國體護持總論
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承詔必謹説

承詔必謹説といふ有效論がある。これは、昭和天皇が占領憲法を上諭を以て公布されたことから、聖德太子の憲法十七條の「三に曰はく、詔を承りては必ず謹め。」(承詔必謹)を根據として、占領憲法は帝國憲法の改正法として有效であるとする見解である。また、この見解のやうに、必ずしも意識的に主張するものではないとしても、尊皇の志ある者としては、占領憲法の正統性を否定しつつも、それでもなほ無效論に踏み切れない人々の抱いてゐる漠然とした躊躇の本質を顯在化し代辯したものがこの承詔必謹説であつた。

そして、この見解は、昭和天皇が公布された占領憲法を無效であると主張することは承詔必謹に背くことになり、占領憲法無效論を唱へる者は、みことのりを遵守しない大不忠の逆臣であるといふのである。

しかし、もし、昭和天皇が國體を破壞するために積極的に帝國憲法を否定して占領憲法を公布されたとすれば、占領憲法無效論者を承詔必謹に背く大不忠の逆賊と批判する前に、昭和天皇を明治天皇の詔敕に反する「反日天皇」とし、「反國體天皇」と批判しなければならなくなる。つまり、昭和天皇は、祖父帝である明治天皇の欽定された帝國憲法發布に際しての詔敕に明らかに背かれたことになる。その上諭には、「朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とされてをり、まさに占領憲法の制定は「敢テ之カ紛更ヲ試ミ」たことは一目瞭然であつて、皇祖皇宗の遺訓と詔敕に背かれ國體を破壞されたことになるのである。それゆゑ、この承詔必謹説を主張するものは、昭和天皇に對して、「反日天皇」とか「反國體天皇」であるとの不敬發言を言ひ切る信念と覺悟がなければならない。果たしてその信念と覺悟はありや。

そもそも、ポツダム宣言受諾における昭和天皇の御聖斷は、進むも地獄、退くも地獄の情況の中で、ご一身を投げ出されて全臣民を救つていただいた大御心によるものであり、占領下の非獨立時代での占領憲法の公布は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」といふ「國體護持の痛み」を伴つたものに他ならない。昭和天皇の平和への強い祈りは、帝國憲法下で即位されたときから始まり、それゆゑに終戰の御聖斷がなされたのであつて、世人の皮相な評價を差し挾む餘地のない深淵な御聖斷なのである。御聖斷の時期がさらに早ければよかつたとしても、そのことが問題なのではない。困難な状況で御聖斷がなされたこと自體が肝要なのである。そして、昭和天皇は、「國體ヲ護持」せんがため、「時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」、日本の早期復興と獨立を實現せんための第一歩として、マッカーサーの指令に服從して、占領憲法を公布せられたのである。畏れ多くも昭和天皇の大御心を忖度いたせば、このやうな場合、ご皇室とともに國體護持の擔ひ手である臣民からその法的な無效を主張することは當然に許されるものである。

「天皇と雖も國體の下にある。」といふ「國體の支配」の法理からすれば、「詔(みことのり)」といふのは、國體護持のためのもので、決して國體を破壞するものであつてはならないし、また、そのやうに理解してはならないのである。ここに詔の限界がある。

このことは、楠木正成の旗印とされた「非理法權天」の釋義によつても説明できる。「非理法權天」とは、一般には、「非」は「理」に勝たず、「理」は「法」に勝たず、「法」は「權」に勝たず、「權」は「天」に勝たずといふ意味であると説明される。これに照らせば、「法」(占領憲法)の「公布」は、「權」(當時はGHQ)の作用であつて「天」(國體)の命ずるところではない。しかも、その「權」は、「非」(非道)から生じたものである。詔敕は、天命(國體)の垂迹であり、他國の軍事占領による非獨立状態での強制や欺罔によつて簒奪されたものは僞敕、非敕であつて眞の詔敕たりえない。

その昔、和氣清麻呂公は、皇統を斷絶させる孝謙天皇(稱德天皇)の敕命に抗して國體を護持せんとしたことから、自らは叡慮に背く背敕の徒とされ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅國に遠島となつた。太宰府の神司である中臣阿曽麻呂が「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」との宇佐八幡宮の神託があつたか否かとの眞僞は兎も角も、これにより、道鏡に即位させることを望まれた天皇は、宇佐八幡宮に再度のご託宣を賜るために和氣公を敕使として遣はされたものの、和氣公が「天之日嗣、必立皇緒、無道之人、宜早掃除」(あまのひつぎは必ずこうちょを立てよ、無道の人よろしく早く掃除すべし)と、御叡慮に反する宇佐神宮の託宣が下つたとして天皇に奏上されたところ、その返照は、これが嘘の報告であるとして敕勘を受け遠島となつたが、後にこの詔敕は「非敕」であることが明らかとなつたため、和氣公は復權し、「天皇と雖も國體の下にある。」とする我が國是が遺憾なく發揮された。そして、嘉永四年、孝明天皇は和氣公に「護王大明神」の神號を贈られ、明治七年には護王神社として別格官幣社に列せられたのである。この歴史的事實から、承詔必謹の深層を把握する必要があるのである。

ところで、この承詔必謹説には、次の二つの盲點がある。その一つは、眞正護憲論(新無效論)では、憲法として無效の占領憲法が轉換理論により講和條約として「成立」したものと評價し、その限度で公布は「有效」であるとする點を見落としてゐることである。それは、みことのり自體は否定せず、みことのりの解釋の問題なのである。つまり、承詔必謹説の批判の的は、公布を全否定することになる舊無效論に本來は向けられるものなのである。

二つめは、公布といふ行爲自體が有效であるか無效であるかといふ問題と、公布された占領憲法が有效であるか無效であるかといふ問題とは別の問題であるといふことである。公布行爲自體は有效であるが、公布の對象となつた占領憲法は無效であるとする見解が成り立つのである。

そもそも、「公布」といふのは、成立したとされる法令を一般に周知せしめる行爲であつて、成立したとしても無效である法令が、「公布」によつて有效化させるだけの原始取得的效力(公信力)を有しないことは明らかである。

もし、承詔必謹説を唱へる者が、教條主義的な承詔必謹を振りかざし、占領憲法の公布を「みことのり」であると強辯して無效論を排斥するのであれば、和氣公にも無效論者と同じ批判をするがよい。お祖父さん(明治天皇)の遺言を守るべきか、これに反する孫(昭和天皇)の言葉に從ふかのジレンマに立つたとき、迷ふことなくお祖父さんの遺言を弊履の如く捨て去るがよい。教育敕語なんか糞食らへと云へばよい。「大不忠の逆賊」といふ言葉は、承詔必謹説の教條主義者に熨斗を付けてお返しするものである。

そして、前述したとほり、承詔必謹論は、舊無效論に對しては別としても、承詔必謹を具體化した帝國憲法第七十六條第一項に基づく眞正護憲論(新無效論)に向けることはできない。

また、附言するに、天皇の公布があるから、憲法として無效の占領憲法も憲法として有效となるとする教條主義的な承詔必謹論は、天皇の公布行爲に、無效のものを有效化する創設的效力があると主張することになる。これは、まさしく「天皇主權論」であつて、國民主權論と同じ主權論の仲間であり、國體論とは不倶戴天の關係となる。

ポツダム宣言受諾時の大御歌(おほみうた)は、「國がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」である。また、昭和二十一年の歌會始に賜つた御製は「ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ」であり、占領憲法施行の大御歌には、「うれしくも國の掟のさだまりてあけゆく空のごとくもあるかな」の一首があり、また、その歳晩には「冬枯れのさびしき庭の松ひと木色かへぬをぞかがみとはせむ」、「潮風のあらきにたふる濱松のををしきさまにならへ人々」の二首がある。さらに、桑港條約發效時の大御歌は、「風さゆるみ冬は過ぎてまちまちし八重櫻咲く春となりけり」、「國の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに」、「いにしへの文まなびつつ新しきのりをしりてぞ國はやすからむ」である。これら一連の大御歌を小賢しく詳細に解説するつもりはないが、ただ一つだけ留意されたいのは、まことに畏れ多いことながら、「國がら」の下に「國の掟」があることを知ろしめされてゐたことは明らかなのである。それゆゑに、眞正護憲論(新無效論)こそが承詔必謹に忠實な憲法論であることの確信が深まるのである。


さらに、第一章で述べたとほり、先帝陛下もまた「天皇主權」を否定してをられたことは、當時の侍從武官長であつた本庄繁陸軍大將の日記(本庄日記、文獻48)でも明らかである。先帝陛下は、天皇機關説を否定することになれば憲法を改正しなければならなくなり、このやうな議論をすることこそが皇室の尊嚴を冒涜するものであると仰せられたとある。天皇主權説は、帝國憲法を否定する學説であり、皇室の尊嚴を冒涜するものであつて、占領憲法の「公布行爲」などに、占領憲法が憲法として有效であることの創設的根據を求める承詔必謹説は、先帝陛下の大御心に反した「天皇主權」論であることを深く自覺すべきである。

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