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トップページ > 各種論文目次 > H23.08.18 同工異曲の原発問題と安保問題(その二)

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同工異曲の原発問題と安保問題(その二)

承前

菅直人首相が中部電力に対して浜岡原発の全面的な一時停止の要請をしたことについて、中部電力は、これを受けるか否かを躊躇しながらも、取締役会を五月九日午後に開催して、その運転停止要請の受け入れを決定した。

そして、その後、内閣不信任案の否決に至る茶番劇、安全宣言後のストレステストの実施宣言、原発国営化発言、SPEEDI情報の隠蔽発覚、九州電力のやらせメール問題発覚、保安院と電力七社及び知事との結託によるシンポジウム誘導の事実暴露、自民党の電力会社からの献金事実や民主党の電力会社労組からの献金事実の公表など、原発に関連した様々な政治問題が明るみに出た上に、未だに事故を起こした原発核納容器の具体的な状況が解らないまま核汚染が拡大し、その遮断と鎮静の方策が見えてこないことから、国民の政治不信と原発に対する不安感は極度に高まつてゐる。そのため、全国五十五の原発のうち現在三十五の原発が停止してゐることに加へ、十三か月ごとの定期点検義務実施後の再稼働について自治体の許可が必要となることから、自治体の再稼働許可は極めて困難な状況となり、このままであれば、平成二十四年三月には全部の原発が停止することになる。

いはば、脱原発は、政府と電力会社の自滅的な失態の中で実現化しつつある。これは、原発の維持推進が是か非かといふエネルギー政策に関する議論をする以前に、現実論として脱原発が定着したことを意味する。そして、政策論においても、以下に述べるとほり、原発推進論は破綻してゐることになる。

核汚染の確率

菅首相が浜岡原発の停止要請をした根拠は、「三十年以内に震度六強以上の地震が起こる確率」が浜岡原発では八十四%とする資料に基づくのであるが、この同じ資料によれば、福島第一原発の地震確率は〇・〇%とされてゐたにもかかはらず、震度六強の地震と津波による原発事故が起こつたことになる。このやうな全く当てにならない資料でエネルギー政策が振り回されてゐたのである。この資料によると、志賀原発、大飯原発、玄海原発も地震確率が〇・〇%とされてゐるのであり、この確率論の基礎となる科学的根拠はなく、地震と津波についての科学的分析と予知が不可能であることを逆に証明してしまつたことになつた。つまり、地震と火山噴火などの災害大国である我が国においては、いつどこでどんな災害が起こるかは全く予測できないといふことなのである。

この度の地震と津波は千年に一度のものであるとする原発推進派の主張があるが、このやうな詭弁は最早成り立たない。仮に、百歩譲つて、原発事故を招く地震と津波が千年に一度の確率であつたとしても、それがそのまま原発事故の確率とはならない。戦争やテロによる原発破壊攻撃、航空機墜落事故、隕石の衝突などによる原発破壊など、その確率を加算しなければならないのである。戦争が起こりうる確率が千年に一度どころではないことを我々は良く知つてゐる。これから起こりうる戦争が、敵国の原発攻撃によつて敵国を再起不能に陥れる戦略を選択する可能性が高いことは、今では世界の軍事的常識である。

戦争において、原爆の着弾と原発の破壊とは戦略的には同じ意味を持つ。核弾頭ミサイルの制御が精巧でなければどこに着弾するかは不明だが、原発を確実に破壊すれば、原発設置場所に正確に核弾頭ミサイルが着弾したのと同じ効果をもつのである。

それゆゑ、原発を保有する国は、原発防衛こそが国防の要諦となるが、我が国にはその観点が完全に欠落してゐる。テロや武装工作員の攻撃への防衛策がなく、原発関連施設は自衛隊法第八十一条の二の「警備出動」の対象にもなつてゐないのである。九・一一事件以降における警備強化時には、警察が軽装備の「原子力関連施設警戒隊」を派遣することになつてゐるが、平常時は民間の警備員が警備するだけである。また、原発は大量の水を要するために、我が国では海に面したところにあるが、海からのゲリラの侵入には無防備であり、まるで、テロや工作員による攻撃を待つてゐるかの如き状態にある。

地震兵器

ところで、三・一一以後に続いた余震には、これまでの地震学的知見からして不思議なことがある。福島県浜通りの余震は、三月二十三日午前七時十二分にM六・〇(震源の深さ〇㎞)、同日午前七時三十六分にM五・八(震源の深さ十㎞)、四月十一日午後五時十六分にM七・一(震源の深さ十㎞)、四月十二日午後二時七分にM六・三(震源の深さ十㎞)と続いた。いづれも同じ地点のほぼ同じ深さの所で立て続けに起きてゐる。また、同様に、茨城県でも、三月十九日にM六・一、四月二日にM五・〇、四月十一日にM五・九と、ほぼ同じ場所で震源の深さ十㎞の所で起きてゐる。

余震が同じ場所で連続して起こるのは稀であり、これは未解明の現象である。しかし、その解明のための一つのヒントとして地震兵器による攻撃ではなかつたかといふものがある。百二十年前に現在の高圧交流発送電技術を発明し、電磁波によつて地球を真つ二つに割ることもできると言ひ残して死んだ天才技術者ニコラ・テスラの示唆を受けて、その後に人工的に地震を起こす地震兵器の開発が進んでゐたことから、阪神・淡路大震災でも指摘されたとほり、この度の地震が地震兵器によるものではないかとの推測がある。現時点では未完成であつても、いづれ完成することは時間の問題である。

現に、平成二十三年七月十一日の東日本大震災復興特別委員会において、浜田和幸総務大臣政務官は、「地震兵器とか自然改変装置というのは、別にアメリカだけではなくて、旧ソ連、今のロシアも、中国も、多くの国々が研究開発に余念なく取り組んできた事実があります。しかも、地震あるいは津波を人工的に起こすということは実は技術的には十分可能だと言われているのは、国際政治、軍事上においては常識化されているわけであります。そういった意味で、スマトラ沖の問題にしても、そういう可能性があるということを十分踏まえた上で世界の国際政治の現実ということをとらえる必要があるというのが私の基本的な考え方であります。」と答弁してゐるのである。

仮に、この度の地震が地震兵器によるものでないとしても、近い将来、原発を地震兵器で狙ひ撃ちされる危険性に対応しなければ祖国の防衛は語れない。その意味でも、原発に依存することは危険極まりないことになる。

国土汚染と健康被害

福島第一原発事故における最大の問題は、核納容器の内部がどうなつてゐるのか、誰も知らないことである。これまでの状況から判断して、メルトダウン、メルトスルーしてゐるであらうが、正確な情報が隠蔽されてゐるために未解明な状態にある。大量の放射性物質が間断なく今も放出し拡散されてゐることだけは確かである。そして、それがどの程度なのか、どうすればそれが終息するのかについて全く予測不能なのである。

このやうな状態は、小型原爆が毎日毎日、福島第一原発の設置場所に連続して着弾して爆発してゐることと同じことを意味する。

そして、さらに支那大陸から飛来する黄砂から、核分裂によつて生成される放射性物質セシウム(Cs137)が検出されてをり、我が国は内部と外部から核汚染され続けてゐることになる。昭和二十年ころから、アメリカ、ソ連、支那等によつて大気圏内(主として北半球の成層圏)での核爆発実験(大気圏内核実験)が行はれ、支那が昭和五十五年に行つた実験が最後になつたが、これらの核実験で生成した放射性物質は、北半球全体に拡散し、雨水ととも地表に降り続けた。そしてこの放射性降下物(フォールアウト)されたものが黄砂とともに運ばれたものなのか、あるいは某国の軍事的な意図によるものなのかについても不明である。それどころか、もしも、支那や韓国の原発に壊滅的な事故があれば、放射性物質が偏西風などに乗つて我が国に飛来し、さらに全土が核汚染されて祖国が壊滅する危険がある。

それゆゑ、国防を論ずる者は、自国のみならず世界のすべての原発に反対しなければならない良心的宿命を背負つてゐるのである。

ところが、一知半解の放射線研究者たちは、少量の放射線は体によいなどと放射線ホルミシス効果(Radiation hormesis)といふ仮説を主張して世人を欺く。これは、低用量時において、ある種の防御メカニズムを刺激することがありうるとするもので、概念的にはワクチン療法に似てゐるが、これまでワクチンによる効果が医学的に証明されたことがないのと同様に、放射線ホルミシス効果についても、必ずしも再現性が得られず、医学的に確立されたものではない。ワクチン療法も放射線療法も、ともに自然治癒力と免疫力を低下させ、遺伝子への影響が懸念されてゐる。

放射線がもたらす生体への総合的な影響については、広島と長崎の原爆、チェルノブイリ事故以外に実例がなく、しかも、自然界に存在する宇宙からの放射線、原爆、原爆実験、核廃棄物の海洋投棄などによる大量の放射線被爆量はすでに人類を含む地球上の生物の遺伝子に影響を与へてゐることからすると、これらを総合した正確なデータ解析ができてゐないのに、断片的な実験データだけの恣意的な解釈によつて、安全などと結論づけることは学者としての良心がない者の妄言である。

原発の危険性

百年河清を俟つても原発の安全性は保障されない。そもそも、危険なものを危険でないと刷り込まれて危険を感じなくなるのは、生存本能が劣化して行く現象と言へる。危険を速やかに察知して対処することができなければ民族や人類は滅亡するのである。

原発は安全だと刷り込まれ、このやうな事故が起きてもなほ、さらなる安全対策がとられれば安全であるとする原発推進派は、本能が劣化してそのやうに信じ込んでゐる者か、あるいは利権のために意図的に言つてゐる者かのいづれかである。

特に、日本の原発は老朽化してをり、核納容器の破損、外部電源喪失、機器作動停止といふ今回と同様の事故が繰り返される危険がある。原発は「パイプのお化け」と呼ばれ、約八十キロメートルに及ぶパイプが配管され、約二万五千箇所の溶接箇所がある巨大構造物である。スペースシャトルが爆発事故を起こしたのと同じやうに、巨大技術装置による巨大構造物が一瞬にて崩壊するのは過去の歴史からも当然にありうることである。ましてや、現在でも事故の収束回復が不可能で、その確実な目途すら立たない制御不能の技術といふものは、そもそも技術の名に値しない。このやうな巨大構造物の装置を運転する技術的限界もさることながら、人的要素である管理的限界と心理的限界とを重ね合はすと、その脆さは倍加する。

虎を檻の中に閉じこめても、その檻はいつか必ず破られることがある。これが危険物制御の巨大技術のもつ宿命である。そして、前に触れたとほり、その檻は、自然に破られたり、施錠が腐敗して外れたりする以外に、何者かが故意に檻を壊しに来るといふことが最も可能性が高いのである。

しかも、虎が逃げ出した場合でも、その檻を営利企業が管理運営することから、保身のためにその事実の公表を遅らせ、逃げ出す前後の情報を改竄したり隠蔽したりすることは必ず起こりうるのである。

これまでのことからしても、原発の管理体制において、経産省の原子力保安院と内閣府の原子力安全委員会といふ制度では再発防止と迅速な復旧対策は図れない。いづれも原発推進を行ふ政府機関が推進機能と抑制機能を形式的に分掌したとしても、それには限界と矛盾がある。原発推進をする政府の行為に対して、これに異議を唱へ、慎重な対応を求める者によつて監査機関を設置するといふ「効用均衡理論」(拙著『國體護持總論』第五章参照)による制度を構築しなければ管�理体制に万全を期したことにはならないのである。

原発と経済

原発推進派は言ふ。原発に代はりうる安定的な電力供給源はなく、原発を止めれば電気料金が高くなり、不況が加速して海外に産業が移転し日本経済が失速するといふのである。これは、「いつか来た道」の脅し文句である。これまでこのやうな脅し文句を用ゐて原発を導入してきたからである。

贅沢すぎるほどの電力消費をしなければ経済が低迷するといふのは嘘である。いまこそ大量生産と大量消費といふ経済体制から脱却しなければ人類の将来はない。質素倹約は、危機に備へた本能に基づく人の道であるのに、贅沢を奨励する経済政策には根本的な誤りと無理がある。これまで、新古典派の経済政策によれば、供給が需要をつくるといふセー法則に従つて、不況から回復するシナリオは、まづ投資部門が復調し、それに個人消費が続くとしてゐた。不況時でも所得に比して消費はさほど減少せず、景気を下支へする傾向にあつたが、最近では、消費の下支へといふ歯止め効果(ラチェット効果)がなくなつた。いはゆる「消費不況」である。フリードマン理論に踊らされた小泉内閣による民営化といふ日本売りの経済政策が破綻すると、今度はケインズ経済政策を復活させて、公共投資などにより需要が供給を牽引させて不況を脱却せよといふ愚かな主張をする者も出てくるが、そんなことをしても「消費不況」を克服できないことは自明のことである。世の中が不安なとき、将来が不安なときに、将来の備へもせずに誰が過剰な消費に走るといふのか。「消費不況」といふのは、人々が質素倹約といふ人の道に回帰した健全な姿を意味するのであり、歓迎すべきことである。

今騒いでゐる経済の失速といふのは、急激な円高による問題であり、原発の問題ではない。原発事故によつて日本経済が低迷することにより、財務体力の弱い欧米などの経済により強く影響し、負の乗数効果によつて我が国の経済以上に悪化させるために、国際的な投機マネーがドルやユーロから円に緊急避難して円高になるのは当然のことである。

その結果、電力不足と電力コストの上昇からくる経済の低迷と産業の空洞化は、確かに大きく国益を損なふものであるが、それ以上に原発推進による将来の国益の喪失は、永久的に祖国を壊滅させるものであつて、比較にならないほどの被害になることを自覚しなければならない。

今こそ英断を以て保護主義的政策によつて中期的に内需拡大を推し進め、その中核的な国策事業として、尖閣諸島の海底に眠る膨大な資源の開発事業を推進すべきである。これこそが内需拡大とエネルギー資源の自給といふ一石二鳥の経済政策であり、脱原発のための推進力になるのである。

国民主権と原発

世界には、脱原発あるいは原発の見直しをする国が多くある。イタリア、ドイツ、スイス、オーストリア、イスラエル、タイ、フィリピン、ベネズエラ、ボリビア、メキシコなどである。平成二十三年六月三十日、ドイツ連邦議会は、十七基の原発を十年余で全廃することを決議した。放射性廃棄物の最終処分場が確保できないことが主な理由の一つである。同年七月十八日に、使用済み核燃料をモンゴル国内に貯蔵することについて、日米とモンゴルの三カ国による合意文書原案の存在が明らかになつたが、貧しい国を自国のゴミ捨て場にするやうな不条理なことを我が国が画策してゐたことは、ドイツの清廉さと比較して汗顔の至りである。

ドイツは、原発は経済の問題ではなく安全(保障)の問題であり、倫理の問題としたのである。「未来の世代に対する責任」を自覚したためである。この「未来の世代に対する責任」といふのは、ドイツが意識してゐるか否かとは無関係に、「国民主権」を放棄したことになる。国民主権といふのは、死人に口なし、子どもや将来の子孫は黙つて居ろ、といふ思想である。祖先と子孫を無視して、今生きてゐる者(娑婆に居る大人)だけさへ満足すればよく、あらゆるすべてのことを今生きてゐる者だけで決められるといふ、人でなしの思想である。

この国民主権といふ悪魔の思想からドイツは脱却し、脱原発へと歩み出した。ドイツもイタリアも原発で商売をしてゐるフランスから買電してゐるが、それは長期的に解消される課題である。

我が国もこれに遅れをとつてはならない。昭和二十年六月八日、天皇御臨席の最高戦争指導会議(御前会議)において、聖戦完遂、國體護持、皇土保衛の国策決定がなされたが、これは現在に至るも変更されてゐない。この国策決定に基づいて、脱原発を推し進めることにより連合国のNPT体制から脱却し、尖閣諸島の海底に眠る石油、天然ガスなどの地下資源を活用し、我が国はエネルギーの完全自給国として再生し、これまでとは逆に、エネルギー輸出国として国際政治を主導しなければならない。このことを自覚して、尖閣の試掘調査を手がけた中川昭一氏は、失脚した後に無念の死を遂げた。彼こそは、この国民主権を謳ひ挙げる占領憲法が憲法として無効であるとする管見を秘かに理解してくれた政治家であり、日本の真の独立は、エネルギーの自給体制の確立であることを理解してゐた。だからこそ、いつまでも日本を原発漬けにしてエネルギー属国に留めて置きたいアメリカにその政治生命を奪はれたのである。

脱原発と食料自給

官民が結託して行ふ世論誘導は、珍しい話ではない。小泉内閣が行つた郵政民営化におけるタウンミーティングにおいて、広告代理店と経産省とが結託したことも同様の構造であるが、はたしてこのやうなことまでして基幹産業を「民営化」し、それを強化することの狙ひはどこにあるといふのか。

それは、民営化の「民」の中には「外国」(外国勢力、外国企業、外国政府)を含むといふことである。民営化とは、外国勢力が我が政府を飛び越えて直接にその意向と思惑を実現しうるシステムを構築させること、つまり基幹産業を外国勢力に売り渡すための準備を意味するのである。

現に、戦後間もなく、電力会社が民営統合による地域独占方式となつたことや、正力松太郎や中曽根康弘などCIAの工作員たちが原発を熱心に導入した経緯があつたことは前にも少し触れた。そして、それを裏付けるかの如く、最近(八月四日)の共同通信の配信記事もその事情を伝へてゐる。それは、「米政府が、日本への原子力技術協力に乗り出した一九五〇年代半ば、原子力の平和利用促進によって日本国民の反核感情を和らげた上で、最終的には日本本土への核兵器配備にこぎ着ける政策を立案していた」とするものである。

これらのことからすると、原発は、アメリカの政治的意図から、我が政府を通じて電力会社への間接支配と、電力会社に対する直接支配といふ二重支配のために民営化されたことが歴史的事実であるといふことである。そのことからすると、脱原発のために原発国営化の方向によつて原発依存から離脱することは当然のことである。

しかし、菅直人の唱へる脱原発政策は、ソフトバンクの孫正義といふ「政商」と結託して、大規模太陽光発電構想を実現することにある。これは、農地法をさらに改正して、農地転用と農地売買を緩和して、休耕田や耕作放棄地、さらに無立木地を安価で取得して、ここにソーラ・パネルを設置する狙ひがある。

耕作放棄地は、今では埼玉県の面積を遙かに超えてゐる。また、我が国の森林面積の約五%に相当する百二十五万ヘクタールの伐採跡地が再造林を放棄した無立木地となつてゐる。これは禿げ山の荒地となり、土砂流出災害や山崩れの危険があり、砂防が必要となる国土である。森林がなくなれば農地もなくなる。ここにソーラー・パネルを設置すれば、森林も農地も永久に潰される。そして、この禿げ山さへもテモリの孫正義が狙つてゐるのである。それどころか、これらの無立木地のみならず、全国の山林を外国人が買収に走つてゐるのが現状であり、皇土保衛(皇土保護)は刻下の急務となつてゐる。

我が国では、生産調整といふ名の減反政策が本格的に導入された昭和四十五年から昨年までで実に四十一回を数へ、平成十二年の農水省の試算によると、輸入食料を除ゐた日本国内の食料供給力がすでに危険水域に達してゐるのである。総合食料自給率(カロリーベース)は四十%程度であり、今後も、耕作放棄地の増加、耕作利用率の低下、耕作従事者の減少といふ三重苦の中で、食料自給率はさらに低下する傾向にある。そして、この時期にTPPに参加すれば、我が国の農業は壊滅を待つだけの回復不能状態となることは必至であるが、それを確実にした上で、亡国政策を利権に転嫁するために菅直人と孫正義は蠢いてゐるのである。どうしても利権のためのソーラーを設置したいのなら、森林を伐採して乱造成された全国のゴルフ場を廃止して、そこに設置した方が国益に合致するはずである。奢侈なゴルフをしなくても死なないが、食料がなくなれば死ぬのである。



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