國體護持總論
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皇道忠臣蔵

以上は、史料を基礎として若干の論理的推測を加へて構成したものであるが、當たらずといへども遠からずであらう。

さうであれば、幕府が、刃傷事件により赤穗淺野家を斷絶させたうへ、吉良家をお咎めなしとし、その後、赤穗淺野家の度重なるお家再興の願ひも聞き屆けなかつたのは、單なる幕府の片手落ちではなく、尊皇派の排除を實現し、かつその復興を阻止するとともに、佐幕派の保護といふ一石三鳥の深謀と受け止めることもできる。そして、幕府が赤穗舊臣の討入りを眞劍に阻止せず放任し、むしろこれを暗に奬勵したのは、赤穗舊臣の義擧が皇道を旗印にすることなく、士道を名目とする以上、幕藩體制を支へる士道倫理の強化をもたらすと考へたとしても不思議ではない。喧嘩兩成敗を事後に實現して公正さを維持するためには、吉良家を斷絶させることになるが、高家は吉良家だけではなく、皇室に餘りにも憎まれ續けた吉良家はその役割を既に果たしてゐるから無用の存在となつてゐた。幕府は、唐突に起こつた刃傷事件と討ち入り事件を巧みに利用して、尊皇派を封じ込め、返す刀で幕藩體制を強固にしたといふこともできる。

このやうに、この事件とその背景には、樣々な權謀術數が渦卷いてゐる事情があるとしても、赤穗尊皇派からみれば、「消えざるものはただ誠」(三上卓作詞「青年日本の歌(昭和維新の歌)」の一節。文獻324)で貫かれてゐる。

それゆゑ、この事件を、淺野内匠頭の刃傷から大石内蔵助ら赤穗舊臣が吉良邸討入りまでの一年八箇月だけの「元祿赤穗事件」として限定的に捉へてはならない。そのやうに捉へてしまふと、討入りによつて變則的な士道を實踐しただけの矮小化した物語になつてしまふ。したがつて、少なくとも、この事件は、萬治四年の京都御所の火災から元祿十五年の吉良邸討入りまでの約四十年の間、赤穗淺野家とその家臣らが代々一丸となって皇道を貫き、身を殺して仁を成したといふ一連の長い物語として新たな解釋がなされるべきである。

そして、士道が皇道の雛形であり、この事件には、士道の名の下に皇道を實踐したといふ側面があることを認識すれば、この事件を、「皇道忠臣蔵」と言つても過言ではない。「忠臣蔵」の「蔵」は、内蔵助の蔵を意味するので、これをもつと廣く赤穗藩全體の皇道を指し示す意味の言葉を用ゐるのであれば、これを「赤穗藩の尊皇運動」と呼んでも差し支へない。

また、明智光秀が主君織田信長を討つたのは士道に悖るものである。しかし、織田信長は、正親町天皇に蘭麝待の切り取りを奏請したり、讓位を奏上したりして朝廷を輕視し、早晩朝廷の廢止を目論んでゐた形跡があり、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、本能寺の變(天正十年六月二日)の直近において、織田信長が自己の生誕日である五月十八日を「天主節」とし總見寺に信長の化身とする石塊を御神體として祀り、萬人に禮拜させたといふ傲慢不遜の國體破壊者であつたことは明らかである。もし、光秀がこれを誅伐し、その企てを阻止するために謀反を起こしたとすれば、それも皇道の實踐であつたことになるのであつて、その意味でも本能寺の變を再評價しなければならないのである。

「歴史とは、文字によつて描かれた物語なのであり、文字によつて掬ひ取ることができた限りにおいて歴史であり、人間の思想なのである。」(村上兵衞)とすれば、私は、この赤穗事件などを尊皇物語として改めて捉へ直してみてもよいのではないかと考へてゐる(文獻246)。

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