自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H30.8.01 第百四回 山西省残留将兵の真実(その一)

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百四回 山西省残留将兵の真実(その一)

ひのしたを ときはなちたる すめいくさ みをころしても かへるうぶすな
(日の下(世界)を解き放ちたる皇軍身を殺しても帰る産土(皇土))


(はじめに)


私の手元には、箱入りでビニールカバー装丁の硬表紙の書籍が一冊ある。

昭和47年11月15日に「北顧会」が発行した『北顧回想録-您好麼-』である。北顧会とは、北支那方面軍司令部(甲一八〇〇部隊)軍事顧問部に職を奉じてゐた元将校を会員とする戦友会であり、同書籍には、初代顧問部長・永津佐比重中将閣下が揮毫された題字がある。


私の父親は、この北顧会の会員であり、北支那方面軍の軍事顧問部の第二期建軍時の第四期として第六集団司令部の第十五団に配属された軍事顧問部付将校(大尉)であつた。

高等文官試験行政科に合格した逓信局の官吏が応召により幹部候補生となつて少尉に任官し、その後は軍事顧問部(特務機関)付き将校として配属され、そのまま終戦を迎へ、蒋介石軍(国民党軍)との間で兵器弾薬等の引渡を伴ふ武装解除等の敗戦処理を行なふ危険任務を果たした後に祖国に復員した。復員後に待つてゐたのは公職追放命令であり、我が国の独立回復後も、最後まで追放は解除されなかつた。我が家は未だに「追放家族」のままなのである。


ともあれ、その父親が特務機関将校として最初に拝命した任務は、河北の保定で、剿匪(しょうひ)、作戦討伐、警備、治安維持に任じてゐる支那側の治安軍などの諸部隊の教導官として、平素は教育訓練、野戦勤務の教育指導、育成強化にあたり、作戦・討伐行ともなれば、その指導、我が軍との協調・協力そして連絡の仕事であり、極めて重要な任務だつた。


北支における特務機関の任務は、斥候、諜報、防諜などが主であるが、それ以外に重要なものは、宣撫工作である。宣撫官は軍属による民生として、特務機関は軍人による軍政として「宣撫」を任務としてゐた。


ところで、父親の一期後輩の第五期に布川直平大尉が居た。『北顧回想録』にも、布川大尉が一升瓶を抱いて寝るほどの酒豪だつたことのエピソードもあり、会員名簿には、「山西閻錫山軍第六団長として終戦後戦死」とある。布川大尉は、軍令を受け山西省に赴任し、特務機関将校としての重責を担つた。


この「終戦後戦死」といふ言葉には不思議な響きがある。政府は、布川大尉を「戦死」とは認めないが、北顧会では、戦友の「戦死」を認めてゐるのである。本稿は、どうして政府では戦死と認められないのかといふことを含めて、この山西省に多くの将兵が残留した経緯と理由について述べるものであるが、これは山西省残留将兵の全体史ではなく、この布川大尉と、布川大尉が戦死した際の戦闘において負傷して手榴弾による自決が果たせずに八路軍の捕虜となつた直属の部下(以下「S」といふ。)の個別的な視点から、我が国の戦後における政府が今もなほ、いかに非情で非道なものであつたことを明らかにするものである。



(山西省残留将兵とは)


では、山西省残留将兵といふのは一体どのやうなものだつたのか。これを説明するには、少し背景事情の概要を説明する必要がある。


支那戦線での我が軍の戦況は常に優位を保つてゐたが、我が国がポツダム宣言を受諾し、降伏文書を調印したことによつて、優位者の我が軍が劣位者の国民党軍に降伏するといふ不思議な状況が生まれた。


支那戦線で優位に立つてゐる我が軍が降伏すれば、我が軍が国民党軍と八路軍(共産軍)の双方を制圧してきた軍事バランスが崩壊し、国民党軍と八路軍(共産軍)との内戦になることは必至であつた。


特に、国共合作による抗日容共が染みこんだ国民党軍は、連合国の一員でありソ連が八路軍を今後も軍事支援することを拒絶できないことから、支那が内戦となれば敗北を余儀なくされるといふ危機感が高まつた。これは、蒋介石の自業自得と云ふべきであるが、我が軍が支那戦線から撤退することによつて生ずる軍事空白は、八路軍にとつて極めて有利な状況となり、本音では親日反共であつた蒋介石が、支那での覇権を確立させるために抗日容共といふ建前に立つたことが裏目に出て、ついに敗退の道を歩むことになることは必至であつた。


そこで、八路軍よりも劣勢となる国民党軍としては、山西省の軍閥である閻錫山の軍隊に我が軍の将兵が武装解除せずに合流して八路軍との戦闘における劣勢を挽回し、閻錫山が八路軍との戦闘に勝利して山西省を支配して山西省を独立国とすれば、ここに新たな親日国が誕生することとなり、我が国の復興と独立を早めることになるであらうとの構想が生まれた。これは、我が国と閻錫山の双方にとつて極めて望ましいものではあるが、ポツダム宣言の受諾と降伏文書に抵触するので、あくまでも密約として締結した。これが「日閻密約」である。


しかし、どうして山西省なのかといへば、「山西を制する者は支那を制する」との言葉の通り、山西省には、石炭や鉄などの豊富な地下資源があり、いまもなほ中共の産業は山西省の地下資源によつて支へられてゐるからである。


八路軍もまた、山西省の重要性を認識してゐるが故に、山西省争奪戦は八路軍の総力を投入して激戦が展開され、ついに八路軍は山西省を支配し、内戦での勝利に大きく踏み出したのである。


ともあれ、軍首脳は、布川大尉を初めとする山西省残留将兵に対し、将兵の矜持を逆手に取つた実質的な残留命令を発して、あたかも自主的に残留したかのやうに偽装し、閻錫山との密約(日閻密約)に基づいて残留させた。いはば、「自主性の強制」といふ巧妙な手法での残留命令なのである。そして、軍首脳は、全将兵について現地で召集解除したので、その後は個々の将兵の自主的な判断で残留したとの言ひ訳をして、自らは残留せずに将兵を置き去りにして復員し、残留命令は一切なかつたと嘯いて保身に走り、戦後においても要職に就いた敗戦利得者となつたのである。


山西省に残留した将兵は、この残留命令を皇軍将兵の矜持として祖国復興のために必要な崇高なる任務として受け入れ、閻錫山麾下の軍隊の下部組織として八路軍と戦つて戦死し、あるものは捕虜となつて支那の戦犯管理所(収容所)で洗脳教育を強制されて、あるものは死亡し、そして、あるものは長期の服役後に釈放されて復員した。


そのため、布川大尉らの「終戦後戦死」した者は靖国神社には祀られてゐない。我が政府は、支那の戦犯管理所で亡くなつた者も公務死とせず、長期に亘る拘束後に復員した者についても、昭和21年3月15日に召集解除されたとして、それ以後の期間を旧軍人普通恩給の加算年としない方針により、徹底した「棄民」を行つたのである。


この山西省残留将兵については、これまでいくつかの文献で述べられてゐる。その中でも、平成3年6月20日に発行された染谷金一著『軍司令部に見捨てられた残留将兵の悲劇』(全貌社)はその嚆矢として事実関係が詳しく述べられてゐるが、本稿では、その後明らかになつた資料を踏まへて、これまで語られてこなかつた山西省残留将兵を生んだ歴史的背景と法的な側面について詳しく述べてみたい。

南出喜久治(平成30年8月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ