自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H28.07.15 連載:第五十五回 テロの行方と国際血盟団 【続・祭祀の道】編

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第五十五回 テロの行方と国際血盟団

うなはらに すめのいはふね くだけちり のちをゆだねた ひとなわすれそ
(海原に皇軍の磐船碎け散り後世を委ねた人な忘れそ)


【テロの定義】


テロリズム(テロ)の語源は、世界最悪の野蛮国と呼ばれたフランスで起こつた九月虐殺に始まると言はれてゐる。これは、「恐怖政治」のことであり、あくまでも権力側の殺戮行為等の「行動」を意味してゐた。


現在、テロの定義には、様々なものがあるが、平成16年11月、国際連合事務総長の報告書の中に登場した「住民を威嚇する、または政府や国際組織を強制する、あるいは行動を自制させる目的で、市民や非戦闘員に対して殺害または重大な身体的危害を引き起こす事を意図したあらゆる行動」といふやうに、国内秩序、国際秩序を維持する側を正当化するだけの定義では、現在世界に蔓延してゐる、恐怖心を植ゑ付ける「恐怖行動」の多様化を説明することは困難である。

従つて、ここでは、政治、経済、文化、宗教その他の社会的意味を持ち、あるいはその社会的影響を狙つた一切の「恐怖行動」をテロリズム(テロ)とする最広義の定義によつて話を進める。


つまり、恐怖行動の主体が権力側であらうと反権力側であらうと、その相手方が権力側であらうと反権力側であらうと、これら全てを含む。恐怖行動の主体と相手方は、国家であらうと国際組織であらうと非国家の組織ないしは個人であらうと、他国であらうと他国の組織ないしは個人であらうと関係はない。


そして、テロの分類として重要なのは、国家ないしは国連その他の国家組織その他権力側の行ふ①「秩序維持型テロ」と、それに抗する反権力側による②「秩序破壊型テロ」の区別である。

既存の権力は、その権力を維持するために、これを破壊しようとするテロを弾圧するのは、権力組織の防衛本能からして当然に正当化できる論理である。国家による「公務執行型テロ」である。フランス革命の九月虐殺は、革命権力の秩序維持のために反革命勢力を弾圧するために正当化されたテロもこの類型である。

国家権力の秩序維持、秩序形成のためになされる公務執行型テロは、法的な正当性を装つてゐる。そして、政治的意味などを持たない日常的な「犯罪」に対しても、これを社会秩序を破壊する行為として制裁を加へるのである。つまり、権力側は、テロも犯罪なのであり、国家の秩序維持のために当然に正当化する。


このことからすると、権力を維持するために、国内秩序の維持のみならず、対外的な国家防衛の発動としての「戦争」が国際社会において国家の自己保存本能に基づく行為であるとして国際法上も合法であると正当化されることとは全く同じ論理なのである。


一人を殺せば犯罪者であるが、戦争で敵兵を多く殺せば殺すほど英雄とされることについて、人道主義者たちが明らかな「矛盾」であるとヒステリックに囃し立てるが、これは全く意味のない情緒的な論理破綻の産物である。

秩序を保つた社会において人を殺しても許されるとすれば、その社会の秩序を破壊することになるので、この秩序維持のために犯罪者として処罰することは当然である。これに対し、国家の自己保存本能の発動としての戦争において、多数の敵兵を膺懲して自国に勝利をもたらし国家の存続を維持しようとした行為は、秩序維持、秩序確立を行つた者として「英雄」として讃へられるのは当然であつて、全く異なつた論理なのである。

秩序破壊者を「犯罪者」として処罰し、秩序維持者を「英雄」であると賞賛することは当然である。


しかし、実際には、この非政治的な犯罪者と政治的なテロリストを権力側の論理で片面的に同視してしまふほど簡単な問題ではないのである。国家側の論理からすれば同視することは当然のことであるとしても、反権力側からは、さうではない。

権力側の行ふテロは、秩序維持型テロであり、反権力テロを国策として抹殺し政治弾圧することを正当化するが、その逆に、反権力側は、既存の権力を破壊してクーデターや革命を成功させれば、新たな権力秩序が生まれて、テロが正当性される。テロによる権力奪取の攻防といふ次元と、非政治的な日常の犯罪とを同じとすることは、単に権力側の論理に他ならないからである。


テロが裁かれるとき、その「犯罪者」は、概ね確信犯であり、政治的、経済的、宗教的な信念などを堂々と披瀝し、全く改悛の情がない。ところが、非政治的で日常的な犯罪を犯した「犯罪者」も、テロリストの論理を借用することがある。それは、評論家と称する者達の言説によつて、犯罪に対する一般的な批判とは異なつた世人の反応を呼び起こすこともある。日常的な普通の犯罪であつても、その背景事情を誇大に喧伝し、加害者が被害者でもあるとする「社会的意義」を無理矢理にでも見つけ出して、この犯罪が起こつたのは「社会にも責任がある」として「準テロ」に昇格させる傾向すらある。

さうなつてくると、犯罪とテロとの区別についても、その領界部分が不明確になつてくるのである。


【対テロ戦争の概念とその影響】


ところで、アメリカがテロを「新しい戦争」と呼び、「対テロ戦争」といふ戦争概念を打ち立てたことによつて、テロ(テロリズム)とテロリストの国際法上の評価と地位に関する重大な問題を含むことになつた。

テロを新たな国際法上の戦争形態に加へることにより、国家vs国家の「戦争」において、軍人が民間人を装つた「便衣兵」として民間人を攻撃する戦闘にも戦時国際法を適用させることになる。しかし、現在のテロの様相は、国家vs国家だけではなく、主に、国家vs非国家組織の攻防が主流になつてきてゐる。また、その攻撃対象も軍事組織及び軍事施設だけではなく、非戦闘員及び非軍事施設に拡大され、ハイブリッド戦争の様相となつてきた。

そのため、「テロ」=「戦争」と認定すれば、テロリストから交戦者資格(捕虜として軍事裁判を受ける権利)を剥奪できなくなり、相互に無差別テロがエスカレートするだけとなつて、大きな自己矛盾を抱へることになる。


「対テロ戦争」といふ言葉とその概念の持つ意味は、テロ行為と戦争行為とを同列にすることであり、対テロ戦争を行ふ国家の側がテロ組織に対する攻撃を「戦争」と捉へるのであれば、テロ組織側もその国家に対するテロも戦争であると主張することとなつて、今後の国際社会に重大な影響を及ぼすことになつてきたのである。

「戦争」と「テロ」とを同列に論ずれば、その区別がなくなつて、戦争当事者においても「国家」と「非国家」の区別がなくなる。また、戦闘実行組織である「戦闘員」と「非戦闘員」の区別も、攻撃目標である「軍事施設」と「非軍事施設」の区別もなくなる。

そして、これまで戦争犯罪とされてきた、都市空襲、原爆投下などの非戦闘員の大量殺戮の犯罪性もなくなることになる。戦争のハイブリッド化といふよりも、カオス化である。


これまでの戦時国際法の交戦法規には、陸戦法規、海戦法規、空戦法規があり、交戦者資格は国家にあり、戦争は軍事組織間の戦闘に限定され、戦闘員であることの表示(軍服、階級呼称)が義務付けられてきた。そのため、便衣兵の戦闘行為は違法とされ、攻撃目標の選定の原則によつて、戦闘員と軍事目標には厳格な制限を定めてきた。降伏者や文民などの非戦闘員への攻撃や民生施設などの非軍事施設への攻撃は禁止され、無差別な都市空襲や原爆投下は違法であり、イラク戦争の戦闘態様などに対しても戦時国際法に基づく批判がなされてきたが、「テロ」=「戦争」を認め、対テロ戦争を認めることによつて、これらの制限と区別は消滅し、双方とも無差別攻撃を批判することができなくなつた。


IS(イスラム国)を国家として認めるか否かとは関係なく、軍事施設や戦闘員に対する攻撃には限定せず、IS支配地域の非戦闘員や非軍事施設を無差別に攻撃する「空爆」に対して、これも「対テロ戦争」として容認してしまつたのである。  それゆゑ、テロを戦争と認め、対テロ戦争を容認するのであれば、武器対等の原則に従つて、ISの方も、日本を含む有志連合の非戦闘員や非軍事施設を無差別に攻撃することの正当性を主張してくるのである。


占領憲法が憲法であれば、第9条第2項後段に、交戦権の否認の条項があるので、アメリカをはじめとする有志連合の対テロ戦争を容認することはできないはずである。しかし、対テロ戦争への支持を表明した我が国は、交戦権の行使といふ憲法違反を犯したことになる。対テロ戦争に中立を表明せず、有志連合の支持を表明して軍事的、経済的援助を行ひ、IS支配地域への経済封鎖などを行ふ行為は、宣戦布告であつて交戦権の行使となることは明らかであるが、「護憲派」がこれを徹底的に批判しないのは全く不思議なことである。


【公益テロの出現予想】


ともあれ、テロには様々な態様がある。フランス革命の九月虐殺のやうなものだけでなく、北朝鮮による「拉致テロ」、宗教的目的を背景として自己の描く宗教理念とその世界の実現を目指したキリスト教徒の十字軍遠征やイスラム勢力によるジハードなどの「宗教テロ」、人種差別や貧困(貧困の苦境や貧富の極端な格差)への反発が原因となつて引き起こされる「人種テロ」や「貧困テロ」、そして、権力への憎悪的反逆として、権力の走狗である政府要人や軍人、警察官を狙つた「反権力テロ」などがある。


そして、テロリストが掲げる要求事項も様々である。人質を取つて身代金を要求するもの、自己に利する政治的要求をするもの、あるいは、問答無用に人質を殺害したり周囲の多くの人を巻き込んで行ふ無理心中的な自爆テロを行つて、犯行声明を出して自己の勢力を誇示するものなどがある。

これらは、いづれも例外なく「私益」によるテロである。

しかし、今後は、「公益目的」のテロが出てきても不思議ではない。


言論や選挙などによる既存の政治システムに基づく解決ができないと絶望したとき、人は「肉体言語」としてのテロに出ることがある。このやうに、とことん方策を尽くしてもできない場合にやむを得ずにテロに走る場合と、さうでない場合にもテロに走る場合とがある。それ以外に選択肢がなかつたか否か、やむを得ない行動であつたのか、といふ「補充性」が満たされたか否かは、今後予測される「公益テロ」の論理の帰趨に大きく影響するものと思はれるからである。


これまでのテロは、テロリストもテロの被害者も、その殆どが富裕層ではない。むしろ、貧困層同士の無理心中に等しいテロであり、そのテロによつて人々の心を動かし、時代の大きな転換を与へることはなかつた。

しかし、これから生まれるであらう「公益テロ」出現の予感の中で、その先駆けとなつたテロの原型がある。それが、「ちくらのおきど」第15回「天皇の赤子」(平成26年11月15日付け)で述べた「血盟団事件」である。

元大蔵大臣である井上順之助を暗殺した小沼正には、一視同仁の理想を実現しようとする公益の心(公徳心)があつた。決して私益の実現ではなかつたのである。


このやうな公徳心に基づくテロは、我が国の伝統でもある。幕末における水戸藩は、御三家でありながら、公益のために専らテロに走つて倒幕の契機を切り開き、その汚れた手で新政府による建設に携はらうとはしなかつた。水戸藩は、テロに徹して、そして滅んだ。公益テロの決行した後に滅び行くといふ美学を実践した。これが後に続く者を信じた特攻の崇高な突貫精神へと繋がるのである。


【国際血盟団】


世界では、子どもが6秒に1人の割合で、貧困と栄養失調等のために死んでゐる。

その一方で、0.14%の超・富裕層が世界の金融資産の81.3%を所有し、その超富裕層中の62人の大富豪が世界の下位36億人分の資産を保有してゐる。

こんな恐ろしい格差社会の世界が長続きするはずはない。


平成10年にノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・センの「飢餓と公共の役割」に関する研究によれば、「貧困とは自由の欠如である」とされ、全ての飢餓や貧困は、たとへ自然災害を契機とする場合であつても、終局的には不平等と自由の欠如といふ政治的要因に全て起因することが証明されてゐる。


宗教対立とか、政策対立などで、貧困層同士の間でテロを繰り返してゐる場合ではないのである。目先の利害関係の対立で近親憎悪を煽り、テロがテロを連鎖させ、循環して拡大再生産する間にも、子どもは刻々と人知れず死んでゆく。


これを真摯に受け止めたとき、貧困で死んで行く子どもの命も、大富豪の命も、命に格差がないとするのであれば、テロの標的を大富豪に向けて子どもを救へとする公益テロの思想が出てきても不思議ではない。


1分で10人、6分12秒で62人の子どもが死んで行くのであれば、それと同じ時間をかけて62人の大富豪を殺して、同じ数だけの62人の子どもと、さらには、その以後にも間断なく死んで行く多くの子ども救ふためであるといふ論理で、大富豪を順次殺してその財産を実力で奪ひ、これを貧困層に全部分配する「義賊」が出現すれば、大衆の喝采を得られて、それが世界の指導者となる可能性すらある。富の再配分を放棄した政府に代はつて、それを実現するといふ大義である。


平成22年のジャスミン革命に始まる「アラブの春」といふ民主化運動を目の当たりにしたノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・E・スティグリッツは、「1%の1%による1%のための政治」と叫んだことから、それがアメリカでは、最上層の1%に対して「我々は99%だ」、「ウォール街を占拠せよ」といふ運動へと発展したものの、僅か2か月程度で終息してしまつた。


金融資本主義による為替取引や金融商品取引などの賭博経済が、実需経済(実体経済)を翻弄し続けてゐる。世界の外国為替取引量は、平成元年では約142兆ドルであつたものが、平成25年には約1283兆ドルと約9倍に膨張した。

1日当たりの計算では、5.345兆ドルとなるが、世界のGDPはその14日分、貿易額は僅か4日分に過ぎないのである。我々の世界は、これほどまでに醜悪でおぞましく歪んでゐる。


もう、金融成金などが牽引するエスタブリッシュメントによる世界支配は、「飽和絶滅」によつて終はりつつある。しかし、その後に建設される世界は不透明ではあつても、人は、悲しいかな「破壊」自体に快感を抱き、それを実現する者を英雄視する傾向があるが、これが公益テロを生み出す背景となつてゐることには疑ひはない。


我が国には、伝統的に「義賊」を待望する空気がある。判官贔屓の思ひが充満してゐる。天下を盗んだ秀吉に対抗した大盗人の石川五右衛門とか、武家屋敷専門盗賊であつた鼠小僧次郎吉とか、決して歴史的事実としては義賊ではない者たちであつたとしても、それでも義賊であつてほしいといふ庶民の願望からフィクションが生まれるほど、義賊待望論があるのである。そして、今も、その気質は脈々と受け継がれてゐる。


その義賊の一つに「血盟団」があつた。井上日召は、「一殺多生」と説き、これに大義があると信じた。それと同じやうに、62人の大富豪に代表される世界の富豪を殺すことによつて、その1億倍の人の命を生かすことができるといふ大義を掲げる組織が生まれても不思議ではないのである。


「ちくらのおきど」第八回の「義理と人情」で述べたとほり、レントシーキング(rent-seeking)によつて大富豪が不正に蓄財したこれまでの全ての資産を貧困層にすべて分配しなければ「お命を頂戴する」と通告したのに、これを受け入れなかつたために殺害したといふ犯行声明をする秘密結社が現れれば、「補充性」を満たすので、人々の共感を生む。これは、世界に独善的な宗教的恐怖をまき散らすIS以上に世界的な影響力が出てくる。ISなんぞは、単なる私利私欲集団として早晩没落して行くのである。


ノーブレス・オブリージといふ偽善かつ欺瞞の施しによつて延命し蓄財してきた大富豪こそが、格差を拡大して世界を毀した大犯罪者であるとして、その「平和に対する罪」、「人道に対する罪」を問ふ、世界変革を目指す究極のテロ組織「国際血盟団」は、いづれ出現するはずである。


そして、仮に、このやうな一時的な混乱と殺戮を経たとしても、いづれは、有害で過剰な資産保有を解放し、世界の民が大家族制と家産制度を復活させ、自立再生社会へと向かふ契機となるはずである。個人単位で資産を所有する私有財産制度から、家族が代々生活を営むことのできる恒産として家族単位で資産を所有する家産制度へと転換しなければならないのである。


共産主義がプロレタリアート独裁を確立するために殺戮を繰り返した歴史から、そのやうな状況に陥つてはならないとして資本主義は修正を余儀なくされた。
それが修正資本主義である。

そして、累進課税等の導入など共産党宣言で述べられた大半の社会主義政策を取り入れて大衆を懐柔し、それによつて共産革命を阻止してきたら、共産主義の方が、内在する自己矛盾によつて崩壊した。


ところが、共産主義が自滅しただけで資本主義が正しかつたのではないのに、これによつて勝ち誇つた資本主義は、露骨な金融資本主義を暴走させ、富の再配分のための累進課税を換骨奪胎し、消費説といふ逆進性の税制を導入して格差をさらに拡大させてしまつたのである。


そして、世界の格差構造がキリスト教とイスラム教の宗教対立と相似してゐることから、イスラムテロが、この格差社会への擬似的な挑戦として生まれたが、これでは、世界の根本問題は全く解決しないことはご承知のとほりである。


そこで、国際社会の真の変革のために、究極のテロ組織としての国際血盟団が登場することになるだろう。

そして、これによつて、世界は、その無益な殺戮を回避するために、議会主義によつて法律を制定し、大富豪の資産を没収して、殺戮する場合と同じ目的を達成しようとすることになる。


共産主義といふ非議会主義(暴力)による社会変革をさせないために、修正資本主義といふ議会主義による社会変革を推し進めたのと同様に、遍く世界に普及する国際血盟団運動によつて非議会主義(暴力)による社会変革をさせないために、議会主義に則つて、国際血盟運動を推進する政党が各国の議会で多数を占めることになる。

そして、金融資本主義と賭博経済を終息させる法制度を確立した上、等身大を遙かに超える過剰な資産を没収し、貧困層の家族に富を再配分して、すべての家族が適正な「家産」を形成できる「資産解放政策」を押し進めて、自立再生論による社会変革を実現する契機となるであらう。

南出喜久治(平成28年7月15日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ