自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H28.11.01 連載:第六十二回 山中鹿之助

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第六十二回 山中鹿之助

みかづきに いのりちかひて ひたすすむ のちのよたたふ そのこころざし
(三日月に祈り誓ひて直進む後の世讃ふその志)
しかのすけ みだれみだれし いまのよに みかづきあふぎ なんといのらん
(山中鹿之助、乱れ乱れし今の世に三日月仰ぎ何と祈らん)

これらの歌は、尼子家再興のため「願はくば我に七難八苦を与へたまへ」と三日月に祈つた山中鹿之助を讃へ、今の世での覚悟を再び問ふた歌です。


山中鹿之助(幸盛)は、出雲の人で、楠木正成と比肩されるほどの忠勇無比の伝説的な人物です。私は、幼い頃、山中鹿之助が山上で槍を突つ立てて三日月を眺め、「願はくば我に七難八苦を与へたまへ」と祈つてゐる姿が描かれた絵本の表紙を見て、その絵柄と言葉に強烈な印象を受けました。


それは、母が脳溢血で倒れる1年ほど前でしたから、私が小学校2年生か3年生の初めのころだつたと思ひます。卓袱台の前に座つてゐる母が、にこにこしながらその絵本を私の前に置いてくれたことを、いまでも鮮明に覚えてゐます。絵本の表紙に、その勇姿が強烈に描かれてゐたのです。


どうして、この絵本を渡されたのかは、いまでは知る由もありません。そのころは、偉人奇人英雄の伝記物の本が結構沢山ありましたし、いろんなものを見てきたと思ひますが、しかし、これほど強い衝撃を受けたものは外にはありませんでした。


歴史が好きな人なら一度は聞いた名前だと思ひますが、鹿之助(鹿介とも呼ばれますが、私は、絵本を見たときから鹿之助の名前に馴染みがあります)のことについては、いくらあつても語り尽くせません。


そのころは、その勇姿だけが印象にあつて、鹿之助がどんな人物なのか詳しくは知りませんでした。しかし、母が小学校3年の冬、父が中学校2年の春に倒れて寝たきりとなつて、両親の世話をしながら家業の風呂屋の釜焚きを引き受けたときに、「幼いときの苦労は買つてでもせよ」といふ親戚からの激励と突き放しの冷たい言葉を妙に納得しながら、鹿之助のことを思ひ出して、いろいろと調べてみたりしました。


今の言ひ方だと、私は両親の介護を日々行ふ有職少年で、義務教育の学業ですら疎かになるほど家業に専念させ、小学、中学、高校は家業との掛け持ちでなんとか無理してやつと卒業できたものの、大学進学は望むべくもない環境に置かれてゐるのは「児童虐待」であるといふ馬鹿馬鹿しい評価になるのでせう。現代は、すべてについて利害計算で判断し、介護も家族外で分業することを是とするために、家族同士で助け合ふことができることの誇りと喜びが子供の自立意識を育むために絶対に必要だといふことが判らない「理性社会」だからです。


ともあれ、このとき、私は、鹿之助の境遇と自身の境遇と重ね合はせました。鹿之助は、七難八苦どころか、主君尼子義久と出雲大社で死の別れをしてから尼子家再興のために最後まで忠勇を貫いた人物なのです。その後に勝久を擁立して尼子家再興に尽力したものの、最後まで出雲の奪還はできず、最後は毛利に誅殺されてしまひましたが、その生涯は、目を見張るものがあります。


ところで、私の父は、北平(北京)の北支那方面軍司令部の軍事顧問部の特務機関に配属された将校でしたので、その軍歴のため復員後は応召前の逓信局官吏に復帰できず直ちに公職追放となり、祖父からの家業を継ぎました。特殊任務をしてきたことから最後まで公職追放の解除がなされませんでしたので、継げる家業があつただけでも有り難いことでしたが、復員後に生まれた私たちこどもを育てるために、言葉では言ひ尽くせない苦労があつたことを知つてゐます。そのために、両親が過労で病気になつたのだと思ふと、申し訳ない気持ちで一杯です。


その父は、靖国神社に祀られてゐない多くの戦友のことを心に留めてきました。停戦命令後に、日本と閻錫山(えんしゃくざん)との日閻(にちえん)密約に基づき、山西省で閻錫山軍の麾下で八路軍と戦闘を継続して山西省を独立させ、敗戦後の我が祖国と国家連携することによつて、祖国が早期に復興できるために邁進せよとの指示に基づき残置命令(残留命令)が出されたために、残留将兵はその後の八路軍との戦争を続けたのです。そして、残留将兵の指揮官の一人であつた特務機関の後輩・布川直平大尉は、昭和23年7月10日の八路軍との戦闘で「戦死」したのでした。

ところが、第一軍上層部は、昭和21年3月15日に現地招集解除命令が発令されたなどと事実を捏造して、召集解除後に多くの元軍人が死亡しても、それは軍人ではない民間人の死亡に過ぎないとの政府の口実で、未だに靖国神社には祀られてゐないといふ理不尽さに心を痛めてきました。


私が弁護士になつてから、山西省の残留将兵の軍人恩給に関する問題に関して、ある人から訴訟の委任を受けたことは、まさに奇遇でしたし、これらの歴史的事実について詳しく調査することができました。その人は、布川大尉の部下で、布川大尉が戦死したときの戦闘で負傷し、その後は八路軍の捕虜となつて戦犯管理所で拷問その他の著しい苦難を受けた後に、昭和34年7月26日になつて、やつと無事に帰国できた人でした。その人から布川大尉が戦死したときまでの状況を聞き取りし、亡父の墓前にて報告しました。


そして、このときの調査結果によると、なんと、第一軍の澄田司令官が自己保身のため閻錫山に多くの将兵を売り渡して自分らだけが無事に帰国し、国会での証言などにおいても、残留命令は発令してゐないなどと虚偽の主張をしてゐたことが解りました。


現地召集解除なるものはあり得ないことです。強制的に内地で召集された将兵に対して、召集解除をするには、内地に復員した後でなければできません。国家には無事に内地に復員させる義務があり、それまでの安全を保障すべきなのです。現地召集解除なるものは国家による臣民遺棄の犯罪です。ところが、裁判所は、最高裁判所に至るまで、この現地召集解除の違法性、無効性を決して認めることはなく、澄田の偽証を平然と擁護したのです。この澄田の長男は日銀総裁になつてゐますので、おぞましい敗戦利得者家族の典型と言へます。


父は、敗軍の将は兵を語らずとの習ひに従ひ、祖国が独立した後になつても一切の公的な役職には就かなかつたのですが、私にはいろいろな話をしてくれました。


忠孝一如の意味は、自分の両親も守れない者が主君を守ることはできないといふ意味です。主君とは皇室です。

父の教への中に、「恩と仇は必ず報ひよ」といふものがありました。祖先への報恩と祖国に仇為す者への報復です。これでなければ祖国は守れません。

そして、父の遺言書には、「教育勅語を復活させよ」とだけ書いてありました。教育勅語の復活により、敗戦利得者に真摯な反省をさせて祖国を再興させることが皇恩に報ひる第一歩だからです。

これによつて私の使命が決まりましたので、たとへ時代錯誤と罵られやうが、無明の者から私の理論を揶揄されやうが、正しいものは正しいとの信念で歩んできました。それが正しいものであればあるほど、敗戦利得者たちは強烈に批判、中傷、迫害をしてきます。私としてはそれを乗り越えるまでです。


いま、どうして鹿之助を取り上げるのかと言ふと、決して、いはゆる「歴史オタク」の歓心を得ようと考へたためではありません。知的好奇心があるのであれば、鹿之助の生涯について詳しく調べてみてください。そんなことぐらいは誰でもできますが、もつと大事なことは、歴史はその教訓を今に生かすことができてこその歴史なので、鹿之助が今の世の中に生きてゐたら、どう考へ、どう行動し、どう祈つたかを考へてみてください。


戦国時代から今では大きく社会は変化して、紛争の実相も戦ひ方も様変はりしてゐますので、今は尼子家の再興といふよりも皇室の弥栄と国家の繁栄がご奉公の柱であるとすれば、鹿之助はどう祈つたのかといふことです。


おそらく、私と同じ事を祈つたと思ひます。


連合国に対する「謝罪憲法」である占領憲法を憲法として認める者が、靖国神社や全国の護国神社に参拝することは、英霊に対する明らかな冒涜です。

結果的には、こんなすばらしい占領憲法を作らせないために最後まで抵抗して愚かな戦ひ続けたのは全くの犬死で、それが可哀想だといふ態度で英霊と向き合ふこととなり、このやうなことは決して許されることではありません。


占領憲法を憲法であるとする占領憲法真理教の信者達は、敗戦利得者である「A級国賊」ですから、靖国神社や全国の護国神社に参拝してはならないのです。占領憲法護憲論者は勿論のこと、改憲論者についても同じことです。占領憲法の無効確認決議をすることを誓つて英霊の顕彰をする以外に参拝の理由はないのです。


忠勇は、公私に亘つて、七難八苦、艱難辛苦を経ることによつて、より磨かれ純化します。私も、これを手本として、一人であつても斬り込むべき時は突撃して、滅私奉公を果たしたいと存じます。

今の私があるのは、あのときの鹿之助の絵本に始まる父母からの教へのおかげであると心から感謝してゐます。

 

南出喜久治(平成28年11月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ