國體護持總論
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著書紹介

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本能と規範

これまで一般に、多くの人々が、本能とか、本能的といふ言葉に對して、極めて不道德で非倫理的で惡德な響きを感じてゐたのは、合理主義(理性論)に毒されてゐたためである。何が善で何が惡かの判斷は、極めて規範的なものであり、その判斷基準は世界の各地において樣々な樣相と態樣を呈してゐるが、その原型は、人類の本能に由來するものである。繰り返し述べるが、本能に忠實な方向が「善」であり、これに背く方向が「惡」といふことである。「忠」とは、本來の意味はその字義からして「まごころ」を意味し、本能に適合する状態を指す。自己保存か種族保存かの二者擇一に迫られたとき、ためらひつつも後者を選ぶことを云ふ。また、「孝」とは、その解字からして、老人を背負つた子の姿であり、親に対する「忠」の意味である。それゆゑに忠孝一如であり、水戸學では、誠を盡せば「忠孝一本」になると強調した。

明治天皇の侍講であり、教育敕語の草案を起草したとされる元田永孚(ながざね)は、明治十二年(1879+660)に道德教育の基本方針書として『教學大旨』を、また、明治十五年には、具體的な修身教科書として『幼學綱要』を著した。この『幼學綱要』は、明治天皇が全國の學校に下賜され、明治二十三年の教育敕語の基底となつたものであるが、德目の記載順が、第一に「孝」、第二に「忠」となつてゐた。それが教育敕語においては、「克ク忠ニ克ク孝ニ」として、第一に「忠」、第二に「孝」となつてゐることから、両者の德目の優先順位が議論されることがあるが、このやうなことは餘りにも見當違ひな議論である。「千里之行始於足下(千里の行も足下より始まる)」(老子)とあるやうに、千里の行程(忠)は、第一歩(孝)を踏み出す實踐から始まる。第一歩なくして第二歩はなく、千里は踏破できない。孝の理解と實踐ができない者は、忠の理解も實踐もできないといふことである。

我が國の陽明學派の祖として近江聖人と稱される中江藤樹は、これを實踐した人である。藤樹は、祖父に代はつて伊豫大洲藩加藤家に仕へたが、近江に殘した老母の孝養のため幾度も禮節を盡くして致仕を願ひ出たが許されず、遂に脱藩し、死を覺悟して追手を俟つた。しかし、思ひがけずも追つ手は現れず、近江に歸つて母に孝養を盡くした。脱藩は孝の端緒であり、追つ手を迎へて死を覺悟するのは忠の堅持である。孝なくして忠なし。藤樹は、忠孝一如、忠孝一本の實踐として脱藩による死を覺悟した人である。求道や名望のために妻子を捨て父母を捨て、それなりの成果や功績を得た者が餘りにも多い中で、藤樹の實踐は無類の光芒を放つてゐるのである。

山鹿素行は、「已むことを得ざる、これを誠と謂ふ。」、「道や德や仁義や禮樂や、人々已むことを得ざるの誠なり。」、「真實無妄、これを誠と謂ふ。」などと説いたが(聖教要録)、まさに「至誠通天(至誠天に通ず)」(孟子)であり、この「誠」こそが「本能」なのである。かくして、忠孝のみならず、本能に適合するやうに、人の行動を奬励し、あるいは禁止・命令する多くの德目その他の規範が形成される。それゆゑ、多くの世界の先人によつて説かれた數々の德目その他の規範として現在も實效性を有してゐるものは、すべてこの原理によるものである。確かに、各地の自然環境や生活樣式などによつて多樣化してをり、決して世界共通の一律なものはないが、これら共通した根本的な部分は、やはり人類固有の本能に由來するものであつて、この本能適合性の有無によつて、善惡が決定してゐるのである。

前に述べたとほり、個體の本能には、自己保存本能、自己防衞本能、種族保存本能、種族防衞本能などがあり、それが種族集團共通のものであることから、種族集團の本能となつてゐる。そして、集團における規範が集團の維持と防衞のためのものであることからして、規範は、種族集團の秩序維持のために生まれた本能の態樣なのである。たとへば、「利他」を「利己(自利)」に優先させるといふ德目などの規範は、本能の機能的序列において、種族保存本能が自己保存本能を凌駕するやうに決定付けられてゐる結果によるものである。

國家といふ明確な集團が生成されない時代においては、その種族集團は家族を單位として、家族の連合體である部族、そして種族として形成され、家族においては家法、部族においては部族の法、種族においては種族の法が形成される。しかし、規範の内容を傳達するについて言語表現を用ゐてなされる限り、同じ意味内容でも表現が異なる場合もあることから、全體の秩序を維持するためには、それを共通にする作業も必要となつてくる。

また、特定の部族・種族に限らず、部族・種族を超えた集團として、宗教がその機能を果たすことがある。しかし、宗教規範(教團規範)には、集團内部の秩序維持以上に、他宗教の集團に對する防衞と、教團に所屬する構成員の改宗を阻止して教團勢力を維持するため、教團の戒律が強化される現象もある。これは、人が集團生活をするといふ社會性に根ざした「權勢本能」と「從屬本能」による秩序維持の本能によるものである。これは、種族や教團などの集團の中で、知・情・意を高めて權力と威勢を保持する強者が、弱者である他者を支配してこれを保護し、弱者である他者は、その強者の力を信じてこれに從屬して保護を求めるといふ棲み分け分擔をし、支配の序列を形成して秩序を維持するのである。この二つの本能が一組の對として存在し、個體の役割分擔によつていづれか一方に行動する性質のものであつて、これは、集團生活を行ふ動物に備つた本能的知惠である。この支配と服從の關係が秩序を維持し、それが規範となる。

ユダヤ教の十戒、キリスト教の山上の垂訓、イスラム教の律法、佛教の十戒、儒教の三綱五常、五德などは、自然環境や生活樣式の相違や地域的特殊性などから複雜多樣化したものの、本を辿れば、集團防衞本能に、この權勢本能と從屬本能などが合はさつて形成された規範である。

特に、孔子の説いた六藝(禮、樂、射、書、數、御)の教へや、孝と敬老と仁が連續し、我が子への慈しみは他人の子への博愛へと發展し、我が子や親を守る氣持ちが憐憫の情、惻隱の情となり、生かされてゐることを忝なやと感じる喜びと感謝、つつしみ、うやまひ、おもひやりといふ忠恕と至誠となつて廣がつてゆくことなどは、すべて本能の命ずるものであつて特別のものではない。忠恕と至誠を支へる情緒がなければ、不公正、不條理への怒りとこれを撤廢する強い動機は生まれない。

このことは、孔子の修養集團だけにとどまらず、部族國家、種族國家、民族國家、國民國家として形成された集團についても同樣で、治者と被治者の分離と統治規範の形成などは秩序維持本能から生まれた不可避的な現象である。ここで重要な點は、權勢本能によつて治者となる者(強者)に必要なものは、被治者である弱者の「保護」であり、それがあることによつて弱者の從屬本能を滿たすといふ點である。『貞觀政要』などで説かれるやうに、惻隱の情とか、治者に高い德性を求めるのは、弱者が從屬するために強者の保護をなすことが必須となるからである。權勢本能においては支配と保護、從屬本能においては從屬と被保護がそれぞれ對向するもので、強者が弱者を支配するだけで保護せず、あるいは衰弱や死亡などによりそれを實現する力を失ひ、弱者が從屬するだけで保護を受けないとなると、弱者に濳在する權勢本能が發現し、「強者の變更」が生ずる。これも本能の營みであると理解できるのである。

そして、この強者の變更は、國家においては政變や革命などであり、教團においては宗教改革や教主の交代などとして現れることになる。

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