國體護持總論
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著書紹介

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近親相姦と近親婚の禁忌

およそ、動物の本能は、それぞれの個體と種族を維持し續けるための「指令」であり、それに過誤がなかつたので生きながらえてきたのである。本能に設計ミスや施工ミスがあれば、その個體は早世し種族は早晩絶滅する。人においては、身を捨てて子を守り、傳承され續けてきた智惠と財産の「家産(身代)」の擔ひ手として尊崇される親を守り、その親子を育む家族を守り、その相似的に擴大した部族、種族、そして祖國を守ることは、まさに本能なのである。家族愛、郷土愛、祖國愛(愛國心)などは本能の發露であり、これが弱いのは、本能が劣化し又は退化してゐるからである。

我が國では、多くの人々が、歴史や傳統を重んじる行事を守り續けることや地域に傳はる祭りなどの行事を守り續けるのに、これらの祭りなどの行事を支へてきた歴史や傳統の源泉である「國體」といふことになると何故か偏見と抵抗がある人が居る。このやうな現象は、他の傳統國家ではあり得ないことである。國體が「本」でこれらの行事が「末」であるのに、「末」のみを重んじ「本」を蔑ろにすることは本末轉倒となつてゐる。これは占領政策とそれを承繼した戰後教育の影響によるものである。

 前にも述べたが、孟子の「性善説」と荀子の「性惡説」との對立は、一般には人の「本性」が先天的に善か惡かといふものであると捉へられてゐるが、ここでいふ「本性」を「本能」と理解すれば、孟子の性善説が本能適合性を滿たすことは當然である。家族主義、秩序主義の孔孟思想が今もなほ存續し續けるのは、それが本能適合性を備へた教へであつたことによるものである。これに對し、徹底して己の欲望を滿たすことに人生の價値があると説いた楊朱(楊子)の個人主義(爲我説)と欲望主義が人々に評價されないのは、それには本能適合性がないからである。善惡とは、本能適合性の有無によつて區別され、本能と理性とは不可分一體の關係にあるから、本能が善で理性が惡であるといふことにはならない。本能といふハード・ウェアの上に理性といふソフト・ウェアが組み込まれるのであるから、ハードが幼兒期に強化されず、不完全なままの状態であつたり、また、成人に達してもハードに缺陷を生ずると、その上に構築される理性といふソフトにも不具合が生じたり、エラーや誤作動を生ずることがある。本能に組み込まれた強化プログラムに基づいて自らの本能を強化し完成させないと、理性も歪むことになるといふことである。

ところが、荀子は、本能を惡とし、あるいは本能の「部品」の一つである「欲望」のみを惡とする。そして、楊朱(楊子)は、その本能の「部品」の一つである「欲望」のみを善とする。このやうな見解は、本能と理性とが有機的に連動して一體不可分な關係にあることを否定し、その一部のみを善として、その他を惡とする杜撰な便宜主義思想であつた。しかし、これでは合理主義の誤謬を指摘しすることは到底できず、楊朱(楊子)の場合は、理性を惡とし、個人主義、快樂主義に陷つてしまつたのである。

ところで、本能と理性との相關關係において、この本能の部品の一つである「欲望」の中の「性欲」の本質に關連して試金石として擧げられるものは、人間社會において、近親相姦や近親婚を禁忌してきたのは何故なのかといふことがある。剥き出しの「性欲」が「本能」そのものであるといふのであれば、最も身近に居る親子と兄弟姉妹に向けて「性欲」を追求することが自然なはずであるが、現實はさうでない。そのことについて、これまで樣々な理由と根據が考へられてきた。

古代エジプトでは、王家や上流階級では近親婚が一般であつたとされるが、これは特權維持のため他家の干渉を防ぐ自衞手段としてのものであり、一般化されたものではなく、現在では、これを認めてゐる民族は極めて少ない。尤も、「近親」の範圍が「リニージ」や「氏族」にまで及ぼすものもあるが、すべてに共通するのは、「親族相姦」と「親族間の婚姻」を禁止する點である。

初期においては、近親婚では劣惡な遺傳子が結びつゐた個體が出てくることを經驗的に知つたことから禁止されたとする生物學的見解があつた。しかし、劣惡な遺傳子とは、必ずしも遺傳學的にいふ劣性遺傳子、すなはち、遺傳子が二個結合しなければ出現しない性質のものではない。むしろ、能力的又は形質的に優れた遺傳子が、劣性遺傳子であることが多いことが知られるやうななつたことから、この見解は科學的に否定された。

次に登場したのが、人類學に構造主義を取り入れたフランスの人類學者C・レヴィ・ストロースの見解である。人間の心や行動は、意識だけでは捉へきれない社會構造があるとし、近親相姦や近親婚の禁忌(インセストタブー)は、家族の中の女性を家族内だけで獨占すればその家族が他の家族との關係で孤立し、社會のつながりを形成できなくなるので、「女性の交換」をする社會規範を作つたといふのである。しかし、規範は、本能に基づいて、その規範内容を周知させることに實效性の基礎を置くものであるから、本能とは無縁に、人間の意識外で形成される規範といふものはあり得ない。社會契約説の陷つた矛盾のやうに、「女性の交換」規則を誰も意識せずに全員がそのことを相互に合意してきたといふのであらうか。

さうなると、やはり、ここは本能の出番である。

人間は社會的動物と云はれる。どうして社會的動物であるのかと云へば、人間には對人關係に強く反應する本能があることに由來してゐる。とりわけ、對人關係を築く出發點は、人との出會ひである。そのときにはお互ひに顏を見る。そして、お互ひに顏を認識してその表情を讀み取り、その表情から好意と敵意などを識別するのである。つまり、人間の腦は「顏」の形に強く反應する本能を備へてゐるのである。それがシミュラクラ(simulacra)現象(類像現象)である。目と鼻と口などの人の顏の部分と全體の特徴と表情が詳細に識別できる極度の敏感さがあるために、人の顏に類似したあらゆる形像に對しても、それを人の顏であると錯覺する。壁の染みや岩肌などの自然物の造形が目鼻のある人の顏の形に見えてきたり、人面魚とか人面犬などと騒ぎ出したりする、あの現象のことである。これは幻影の一種であるが、このやうなものまで人の顏と錯覺しうるほど人の顏に對しては敏感なのである。人には、他人の顏の特徴と微妙な顏の表情を讀み取つて對人關係を構築して行く能力が備はつてゐることの證でもある。

この本能によつて、家族と他人とを識別して精緻な人間關係を築いてゐるのであつて、ひとたび家族として識別したときは、さらに次の段階の本能として、家族であることの認識に基づき、他人に對するものとは異なつた行動が規律されて行くことになる。

つまり、このことからして、家族内の女性に對する性的衝動を抑制し近親相姦と近親結婚を避けるのは、自己の家族集團以外の他の家族集團との紐帶を築いて、さらに大きな種族の群れを形成し、それによつて種族全體の維持を實現しようとする種族維持本能によることになる。そのためには、家族内の秩序を維持してストロースの云ふ「女性の交換」が行へるやうにしなければならないので、家族内の女性に對する性的衝動を抑制する秩序維持本能が働く。本能中樞神經として意志とは無關係に機能する自律神經にも、交感神經系と副交感神經系があつて、相互が拮抗的に作用するのと同樣に、この場合には、集團秩序維持本能が性的衝動を司る種族保存本能を抑制する。欲望があるのは、自己と種族を保存するために必要な本能であるが、その逆に、その欲望を秩序維持のために鎭めるのも、やはり本能の働きである。このやうなことは誰に教はることなく、理性的に學習することもなく、そもそも種族内の秩序を維持し發展させるために人類全般に備はつた本能なのである。

この禁忌(タブー)を犯すのは、その者の本能が未完成であるか劣化してゐるためであり、その結果、理性に缺陷を生じたためである。

つまり、禁忌(タブー)とは、人類の本能に組み込まれた生物學上の基本的な道德規範であつて、これは、個體と集團を守るために組み込まれた本能に由來する。これは、本能に基づいて個體内部に形成された自律規範である。これが「禮」の根源である。そして、これが累積されて個體の外部(社會)に他律規範も生まれる。それがさらに民族的特性も加味されて、道德などの、より高度で複雜な社會規範へと形成發展してきた。それゆゑ、個體から家族や社會へ、そして國家といふ集團を防衞するための規範が生まれ、これに違反した者に對して應報的處罰を課すことを當然と認識し、それを實行するのも、階層構造の社會秩序を維持するための本能から由來するのである。國家の形成も、この集團の確定のために必要な本能の發現である。

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