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國體護持:革命考

承前

本章は、前章(クーデター考)で述べた國體の規範性の根拠を明らかにし、國體を破壊する法実証主義と主権の思想、それに基づく革命の性質等について言及する。

合法性と正統性

カール・レーウェンシュタインは、『現代国家の君主制』の中で、君主制の基礎は、これを支へる感情的要素と合理的要素とがあるとする。およそ、人の精神作用を「知」、「情」、「意」の三つに分けたとき、感情とは情的過程全般を指すものであるから、知と意の範疇にある合理とは、必ずしも感情と同一の方向を向いてゐるとは限らない。合理的には肯定できても感情的には否定することがあるし、その逆もあるからである。確かに、君主制の基礎、とりわけ本章で取り扱ふ皇統を中核とした文化総体としての國體については、国民(臣民)の感情的要素があることは否めないが、これは究極のところ理屈の世界の住人ではなく、いはば「好きか嫌いか」、「支持するかしないか」といふ問題である。そして、「愛情は理論よりも強力であり、永続的である。」と言つてしまへば、それだけで議論は終はつてしまふ。この感情的要素については、往々にして合理的要素の探求と理解が欠け、無知や誤解と先入観からくる反発と盲信で語られることが多いので、ここでは省略し、まづは合理的要素について考察することにするが、感情的要素の概念自体が比較的明確であることと比較すれば、合理的要素といふ概念は必ずしも明確ではない。それゆゑ、このレーウェンシュタインの分類が適切かは疑問もあるが、ここでは一応この分類に従ふとして、この合理的要素の内容については、さらに具体的に詳細な構成要素に分解してみる必要がある。

一般に、合理性を考へる場合、政治的なもの、法律的なもの、道義的なもの、歴史的なもの、文化的なもの、経済的なもの、社会的なものなどの観点に分類できるが、このうち、法律的な観点については、極めて論理的な思考に適し、他の観点と比較して特に重要であり、それ以外の観点については、相互に関連し合つてゐることから、ここでは、カール・シュミットのいふ「合法性」と「正統性」の二つの観点に分解して考察する方法を用ゐることとする。なぜこの分類を用ゐるかと言へば、國體や憲法などの領域においては、およそ法律的側面の科学的考察は不可欠であり、その意味で「合法性」の探求は必要であつて、それ以外の側面については、法律的側面以外の歴史や文化、伝統など広く社会科学的側面を総体としての「正統性」に収斂して考察することが重要だからである。

さて、國體とは、前章でのべたとほり、言語的には、「国の体質」に由来し、「国柄」と同義であつて、それは、万世一系の皇統とやまとことはの言語体系を核として構成された我が国固有の惟神の古代精神と歴史文化伝統から抽出される普遍の真理の総体(真理国体)を意味するが、この真理国体には、「事実」の領域に属する「伝統」といふ存在(Sein)の側面と、「規範」の領域に属する「古道」といふ当為(Sollen)の側面とがあつて、両者は、等価値的な対極事象にある。即ち、「かくある伝統」と「かくあるべき古道」とであり、概ねこれが「正統性」と「合法性」とに対応する。

ところが、従来までの國體に関する肯定的考察においても、惜しいかなその殆どが「正統性」に関するものばかりで、「合法性」についてのものがほとんど無い。それは、現行憲法(占領憲法)に関する議論についても同様で、正統性がないことについて延々と述べられるだけで、肝心の合法性について殆ど論述されないか、その論拠が薄弱なものが多かつたのである。そのため、多くの論者が「正統性」の側面を論述してゐることを踏まへ、本章では、専ら「合法性」の側面について考察する。

英国における國體論と主権論

まづ、この國體の合法性について考察するに際しては、その前提として、どうしても避けて通ることができない問題がある。それは、英国において、世界を二分する思想的潮流があり、その後の世界に思想的にも政治的にも激変をもたらした対立、すなはち、伝統国家である英国の君主制を支へてきたヘンリー・ブラクトン、エドワード・コーク、エドモンド・バークに代表されるコモン・ロー(common law)の思想に基づく「國體論」を主張する人々(國體派)と、これを根底から否定するトーマス・ホッブスやジョン・ロックに代表される実証法主義(法実証主義positive law)の思想に基づく「主権論」を主張する人々(主権派)との対立についてである。

英国の立憲政治の歴史は、マグナ・カルタ(1215)、権利請願(1628)、権利章典(1689)などを通じて、国王の不法な政治を抑制して人民の自由と議会の権利を擁護した歴史であるとされる。しかし、これは一面において真実であるが、他面においては、「主権」思想の攻勢から英国の「國體」(コモン・ローの支配)を守つた歴史であるとも云へる。

國體派のブラクトンは、「国王はいかなる人の下にも立ってはならないが、神と法の下に立つべきである。」とし、いはゆる英国における「法の支配」の原則を確立したとされるが、ここでいふ「法」とは、コモン・ローのことである。そして、このコモン・ローとは、国の共通的一般慣習法であり、世襲の法理などに支へられた「永遠の真理」として、人間の意志を超越した神の啓示であるとするのである。換言すれば、「創造された法」ではなく「発見(確認)された法」であつて、伝統的な慣習は法たる効力のある慣習(慣習法)であるとする。これは、まさに英国における最高規範たる「國體」のことである。

そして、この「法の支配」といふ國體思想を引き継いだコークは、英王立医師会に無許可で営業した医師ボナムに対し国会の法律(制定法)に基づき罰金を科して拘禁したことを不服としてボナムが訴へた「医師ボナム事件」の裁判官として、「コモン・ローは国会の法律(制定法)よりも優位にあり」として、その法律を無効であると判決し(1610)、さらに、翌年(1611)の「布告事件」において、「国王は布告などによってコモン・ローのいかなる部分も変更できない」と判決した。ソクラテスの言葉とされる「悪法もまた法なり」とする実証法主義を真つ向から否定し、「悪法は無効なり」とする「法の支配」を余すところなく宣言した判決である。この考へは、我が国においては、「天皇と雖も國體の下にある」として、先帝陛下が國體に変更を加へようとした(破壊しようとした)現行憲法を公布された行為を無効とする論理と共通するものがある。

とまれ、この國體派に対し、英国の伝統を破壊するホッブスやロック、さらに、海を渡つて、その思想的系譜に属する革命国家フランスのジャン・ジャック・ルソーなどの主権派は、一片の文書(実定法)のみを「法」とし、慣習法や道徳規範などの自然法を否定しないものの、その法規範性を否定する実証法主義(法実証主義)を主張し、その中心思想としての「主権論」を展開するのである。

まづ、ホッブスは、「わが国王は、制定法とコモン・ローの双方の立法者である。」「国王は唯一の立法者である。唯一の至高の裁判官である。」として、国王にコモン・ロー(國體)をも否定できる最高で独立した絶対無制限の生殺与奪の権限である「主権」を与へようとした。これは、戦前の穂積八束や上杉慎吉らが「天皇主権説(天皇主体説)」を唱へたことと似てゐるので、ややもすればこのやうな主張は國體強化か國體護持の目的であるかのやうな錯覚を覚える。確かに、これは誰でもが陥りやすい、まさしく錯覚であり、これこそ國體破壊の元凶なのである。絶対君主制へ回帰しようとする主張は、君主主権への道を切り開く。ホッブスの狙ひは、「主権」概念を認めさせることにあり、その「主権」を一旦は「国王」に与へ、やがてその失政や混乱に乗じて、この主権を国王から「人民」が奪ひ取るための深謀があつたからである。それは、本人の自覚において明確なものではなかつたかも知れないが、少なくとも「無自覚な國體破壊者」であつたことに変はりはない。その「思想」は、本人の意思と感情を超えて一人歩きするのである。少なくともホッブスは、「イギリス法は、代々の国王が、自らの理性のみで、あるいは貴族院や庶民院に謀って、つくったのである。それ故、国王の理性こそ、コーク卿のいう、生ける法であり、普遍の法である。裁判官の理性、学識、智恵によるのではない。」として、国王に対して歯の浮くやうな煽てをしてまで主権概念を認めさせようと画策した。その証左として、ホッブスは、「神は人民のために王をつくった。王のために人民をつくったのではない。」といふ国王軽視、人民重視の本音をさらしてゐるからである。まさに「褒め殺し」の手法による国王と國體への攻撃であつた。

しかし、この謀略をコークとその後継者は見抜いた。そして、「国王大権は、法(コモン・ロー)の一部であって、主権ではない。」「主権は、マグナ・カルタやその他のすべての制定法を弱める。」「マグナ・カルタに、主権者はいない。」「法(コモン・ロー)を超越する主権を国王に附与すれば、法による権力(power in law)は、実力による権力(power in force)にとって代わられる」「自由は権力を制限することによって体現できるものだから、主権を附与された権力に対してこれを制限することは不可能となるので、自由への侵害が生じる。」と反論し、ついにこれらコークらの努力により、「権利請願」(1628)から、「主権」の文言は削られて「國體(コモン・ロー)の支配」は守られたのである。

ところがである。英国では、権利請願における國體派と主権派との攻防において、國體派の勝利で決着がついてから14年後(1642)に、国王チャールズ1世がその専制に抵抗した議会に対して武力干渉をしたことから清教徒革命につながる内乱が起こり、結果的にはクロムウェル率ゐる議会軍が勝つて国王は逮捕されて処刑され、共和制が宣言された(1649)。その後、クロムウェルはなんと議会を解散して軍事独裁を樹立したが、クロムウェルの死により王政が復古(1660)したものの、英国では、この11年間は共和制であり君主制ではなかつたのである。

ホッブスは、この清教徒革命のさなかにフランスに亡命し、そこで『リバイアサン』(1651)を著した。リバイアサンとは、旧約聖書のヨブ記に出てくる鯨のお化けのやうな怪獣の名前であり、ホッブスは、巨大な力を持つ国家をこの怪獣に見立て、その中で、人は自然状態のままであれば万人の万人に対する闘争の世界となるため互いに契約を結んで主権者としての国家を作つて秩序維持をその国家に委ねるのだとする社会契約説を展開する。清教徒革命による国王の処刑と共和制宣言がなされたことの衝撃もあつて、新興ブルジョアジーの立場にあるホッブスとしては強い中央集権的な絶対王政(リバイアサン)の復活を説くものの、君主は単に利害調整のために必要とするに過ぎないのであつて、社会契約の主体(主権者)はあくまでも人民であるとし、人民主権論への道を切り開いたのである。

ともあれ、王政復古の後も国王の専制政治に苦しんだ議会は、結束して議会にとつて望ましい王位継承として、メアリ2世とウィリアム3世を王位につけることに成功した(1689)。流血を伴つた清教徒革命とは異なり、無血の政変を実現させたといふ意味で、これは「名誉革命」と呼ばれてゐるが、実はこれは後述する定義からすれば「革命」ではなく、いふならば「名誉政変(クーデター)」とでも命名すべきものである。

そして、この名誉革命によつて、王位継承者が議会に対して発した宣言(権利宣言)に基づき議会が制定した法律が「権利章典」(正式名称は「臣民の権利及び自由を宣言し、王位継承を定める法律」)であり、これによつて國體の支配による立憲政治の基礎が確立したのである(1689)。

ところが、さらに主権派の攻撃は続く。今度はホッブスの思想を引き継いだロックの登場である。ロックの主権論は、国王に主権があるとする国王主権論を飛び越えて当然のことながら一気に国民に主権があるとする国民主権論へと突き進む。曰く「国王の地位は国民の信託と同意に基づく」と。しかも、これを権利章典の規定をねじ曲げて解釈して展開したのである。そして、この思想がフランス革命に影響を与へ、さらに、そのまま現行憲法に引き継がれ、第1条の「この地位(天皇の地位)は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」とか第2条の「皇位は・・・国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」といふ規定になつたことは周知の事実である。

しかし、ロックの国民主権論は英国では決して定着することはなかつた。それは、この権利章典と王位継承法(正式名称は「王位をさらに限定し、臣民の権利と自由をよりよく保障するための法律」1701)によつて、国民が国王を選ぶといふことが永遠に禁止されることになつたからであり、国民が、王位の継承についての「世襲の義務」、つまり王位の世襲を維持し擁護しなければならない義務を負担することと引換へに、国民は、自己の自由と権利、財産の相続を保障されるといふ権利、つまり「世襲の権利」を享有できると確認されたのである。すなはち、国王の地位とその辨へ(分限)も国民の地位とその辨へ(分限)もいづれも祖先から子孫へと代々世襲(相続)された自由と権利と義務であるとする「世襲の法理」による國體護持の理念が定着し、かくして英国は「主権」概念を退けて今日に至つてゐるのである。

主権論の敗北と海外での復活

主権論が英国で敗北した理由は、いくつか考へられるが、論理的理由としてはその理論構成そのものに問題があり、論理破綻を来してゐたためである。それは、前述のとほり、コークの「自由は権力を制限することによって体現できるものだから、主権を附与された権力に対してこれを制限することは不可能となるので、自由への侵害が生じる。」との言葉によつてその矛盾が端的に示されてゐる。君主に主権を認めた場合、君主の暴政によつて国民の自由が侵害される可能性があることは誰でも解るだらう。しかし、ほとんどの人は、国民(または人民)に主権を与へた場合、国民(人民)が自分で自分の首を絞めるやうなことをすることは考へられないと思ふだらう。しかし、これが主権論の幻想的トリックであつて、英国においては多くの賢者によりそれが見破られたのであるが、英国以外の君主国においては、國體論が確固たる理論として定着してゐなかつたために、怪しげな新興宗教にも似た主権論に取り憑かれた学者や識者のアナウンス効果によつて、まんまと騙されて行くのである。

ともあれ、ではなぜ主権論は論理破綻となつてゐるのか。それは、具体的な事例で考へればすぐに解る。ここに100人の国民による国家があり、主権が国民にあつて民主主義による議会もあつたとしよう。しかし、国民の間で鋭い思想的対立があり、多数派は90人、少数派は10人である。そして、選挙により大統領を決めたが、当然に多数派に属する者が大統領となり、この国の政治を行ふこととなつた。ここまではよい。しかし、大統領となつた者は、少数派の者とその思想を蛇蝎のごとく嫌ひ、当然多数派の者もさうである。そこで大統領は露骨に少数派を弾圧しようとして、少数派のみにその選挙権その他の権利や自由を剥奪する法律を議会で作つて早速に弾圧した。はたしてこれが主権論において許されるのか。答へは、「当然許される」のである。なぜかと言へば、主権とは、最高で独立した絶対無制限の生殺与奪の権限であつて、それが国民にあるのであるから、国民の意志を反映した議会で民主制のルールに基づいて決めた法律は法実証主義と主権論の立場からして絶対に有効だからである。三権分立制の下で平等原則に違反するとして裁判所に訴へたとしても、多数派の意見を持つ裁判官を合法的に選任すれば結論は揺るがない。どうしても不都合ならば憲法も変へればよい。賛成者は90人も居るのであるから簡単である。かくして少数派は国民主権の名の下に弾圧されたのである。

どうして、このやうなことが起こりうるのか。理想と現実とが斯くも乖離するのはどうしてか。それは、マックス・ウェーバーが指摘するとほり、多数決原理と少数支配の原則による政治の現実があるからである。つまり、国民主権と言つても、それは女王蜂のやうに、絶対かつ巨大ではあるが極めて抽象的存在であつて、一人では何一つできず身動きもとれない。そこで、国民主権の「擬態」としての「議会」において国民の意志を抽出して議決する場合、全会一致で事を決めることは不可能だから、どうしても多数決原理が導入される。そして、議会の多数者によつて議決したことを具体的に決定し実現するために、その多数者のうちのさらに多数者、そのまた多数者といふふうに権力の階段を上り詰めて抽出していけば、そこには一人又は数人の者がその終局的な最高権力を手中にすることになる。つまり、民主制といふのは、独裁政治を可能とする政治システムの一つなのであつて、カエサルやヒットラーなども民主的手続で誕生したのである。むしろ、ほとんどの者にそれが独裁政治であるとは思はせない巧妙な民意操作を「選挙」といふ「国民の自慰」によつて実現できるシステムなのである。これが国民主権の幻想的トリックなのであつて、救済されることを説いた宗教教団の教へを信じた者が、その教団によつて苦痛を味はひ命を落とす羽目になるといふ皮肉な現実があるのと同じやうに、自由と権利が保障されると信じて、法実証主義の国民主権を信じた者が、それによつて自由と権利が奪はれるのである。そもそも、民主主義とは、多数決原理により少数者の権利と自由を制限し否定することができる少数者弾圧のための制度であり、これに過度の期待と理想を持つこともまた幻想なのである。

「憲法は、権力の横暴から国民の自由と権利を守るためのものである。」との言説があるが、本当にさう思ふのであれば、憲法において何人に対しても主権を与へてはならない。国民の自由と権利を侵害する「権力」とは「主権に基づく権力」であつて、自分で自分の墓穴を掘らせることになるのが「主権」といふリバイアサンである。このリバイアサンは、「国民主権の名において国民の自由と権利を侵害する」怪獣なのである。

そもそも、民主主義と自由主義とは対立する概念である。前述したとほり、民主主義とは、多数派が少数派を弾圧して少数派の自由と権利を奪ふことを容認する制度であり、自由主義とは、とりわけその少数派の自由と権利を保障する主張なのである。つまり、多数決で決められる事項と範囲を限りなく「拡大」させる方向が民主主義の勝利であり、その事項と範囲を限りなく「縮小」させる方向が自由主義の勝利なのである。「自由」と「民主」とはそのやうな関係にあり、その事項と範囲の線引きを誰が決めるのであらうか。もし、「国民主権」を肯定すれば、その主権を実質的には多数派が支配することになるので、「民主主義」の完全勝利となる。おとなしくしてゐたらある程度はその自由と権利を認めてやるといふお情けにすがつて少数派は生き続けなければならない。しかし、「主権」概念とオサラバすれば、少数派の自由と権利はコモン・ロー(國體)が多数派の横暴から守つてくれる。「悪法もまた法である。」として死ななくて済む。「悪法は無効なり。」と胸を張ることができる。にもかかはらず、「自称人権派」はこの理屈が解らない。といふか、彼らは実質的には「反人権派」だからである。そして、このやうな輩の跋扈を許してしまつたのがこの「主権論」であることを肝に銘じなければならない。

いづれにせよ、このやうにして、このインチキ宗教の主権論教団は、英国では通用しなかつたが、これが海を渡り世界に害悪をまき散らすことになる。まづは、英国領のアメリカにおいて、国王からの干渉を排除して独立し、共和制国家を樹立したアメリカ合衆国の独立戦争(1776)であり、さらに、国王を排除して共和制国家を樹立したフランス革命(1789)、ロシア革命(1917)、オーストリア革命(1918)、ドイツ十一月革命(1918)などが続く。フランス革命(1789)は、英国が國體の支配による立憲政治の基礎を確立して國體論の勝利を宣言した名誉革命(1689)の丁度100年後に、英国で破れた主権論が海外に渡つてフランスで勝利を宣言したといふ事件であつた。

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