國體護持總論
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著書紹介

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理性論による歸結

ところが、後に述べるとほり、社會を構成するこの「家族制度」を否定し、それを積極的に解體して、ばらばらの「個人」に分解したもので社會が構成されるとするのがルソーの思想であり、それを敷衍した社會契約説と理性論(合理主義)、そして、共産主義が依據する唯物論と現代人權論の立場がある。しかし、これらは、非科學的な「設計主義」であり、亂暴で危險な人體實驗に等しい「社會實驗」を試みたものであつて、これらを突き詰めると、次のやうな結論に至つてしまふのである。

つまり、理性論と社會契約説、そしてこれから派生する現代人權論からすれば、自分の子供を他人の子供とを區別して、自分の子供だけを監護養育したり、一夫一婦制とこれから派生する様々な事項を守らなければならない義務や、親を扶養したりする義務を肯定的に導くことは到底できない。婚姻や血縁の有無は、社會契約の存否やその内容に何ら影響を及ぼすものではないはずである。婚姻や血縁は社會契約とは全く無關係な事項であつて、既婚者であるか未婚者であるか、血縁者であるか非血縁者であるかによつて、社會契約の内容に等差があるはずはない。社會契約説に基づき、「個人として尊重される」とする占領憲法第十三條をそのまゝ解釋すれば、國家との社會契約事項でないものについて強制されることはなく、個人として最大の尊重がされるのであるから、夫婦の貞操義務や家族の同居義務などはない。しかも、これらの義務の有無やその態樣についても國家から一律に法律を以て干渉され強制されるのは「人權侵害」であり、それぞれの夫婦や家族の自由かつ任意の自己決定に委ねられるべきである。人は、國家との關係において、社會契約的には、自己が生んだ子供を將來において監護養育することを豫め合意してゐないので、それを國家が法律を以て監護養育を強制することは、個人の尊嚴を侵害することになる。子供を分娩した女(母)が育兒するのは、決して國家との約束によるものではないし、それを強制されるものでもない。ましてや、男は、分娩してゐないのであるから、その父親であつたとしても、そのことだけでその子を監護養育する義務をその子と國家に對して負ふといふことも不合理である。そのやうな契約を國家と交はしたこともない。しかも、その子供が婚内子であるか婚外子であるによつてその義務の態様が異なることも合理性がない。むしろ、その子供が大きくなつて働くやうになれば、國家が税金を徴收することができるのであるから、受益者負擔の原則からして、國家がその子供を監護養育しなければならないのである。將來の納税者である子供を徴税者である國家が監護養育せずに、たまたま分娩し、あるいは受精させただけの現在の納税者らがその子を監護養育するといふのも不合理である。もし、將來の納税者である子供を社會全體として監護養育することも租税の一種として認めるとしても、それなら「監護養育税」といふ目的税にして一律に課税するだけでよく、自分の生んだ子だけに特定して、その子をだけを監護養育するといふ勞務を強制した作爲義務までも法的に課すことはやはり不合理である。ましてや、子供の居る者も居ない者も平等公平に負擔するといふならばまだしも、子供の居る者だけにそれを負擔させるといふ實子限定のマン・ツー・マン的な監護養育の作爲義務を課することには全く合理性がない。子育ては大嫌ひだから、金を拂ふので國家が自分の子供を引き取つて監護養育することを求める權利が當然に認められるべきである。現に、このやうなことを身を以て實踐したのがルソーであり、自分の子供を自ら監護養育せず全員を孤兒院に遺棄したルソーの考へは絶對に正しいはずである。ルソーは、それを實踐した先覺者として評價されるはずである。子供の監護養育や親の扶養を義務付ける家族制度は、個人主義を侵害し、個人の尊嚴を損なふので、速やかに解體しなければならない。子供を作る權利はあるが、子供を養育する義務はない。それが個人の尊嚴といふものだ。夫婦や親子は、他人と比較しても、人としては全く平等であるから、これらを區別して法的處遇に差異を設けることは不合理な差別である。それゆゑ、婚姻制度自體を維持し、夫婦關係と血縁關係といふ非合理的な客観的事實だけを根據として、その家族や一定の血縁關係に含まれる者だけに限定して養育扶養などの義務を定めた法律の規定には、何ら合理的なものではない。

どうであらうか。これこそが合理主義(理性論)の到達しうる必然的な論旨と結論である。これによつて合理主義や現代人權論がいかに不條理で人でなしの考へであるかが理解されたものと思ふ。現時點では、未だにここまでの論旨と結論を展開して公表する者は居ないとしても、現代人權論の究極の目的はまさにここにあり、現在はその本性を隱してゐるだけである。

理性論に支配された占領憲法において、「子供」のことが出てくるのは、第二十六条第二項前段の「すべて國民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」の部分と、さらに、強いていふならば、第九十七條の「この憲法が日本國民に保障する基本的人權は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの權利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び將來の國民に對し、侵すことのできない永久の權利として信託されたものである。」における「現在及び將來の國民」の部分である。それゆゑ、子供に對する扶養義務は法律(民法)上の義務ではあつても占領憲法上では親の義務とはされてゐない。親は扶養義務の一部とされる「普通教育を受けさせる義務」のみを負擔するだけであり、その餘の扶養義務は憲法上の義務ではない。占領憲法では、扶養義務が規定されてゐないのに、その一部を構成する普通教育を受けさせる義務だけがあるといふ極めて歪なものである。また、第二十六条第二項後段には、「義務教育は、これを無償とする。」とあるので、親としては子供が自發的に普通教育を受ける機會と環境を與へて、それを妨害してはならないといふ消極的義務が課せられてゐるだけで、自ら積極的に監護教育する義務はないはずである。「親はなくても子は育つ」ので、ルソーのやうに、自分の子供を監護教育したくない自由を認めて孤兒院に遺棄することも親の權利として認めなければならない。自ら積極的に監護教育する義務を親に課すのは、「親の人權」を侵害することになるといふことになる。

現代人權論を突き詰めて行けば、このやうな結論に至るのは必然である。これは理性論に毒されてゐる結果である。占領憲法は、まさに理性論で支配されてをり、文化とか傳統といふやうな歴史性が全くない。第二十五條第一項には、「すべて國民は、健康で文化的な最低限度の生活を營む權利を有する。」とあり、ここにだけ「文化的」といふ用語が登場するが、この「文化」なるものは、歴史性の軸足を置いた文化概念ではなく、欲望を満たすための「物質文化」のことであつて、占領憲法では、我が國の歴史性は完全に否定してゐる。占領憲法制定時の最大の課題は、敗戰によつて荒廢した祖國の復興であるにもかかはらず、この「祖國復興」の言葉は、前文のみならず本文にも一度も出てこない。また、占領憲法では、犯罪容疑者に對しては占領憲法上の厚い保護が與へられるが(第三十二條ないし第四十條)、犯罪被害者は占領憲法では保護されない。このやうな冷徹さ、冷血さこそが理性論の心髄なのである。

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