國體護持總論
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天皇機關説論爭

このやうに憲法の解釋と運用において、まづ、統帥權の憲法的な位置付けについて問題が提起されたのは、昭和五年に起こつた統帥權干犯問題であるが、この問題については後で述べるとして、その前に、その五年後の昭和十年に起こつた天皇機關説論爭について説明する。

この論爭の歴史は長く、古くは明治二十二年の穗積八束(天皇主體説)と有賀長雄(天皇機關説)の論爭に始まり、それが穗積八束と美濃部達吉、上杉愼吉と美濃部達吉の論爭へと引き繼がれた。穗積、上杉の天皇主體説(天皇主權説)は、ルイ十四世の「朕は國家なり」といふ天皇即國家の認識と同樣に、天皇の超憲法的權威を主張するものであつた。この考へであれば、本來なら帝國憲法の基本構造を絶對君主制であると主張するのが自然であるのに、さうではなかつた。あくまでも運用上は原則として立憲君主制憲法と理解し、しかもさらに進んで天皇不親政と解釋運用することを肯定するのである。

これに對し、有賀、美濃部の天皇機關説(創始者は一木喜德郎)は、天皇を國家機關であるとの主張であり、これは、ドイツの國家法人説をそのまま翻譯した何ら新味性のない、ありふれた學説であつた。

つまり、「天皇機關説」とは、ドイツの國家法人説を日本國家にそのまま適用し、國家を法人とし、天皇をその機關とする學説であり、天皇に主權があるとする穗積八束及び上杉愼吉らの「天皇主體説(天皇主權説)」と對立した。前者は、國體と政體の區分を否定した區分否定説であつたのに對し、後者は、この區分を肯定した二重區分説であつた。

ところで、天皇主體説(天皇主權説)については、「主體」と「主權」といふ概念の相違も明確に區別できないものであり、そもそも、帝國憲法のどこにも「天皇主權」なる概念はなく、フランス流の主權概念の無批判な追随理論である。帝國憲法は、第一條で「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」との統治原則を定め、それを第四條の「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」として、その統治權行使の態樣を規定する。從つて、第一條からも第四條からも、天皇主權なるものが出てくる餘地はない。

「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」(第四條)とあることから、天皇は「元首」であり「統治權の總覽者」であつて、主權者ではない。「天皇大權」と「天皇主權」とは全く異なる。祭祀大権以外の統治の「大權」は憲法によつて規律されるが、「主權」は憲法を規律するものであるからである。もし、天皇が絶對かつ無制約の主權者であれば、統治權を總攬するについて「此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」といふ制約があることも、天皇の命令大權に基づく命令は、その「命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス」(第九條但書)といふ制約があつて法律の下位となつてゐることや、「凡テ法律敕令其ノ他國務ニ關ル詔敕ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス」(第五十五條第二項)として副署を法令の成立要件とする制約があることなども完全に矛盾する。ましてや、帝國議會に豫算と法律の審議權があることなどは、天皇主權を否定するものといふことになるはずである。

先帝陛下もまた「天皇主權」を否定してをられた。當時の侍從武官長であつた本庄繁陸軍大將の日記(文獻48)によれば、先帝陛下は、天皇機關説を否定することになれば憲法を改正しなければならなくなり、このやうな議論をすることこそが皇室の尊嚴を冒涜するものとあると仰せられたとある。天皇主權説は、帝國憲法を否定する學説であり、皇室の尊嚴を冒涜するものであつたのである。

昭和十二年五月に文部省が刊行した『國體の本義』(文獻8)にも、「天皇は、外國の君主と異なり、國家統治の必要上立てられた主權者でもなく、智力・德望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。」とあり、當然のことながら帝國憲法の告文にも「皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示」とあり、「祖法の確認」をしたのが帝國憲法である。これを「欽定憲法」と呼ぶが、「欽定」とは、天皇が憲法制定權力者(主權者)として創設したといふ意味ではない。「欽」とは、「つつしみかしこまる」といふ意味であり、皇祖皇宗の皇裔である明治天皇が皇祖皇宗に對して、つつしみかしこまつて遺訓を明徴して定められたといふ意味である。

ところが、穗積八束及び上杉愼吉らは、愚かにも、自らが唱へた天皇主權説により占領憲法が唱へる國民主權論の道案内をした結果を招き、後で述べるとほり、ホッブズの役割を果たしてしまつた。しかも、この天皇主權を否定してきた天皇機關説論者である美濃部達吉や宮澤俊義らは、占領憲法においては、逆に、帝國憲法が天皇主權であるとして、それが占領憲法の制定により「主權委讓」があつたとまで詭辯を弄したのである。

いづれにせよ、この天皇主權説と天皇機關説の對立は、學理的に見ても意義深いものではなかつた。天皇機關説が依據した國家法人説とは、國民主權主義と君主主權主義との對立の矛盾を契機として唱へられた折衷的な學説であり、戰後の尾高・宮澤論爭のやうな主權概念論爭に至る過渡的な見解であつた。この論爭は、學問的にも稚拙である上に、政治的には、蓑田胸喜による天皇機關説批判を嚆矢としてその運動が展開され、昭和十年二月十八日、菊地武夫が貴族院において、これを「不敬なる學説」として指彈したことから、政治的に帝國議會、軍部と内務省による自由主義者の彈壓の口實とされたため、天皇機關説の政治的完敗に終はつたのである。

法律學的見地からは、天皇主權説は帝國憲法第一條の「統治權」を「主權」とすり替へて權力的に解釋した學説であり、天皇機關説は同法第四條の「元首」の解釋から當然に導かれる學説にすぎない。この論爭は、帝國憲法が絶對君主制的色彩を殘した立憲君主制の憲法であることに起因するものであり、ある意味では宿命的論爭でもあつたが、天皇主權説が誤りであることは學理上は明確であつた。帝國憲法には、多くの天皇大權を規定してゐることからして絶對君主制的傾向が強いものとされるが、それはドイツ・プロシア憲法の立憲君主制を範としたことから、比較憲法學的に考察された憲法體系上の特徴に過ぎず、あくまでも帝國憲法が立憲君主制の憲法であることは紛れもないことであつた。

しかし、憲法學的には立憲君主制であつても、政治學的には絶對君主制に近いものと理解されたのは、明治政府の誕生の經緯からして無理からぬところがあつた。それゆゑ、この論爭に明確な決着をつけるには、帝國憲法は天皇主權を定めたものではないといふ解釋規定を追加的に改正をする必要があつたのであるが、そのやうな立法的明記を行ふことの論爭へと發展しなかつたのは、無能力な憲法學者による議論の未熟さとそれに追随する政治的環境によるものであつた。

しかも、美濃部は、「天皇超政論」を展開し、「君臨すれども統治せず」として、いづれも天皇が統治し或いは統治權の總攬者であるとする帝國憲法第一條と第四條を實質的に死文化させて解釋するのである。立憲君主制といふのは、專制君主の權限を議會がこれを制限し、あるいはその一部を委讓させてきた歐洲の歴史に由來するものであつて、その究極の形態が「君臨すれども統治せず」といふ「絶對不親政」の態樣に過ぎないものである。つまり、立憲君主制とは、「絶対君主制(專制君主制)」とは異なり、立憲的に君主の權限を制限するといふ樣々な態樣の「制限君主制」を一括りにした概念なのであつて一義的な概念ではない。從つて、專制君主的要素の強い帝國憲法を立憲君主的に解釋するとしても、「(形式的に)君臨すれども(實質的に)統治せず」といふやうや天皇不親政の意味に理解することは論理の飛躍も甚だしく、こんな強引な法解釋は學問として成り立つものではなかつた。

つまり、帝國憲法は、統治大權を規定してゐるがゆゑに、その帝國憲法の立憲的構造からすると、天皇大權の存在を否定するに等しい「君臨すれども統治せず」ではなく、せめて「統治すれども親裁せず」でなければ論理矛盾となる。帝國憲法第一條と第四條に「統治ス」とか「統治權ヲ總攬」と明記されてゐるにもかかはらず「統治セズ」とすることは帝國憲法を否定する見解に他ならないのである。占領憲法の場合であれば、第四條第一項に、「天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。」とあることから、占領憲法の立憲的構造が「君臨すれども統治せず」といふ制度であるとするのであれば理解できるとしても、帝國憲法の立憲的構造が「君臨すれども統治せず」といふ立憲君主制であるとすることは到底認められない解釋である。

ところが、天皇主權説と天皇機關説は、兩説とも帝國憲法が「君臨すれども統治せず」の意味での天皇不親政であるといふ點において、結論的には一致してゐたのである。つまり、この論爭當事者たちの最大の矛盾は、天皇の主體性や機關性を主張しながら、實質上はその主體性や機關性を完全に否定した點にある。ただ、後に述べるとほり、兩説は、統帥權の獨立といふ點に關しては異なる見解であつたが、それ以外では、兩説とも、帝國憲法の立憲君主的運用と天皇不親政に異論はなく、天皇の地位を機關と呼ぶか否か、つまり天皇を公務員(官吏)の地位と同じ意味を有する「機關」といふ呼稱を用ひてもよいのか否かといふ心情的な皮相の對立が底流にある極めて幼稚な論爭であり、學理的には不毛の議論であつた。

本來であれば、帝國憲法において、天皇大權を定めた規定のやうに專制君主的色彩の濃い規定と、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三條)や「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(第五十五條第一項)などの立憲君主制的色彩の濃い規定とがあり、明治期においては、專制君主的な運用がなされてきたのに、その後は立憲君主的に運用し、しかも、さらに「君臨すれども統治せず」的な天皇不親政といふ解釋運用がなされて、天皇大權を實質的に剥奪してきた歴史的經緯を問題として論爭すべきものであつた。天皇が專制君主なのか立憲君主なのかといふ點だけでも極めて重大な問題であるのに、そして、假に、立憲君主であるとしても、それは内閣と議會などによつて大權行使が制限されるといふことに過ぎないのに、それを一足飛びに「君臨すれども統治せず」的な天皇不親政として拒否權(ヴェトー)も剥奪することは、帝位の簒奪にも等しい大逆であるとの認識は全くなかつたのである。まさに「天皇大權の干犯」といふ解釋改憲を共謀して行つたことになる。それゆゑ、この天皇機關説論爭なるものは、「目糞と鼻糞の論爭」とも云ふべき無學識な似非學者の奸臣どもによる單なるお遊戲であり、結果的にはこの「天皇大權の干犯」といふ解釋改憲の運用事實を隱蔽してきたことになる。

ただ、この論爭は、確かに學問的には不毛かつ有害の議論であつたが、これが政治の舞臺に登場して政治状況を一變させる。美濃部の天皇機關説が國體に反するといふ政治批判が起こり、美濃部は貴族院議員を辭し訴追を免れ、天皇機關説の政治的敗北に終つたのだが、これは、その五年前に起こつた統帥權干犯問題と密接に關係してゐた。美濃部は、統帥權について、第十一條の統帥權(作戰、用兵)については内閣の關與を否定し(帷幄上奏)、第十二條の軍の編制權については内閣の權限に入ると解釋してゐた。つまり、狹義の統帥權(第十一條)と軍の編制權(第十二條)を含んだ廣義の統帥權とを區別し、統帥權の獨立は狹義の統帥權に限るとしてゐたのである。後に述べるが、これが一知半解の美濃部の學才的限界でもあつたが、いづれにしてもこの解釋が軍首腦の怨嗟の的となつた。また、美濃部は、各政黨の頭領、軍部の首腦者、實業界の代表者、勤勞階級の代表者らを集めた「圓卓巨頭會議」で國家の根本方針を議定するといふ國家機關構想を發表したことによつて(美濃部『議會政治の檢討』)、當時の多數黨であつた政友會らが目指す「立憲主義の常道」すなはち政黨内閣制を公然と否定したことから、議會までも敵に回した。まさに「前門の虎、後門の狼」であつた。

つまり、美濃部のこれらの見解は、天皇機關説と一體化して捉へられ、天皇主體説の論者と軍、議會、それに觸發された民間人との共同戰線により攻撃されて失脚したといふのが實相であらう。

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