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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百四十二回 祭祀と宗教 その三

いつきすて おやうまごすて ゆだぬれば すくふとだます あだしのをしへ
(祭祀棄て祖先子孫棄て委ぬれば救ふと騙す外國の宗教)


では、どうして、近代合理主義の思想が宗教と親和性があり、宗教の一種と看做すことができるのかと言へば、宗教、とりわけ世界宗教と呼ばれるものは、国境を越え、民族を超え、言葉を超えて、一つの教へにより人々を同化させて人類を統一することを目的とすることにおいて近代合理主義と共通してゐるからです。


つまり、世界宗教が、国境を越え、民族を超え、言葉を超え、と説く普遍性なるものは、究極のところ、国境をなくし、民族をなくし、言葉を一つに共通させて、家族と祭祀を捨てさせることを目的とするもので、これは近代合理主義と共通したものなのです。

これは、思想的な「全体主義」を押し進めることにあります。普遍性といふものは、全体主義を正当化するための言葉なのです。


全体主義の本来的な意味は、個人の全ては全体に帰属し一体性を維持すべきであるといふ、共同体を維持するための思想であり、当初は批判的には用ゐられませんでした。

しかし、これが政治思想の概念として用ゐられることになると、その意味は、個人の利益よりも全体の利益が最優先し、結果的には全体の利益のために個人の利益が否定されるといふ、個人主義、自由主義と対決する概念として批判的に使はれることになりました。


アレントの『全体主義の起源』で指摘されたやうに、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、ソ連のスターリニズム、中共の毛沢東主義などを全体主義であると指摘し、左右の全体主義体制から民主主義、自由主義、個人主義、法の支配といふ価値観による政治体制を守らうとすることから、全体主義は不倶戴天の敵とされてきました。


そして、現在では、習近平の中共や金正恩の北朝鮮などのやうな絶対独裁支配の暗黒体制を全体主義と認識し、これに対抗してこれを自壊させるために、米中戦争といふ「体制戦争」の時代に突入してきました。


たしかに、徹底した思想統制と人権弾圧、異端者に対する殺戮が無慈悲に平然と繰り返されてゐる絶対独裁国家の中共や北朝鮮は、典型的な全体主義そのものです。

この独裁体制を維持するために、科学技術を駆使して顔認証などによつて人民のすべての一挙手一投足の動向を認識できる極度の監視社会を構築し、独裁体制を支持する思想と行動を強制して、これに異を唱へる者を容赦なく抹殺することが着々と進んでゐます。


これにより、中共は、すべての人民を完全にサイボーグ化し、民族とその文化を抹殺して徹底した均一化を図り、思想的な異議や反論を一切許さず、異端の徹底排除を行つてゐる体制です。そして、それを中共国内のみならず、一帯一路と称して世界にそれを広げる覇権主義、膨張主義を展開してゐます。


米ソの冷戦時代での共産主義との体制戦争は、現在における共産党独裁と個人崇拝の中共との米中の体制戦争とは同じ性質のものであり、すべて全体主義との戦ひです。


この全体主義と対立する思想としては、それは個人主義(自由主義、民主主義)だと言はれてきました。


では、この全体主義は、近代合理主義と無関係なのでせうか。


否。この全体主義こそが、近代合理主義の嫡流の思想なのです。


合理主義(rationalism)といふのは、理性(reason)が至上のものであり万能のものであるとする理性絶対主義のことです。つまり、感覚、経験、無意識、直観など本能(instinct)の体系を全否定する思想であり、本能を単純な物欲、性欲などの欲望(desire)と同視して蔑み、理性は万能で、理性は善であり、本能は悪だとするのが合理主義です。

ところが、これでは「本能の塊」であるはずの動物には犯罪がなく、「理性の塊」であるはずの人間に犯罪があることの説明ができません。このことだけでも合理主義は誤りであることが明らかなのですが、「理性」とか「合理」といふ言葉に惑はされて、これが正しいと信じ込んでしまつてゐるのです。


理性(reason)とは、感情に支配されずに道理に基づいて思考し判断する能力であると言はれてゐますが、reasonの原義は、数へることです。推論(reasoning)の能力、計算能力のことであり、これが人間にとつて万能の価値があるとするのは噴飯ものも甚だしいものです。


個人主義といふ合理主義が生んだフランス革命といふ史上最大の宿痾は、ルソーによつて完成したのですが、エドマンド・バークは、フランス革命を目の当たりにし、『フランス革命の省察』を著して、「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、一七八九年からの野蛮な行動など及びもつかぬ水準の徳と智恵を祖先の中に認識したことでしょう。」「あたかも列聖された祖先の眼前にでもいるかのように何時も行為していれば、・・・無秩序と過度に導きがちな自由の精神といえども、畏怖すべき厳粛さでもって中庸を得るようになります。」として、フランス革命が祖先と伝統との決別といふ野蛮行為であることを痛烈に批判しました。そして、バークは、ルソーを「狂へるソクラテス」と呼び、人間の子供と犬猫の仔とを同等に扱へとする『エミール』のとほりに、ルソーが娼婦に生ませた我が子5人全員を生まれてすぐに遺棄した事件に触れて、「ルソーは自分とは最も遠い関係の無縁な衆生のためには思いやりの気持ちで泣き崩れ、そして次の瞬間にはごく自然な心の咎めさえ感じずに、いわば一種の屑か排泄物であるかのように彼の胸糞悪い情事の落し子を投げ捨て、自分の子供を次々に孤児院へ送り込む」とその悪徳と狂気を糾弾しました。


また、このやうな狂気の人について、イギリスのチェスタートンは、「狂人とは理性を失つた人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失つた人である。」と言ひました。つまり、ジキルとハイドで描かれてゐる善悪の区別はすべて理性の産物であつて本能の産物ではないといふことです。


「欲望=本能=悪」と捉へるのは合理主義の致命的な誤りです。確かに、理性も欲望を押さへる働きがありますが、根本的な秩序を形成したり維持したりするために、秩序を破壊する欲望を抑へるのは、むしろ本能の働きなのです。


ともあれ、この合理主義から導き出させたものが個人主義と全体主義です。相反する思想のやうですが、さうではありません。理性が全ての人間に等しく備はつてゐるのであれば、歴史、伝統、民族、言語などの相違を乗り越えて、普遍的な思想に到達することになりますので、個人個人の理性を尊重すれば、歴史、伝統、民族は不要となり、言語は一つに統一することが合理的なのです。個人に宿る理性を尊重するのが個人主義なのです。


また、すべての個人が普遍的な思想に到達するまでの過渡期においては、対立が起こるとしても、最終的には自然淘汰されてすべての人間が同じ普遍的な思想に到達することになりますが、そのやうな自然淘汰的な迂遠な方法よりも、すべての人間に普遍的な思想を示して早急に統一すればよいといふ考へも出てきます。人為的に普遍思想へと統一することです。それが全体主義です。つまり、個人主義も全体主義も、合理的な世界に到達するための手段と方法の違ひに過ぎないのです。


この合理主義からすると、歴史、伝統、風習、民族性などから解き放された普遍的思想を持つサイボーグを作ることが究極の目的となります。


イソップの寓話に「兎と亀」がありますが、これは、全体主義(兎)によつて性急に合理主義を押し進めても、失策と油断によつて、個人主義(亀)に負けることを寓意してゐます。

「どちらが先に駆け付くか」といふことであつて、個人主義と全体主義とは、合理主義の覇権を競ふ兄弟同士による「コップの中の論争」に過ぎないことになります。


そして、その合理主義を推進させる方法論はともかく、国境を越え、民族を超え、言葉を超えて統一した世界を実現するためには、歴史や伝統、風習などの特殊な要素を排除することに主眼があります。排除されるものの中には、当然に「家族」と「祭祀」が含まれます。個人を家族から解き放ち、「孝」を否定してバラバラの個人にする必要があります。孝を否定し、家族と祭祀を否定することにおいては、個人主義と全体主義とは、カインとアベルのやうに敵対してゐますが、本質的には近代合理主義の兄弟として同じ考へを持つてゐるのです。


近代化とは、「均代化」であつて、大衆と呼ばれる没個性のマスマンといふ均一な砂の民が蔓延する社会を目指すことです。

つまり、その均一な砂の民となつたサイボーグを最も効率よく安定的に統治する究極の政治形態が絶対独裁の全体主義なのです。


近代合理思想では、個性の尊重といふことが個人主義として尊重されるものであると思つてゐる人が多いのですが、近代合理主義の目指す究極の個人主義とは、家族主義、祭祀を全否定するための対抗思想であり、個人主義の徹底は、人間のサイボーグ化であり、究極は個性の否定、個性の均一化なのです。


そして、この近代思想と宗教とによつて世界は画一化し、孝が否定され、親も子もなく、祖先も子孫もなく、個人として独立した存在となつて平等となり、バラバラの「砂の民」となります。これは、出エジプト前の奴隷であつたユダヤ民族に支配してゐた奴隷思想、奴隷道徳そのものです。


砂粒同士がバラバラのままとならずに、水と土着菌や微生物などと共生協働して結合して新たな命を生み出す土のやうな「土の民」ではありません。

土の民は、祭祀の民であり、砂の民は宗教の民です。


そして、親を捨てたマザーテレサや野口英世などといふ典型的な偽善者とペテン師がいつまでも賞賛されてゐるのは、個人主義を基軸とした奴隷思想の合理主義が支配した宗教と同類である「近代合理主義」といふ宗教的価値観によつて多くの人々が洗脳されてゐるからです。


その方向性がまさに宗教とも全く同じなのです。

近代合理主義の個人主義と全体主義とは反目為合ふ同母兄弟であり、世界宗教は、これとは異母兄弟の関係にあり、いづれも、孝と家族と祭祀を破壊し続けて世界の争ひと混乱を生み出した元凶なのです。


では、次回においては、近代合理主義の異母兄弟である世界宗教の特徴について述べることにします。

南出喜久治(令和2年3月1日記す)


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