國體護持總論
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著書紹介

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フランケンシュタインの理想的人間

明治の流行歌である「デカンショ節」の語源になつたとされる、デカルト、カント、ショーペンハウアーに始まる歐米の合理主義(理性論)による啓蒙思想は、今日、あらゆる分野において矛盾を生み出してゐる。

そもそも、人の營みにおいて理性と本能とをデジタル的に峻別することに根本的な矛盾がある。デカルトは、「一切を疑ふべし(De omnibus dubitandum)」といふ方法的懷疑により、懷疑といふ意識作用の主體である「我」の存在は疑ひ得ないと結論づけた。それが「我思ふ。ゆゑに我あり。」といふレゾン・デートル(存在證明)であるとした。しかし、懷疑の意識主體の「我」といふのは、佛教で言ふところの諸法無我の「小我」であつて「大我」ではない。懷疑の主體である「小我」に對する懷疑を放棄することは方法的懷疑の破綻であり矛盾である。また、「我あり」とする「小我」の意識作用は、人に先天的に備はつた「本能」の營みであることを見落してゐる。マーシャル・マクルーハンが好きな言葉に、「誰が水を發見したのかは分からないが、それは魚ではないだらう。」といふのがあるが、人の本能や理性の實相(水)は、その水が出來てから生まれた合理主義(魚)では解明しえないことの喩へである。

合理主義による啓蒙思想とは、理性と感性による思考(悟性)を絶對視し、科學的認識の對象とはならない「不可知世界」をそのまま「認識不能」とせず、「不存在」として排斥した。「知るを知ると爲し、知らざるを知らずと爲す、これ知るなり」(論語)といふ「無知の知」が科學であるが、測定と認識の「不能」を「不存在」とするところに非科學性がある。

そして、合理主義は、理性を善とし、本能を惡とする二分法に立ち、本能を抑制するものとして道德などの社會規範を位置付ける。しかし、本能が惡であつたり、理性によつて抑制しなければならないものであつたとすれば、前に述べたとほり、人類を含む生物は、もつと早くその本能と理性といふ二律背反の構造的缺陷により自壞して滅亡したはずである。本能を惡として否定することは、自己否定に他ならない。理性とはあくまでも本能作用の一種であり、本能とその一部である理性とはアナログ的に一體のものである。

ところが、このやうに本能を肯定するやうなことを云ふと、まるで理性論の中で議論されて生まれてきた本能主義や快樂主義(享樂主義)など、欲望を滿たすことが正しいといふ考へではないかと不安を抱かれるが、そんなことは全くの誤解である。そもそも、エピクロスの快樂主義とは、精神的快樂(魂の安靜、アタラクシア)を求めるものであり、肉體的快樂や苦痛を超えるものであつた。むしろ、産業革命からアメリカの獨立、そしてフランス革命へ導いた合理主義こそが欲望主義であり、その象徴がシェリー作の「フランケンシュタイン」の物語なのである。

この物語はかうである。スイスの科學者であるフランケンシュタインは、ドイツにて自らが作り上げた「理想の人間」(理性的人間)の設計圖に基づいて、それが神に背く行爲であることを自覺しながら、自らが「創造主」となつて人の死體を利用して「人造人間」を完成させた。この人造人間は體力や知性などにおいて完璧であつたが、その容貌は極めて醜く異形であつた。フランケンシュタインは、これに絶望し、人造人間を殘して故郷のスイスに逃亡する。しかし、人造人間は容貌の醜さを惱みつつ、「創造主」であるフランケンシュタインの元に辿り着き、伴侶となる異性の人造人間を造るやうに要求するが、フランケンシュタインはこれを拒否する。人造人間はこれに絶望し、それを復讐に轉嫁してフランケンシュタインの弟や妻、友人などを次々に殺害した。フランケンシュタインは、これに憎惡を抱いて人造人間を追跡するが、最後は二人とも怒りと嘆きを抱いて橫死するといふ物語である。

これは、理想かつ完璧な觀念であると信じられた合理主義(理性論)は、醜さといふ最大の缺陷があり、爭ひを繰り返して人類を幸福にせず、その究極には破綻と滅亡が待つてゐることを寓意するものである。

人間以外の動物は、自己保存、自己防衞、種族保存、種族防衞などの本能による忠實な生活をするために、無益な殺生や姦淫、盜みなどをしないが、人間だけは時にはそれを犯す。それこそが「人間らしさ」と云へばそのとほりなのに、そのやうなことをすると、外道、畜生、ケダモノなどと最大級のスラングで罵られる。そして、忠實に本能に從ひ品行方正な生活を營む動物たちに謂はれなき中傷を浴びせ濡れ衣を着せるのは、靈長類だと自惚れる人間の滑稽さである。これも合理主義の誤りの一つなのである。

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