして、薩長よりも東北人を憎悪する。それが司馬の認識にあつた。

確かに、大東亜戦争時の軍部人事には、薩長閥が消えてゐる。山本五十六は新潟県長岡市の旧越後長岡藩士の六男として生まれ、山下奉文は高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身であり、東条英機の家系は盛岡藩であつて、板垣征四郎は岩手県盛岡市出身、米内光政も旧盛岡藩士の長男として岩手県盛岡市に生まれてゐる。東京裁判で起訴された二十八名中、東郷茂徳(薩摩)、木戸幸一(長州)と松岡洋右(長州)の三名だけが薩長の出身者にすぎなかつた。その意味では、確かに、東亜百年戦争は、その初期においては薩長が主導し、終盤の大東亜戦争は非薩長(反薩長)が主導して終はらせたといふ人的側面があつたと云へる。

しかし、何ゆゑに、司馬は、無念にも迫害された奥羽越諸藩に属する者を限りなく冷淡に見つめ、かつ、憎悪の対象とするのであらうか。それは、やはり、成果主義、合理主義からして、負け犬は評価されないといふことである。奥羽越は、戊辰戦争でも敗れ、その報復として取り組んだ大東亜戦争でも敗北したといふ二重の負け犬と見てゐるのである。

司馬は、昭和四十九年九月二十七日、会津若松市の市民会館の演壇に立つてゐた。『会津藩はなぜ「朝敵」か』の著者である星亮一によれば、このときの司馬の話について次のやうに伝へてゐる。司馬は、世界の文化性についての茫洋とした話をした後に、「会津とはなんだ、そして会津をひどいめにあわせて近代国家をつくった長州と薩摩とは、どんな国なのかというお話をしてみたいのです。」と、会津の土地柄を配慮して切り出したものの、「だが、この三藩もまると外国のように違っていました。」とはぐらかせ、とりとめもない話をした後、「会津藩はあまりにも力が強く、会津藩を倒せば、それで天下は新しい世の中になったのだ、変わったのだと分かるだろうと、会津藩の恭順も許さずに総攻撃したのです。」といふ軽薄な説明の程度で終はつてゐるのである。司馬は、戊辰戦争から西南戦争に至るまでの官賊差別による薩長史観がその後にどのやうな影響をもたらしたのかといふ点について思ひを致すことがなく、これについての本格的な作品を発表したことがない。これは、売文業者にありがちなことである。大衆受けする明治史の作品は書けても、ノモンハン事件なども含めて、英雄が登場しない昭和史の作品は書かなかつた、といふよりも書けなかつたのであらう。司馬は、「時代が人を作る」とした唯物史観を売文業者の立場で逆らつて見せ、「人が時代を作る」として劇画風に英雄礼賛の作品を作つただけなのである。

光と陰で織りなす歴史には、明治維新で光が当たつた薩長にも陰があり、陰となつた奥羽越にも光が差すといふやうな複雑系の重層構造となつてゐる。戊辰戦争後において、長州において倒幕への道を切り開いた郷士中農層で形成された奇兵隊(諸隊)は、その幹部のみが恩賞を受けて身分が保障されただけで一般隊士の保障が全くなく解散を命ぜられたことによつた叛乱したが、これに対して熾烈な弾圧と大量処刑の悲劇を生んでゐるし、また、薩摩においても、私学校の弾圧のための西南戦争が起こつてゐるといふ複雑な歴史の様相がある。西郷隆盛だけは、末路が悲劇となつた「英雄」として描いたといふことである。おそらく、司馬は、一度も日の目を見ない負け犬については一顧だにしない。

しかし、このやうな「勝てば官軍」思想を追随する司馬史観と薩長史観によつて、現在においても「靖国問題」を複雑にさせてしまつてゐることに、その共鳴者たちは何らの痛痒も矛盾も感じないのであらうか。

田宮虎彦と司馬遼太郎

このやうな司馬とは、ある意味で対極の立場にあるのが田宮虎彦である。田宮は、戦前、同人誌『日暦』に参加し、『人民文庫』創刊とともに参加した人物であり、その思想的傾向は推して知るべしであるが、それが敗戦後の昭和二十二年年十一月に『世界文化』で『霧の中』といふ小説を発表して注目され、小説家生活に入つた人である。昭和六十三年、脳梗塞が再発したことを苦に、遺書を残して、自宅のマンション十一階から投身自殺して七十七歳の生涯を閉じた。田宮の父は高知市、母は香美郡香宗村(現・香南市)の出身であり、高知へ帰ることも多く、土佐を郷里と意識してゐたらしく、『足摺岬』など土佐を題材とした作品も多い。しかし、土佐藩出身の、ジョン万こと中浜万次郎、坂本龍馬、中江兆民、植木枝盛、板垣退助、岩崎弥太郎などは全く登場しない。司馬と異なり、英雄を登場させないのが田宮の作品である。

土佐は、当初は明治政府の主流に属したが、第二次、第三次の薩長同盟によつて排斥されたことから、会津など奥羽越と同じやうに没落する。その意味では共感し合ふのか、この『足摺岬』でも、登場するのは、戊辰戦争で西軍に滅ぼされた奥羽越列藩同盟に属する藩士など旧幕臣が多い。

『霧の中』もさうである。主人公中山荘十郎といふ人物で、父武次郎と兄敬作は寛永寺の彰義隊に加はつたといふ設定である。そして、母かねの実家が会津若松の小普請組支配の青龍隊であり、長姉八重もこれに参加した。また、詳しい筋書きは省略するが、それを拾ひ読みして要約すると以下のやうな話である(田宮虎彦『足摺岬 田宮虎彦作品集』講談社文芸文庫)。

荘十郎は、西南戦争に巡査隊(抜刀隊)に志願した旧幕臣の鎌田斧太郎とその従兄弟の岸本義介の世話になる。その斧太郎は、荘十郎に対し、「荘十郎、貴様の親父を殺したのは誰だったか知っているか、西郷吉之助の配下だったよ。」と言つて出発し、翌年に帰還して「荘十郎、お前の父親の仇を討ってやったぞ。」と言つて手柄話をするが、「降伏人」の悲哀は消えないのである。西南戦争は「薩摩同士のなれあいの喧嘩」であると語らせてゐる。また、秩父事件が起こり、共に抜刀隊に加はつたことから居合ひ芸で生計を立てる仲間となつた篠遠逸作が秩父の戸長役場の焼き討ちに加はつてゐることを聞き、斧太郎は秩父へ向かふ。逸作も斧太郎の消息不明となる。その後、荘十郎は、新撰組くずれの谷口東作と大阪へ向かひ、川上音二郎一座と合流したり、その後は全国各地を巡つたりして、ついに満州へ渡り、ハルピン、吉林、長春へと馴染みの女(清丸)を内妻として転々とさすらふのである。そして、長春に居るとき、明治といふ時代が終はる。清丸はその新聞を読みながら、荘十郎に対し、「あんたの仇の親方が死んじゃったじゃないか。」と云つて、それからわけもなしに笑つた。荘十郎は、清丸と帰国し、王子で暮らし、印刷局の工場の守衛になったが、荘十郎が旧幕臣であることを知つた守衛仲間の笠原から、「・・・すると、今、中山さんは周粟をくっているわけだな」と嫌みを言はれる。清丸が死んで守衛を辞め、その後は剣道の弟子達などのよしみに頼りながら、駄菓子屋の二階で暮らしてゐたが、大東亜戦争の終盤になると、焼夷弾がその部屋の前の軒に落ち、誰かが火を消したが、荘十郎は、既に手足の力がなく這つて逃げ、警報が解除されるとまた這つて帰つた。その様子を見て、駄菓子屋のお内儀はさすがに涙がつまつて来て、「爺さん、つらかったろうねえ」といふと、荘十郎は、「なに、非道を重ねて来たやつがいい気味さ」と答へた。お内儀にはその意味がわからなかつたが、何か心をさかなでされる様な冷たいものが走つた。

荘十郎は敗戦の日の三日後に死んだ。十日ほど前から口もきけなくなつてゐたが、内儀さんが上つて行くと、おみよさんだとか、おけいだとか、しげのちゃんだとかと呼んだ。「何いってんのよ、爺さん、それどころじゃないわよ、日本が戦争にまけたんだよ、神州不滅がさ」。内儀さんは邪慳につっぱなしたが、その言葉をどうとつたのか、荘十郎は歯のぬけた顎をもぐもぐさせた。それは笑つてゐる様であり、それがお内儀には女の名前と連想されて、いやらしい老醜を感じた。

脈絡は少し乱れたが、ざつとこんな話である。ここには、新撰組、彰義隊、青龍隊、会津戦争、西郷吉之助、西南戦争、巡査隊(抜刀隊)、川上音二郎、秩父事件などが登場し、特に、戊辰戦争と西南戦争、そして、明治天皇、西郷吉之助、大東亜戦争について露骨なまでに薩長史観への怨念と反日史観の萌芽が読み取れる。田宮の小説は、史実とは無縁のものであり、司馬のそれは、それなりに史実を散りばめた時代小説が主であるといふ多少の相違はあるとしても、歴史を恣意的にしか捉へてゐない知的怠慢があることについては共通したものがある。

歴史観の四兄弟

このやうに見てくると、思想史観に彩られた創作にすぎない小説に感化されてゐるやうでは、健全な歴史観などは決して生まれてこないといふことに尽きる。

特に、田宮のやうに、唯物史観である「コミンテルン史観」に毒されたものは云ふに及ばず、司馬のやうな英雄礼賛の「司馬史観」では歴史の重層構造は何も見えてこない。また、勝てば官軍といふ思想の源泉である「薩長史観」のやうな暴力礼賛の歴史観では、歴史の立体構造が見えない。そして、この暴力礼賛は、「東京裁判史観」に通底するものである。英雄礼賛は、その成功の手段としての暴力を礼賛する。それゆゑ、司馬史観と薩長史観及び東京裁判史観は兄弟といふことになる。もちろん、コミンテルン史観もこの異母兄弟である。

このうち、いはゆる保守層といふのは、コミンテルン史観と東京裁判史観を否定しても、どういふわけか「薩長史観」と「司馬史観」の呪縛から抜け出せないでゐる。特に、司馬史観に至つては、これを絶賛する者も居るからお笑いぐさである。

司馬は、その依拠する合理主義、成果主義によつて、占領憲法を擁護し、國體破壊思想を固めていく。「素晴らしい明治」を壊したのが「暗い昭和」であり、これを唾棄して生まれたのが「素晴らしい戦後」であり、占領憲法であるといふのである。「素晴らしい明治」と同格にあるのか「素晴らしい戦後」であり、その戦後社会を支へるのが「きらびやかな占領憲法」といふことである。

司馬が、前掲対談で語つたやうに、「私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。」とするのは、戦後体制を絶賛し、占領憲法を擁護することであつて、さらに、「国体を守るということだけで十分狂気ですから。」といふのは、明らかに國體破壊者の言動であることは明らかであるが、司馬の作品に感動して歴史観が変はつたと脳天気に告白する保守層は、このことをはたしてどれだけ気づいてゐるであらうか。

平成20年7月29日記す 南出喜久治

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