國體護持總論
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革命國家

この傳統國家と對極にある革命國家とは、傳統國家の文化、傳統、制度的な基本構造などの國體の一部又は全部を傳統國家に屬する人民が非合法的な暴力を以て否定した新たな國家を意味する。そして、その國家の性質は、暴力的に政治變革を成立させる契機となつた「革命」の性質を檢討することによつて明らかとなるはずである。

ロベスピエールが言ふやうに、「新しい人間からなる、新しい國」として、それまでの國家との連續性を斷つことであり、非合法の暴力を以て國家權力を奪取することが革命の本質的部分である。そして、革命は、この權力奪取といふ要素に加へて、これまでの國家に存在した國體を否定する要素があることも否めない。それゆゑ、全く新たに成立した國家を「革命國家」と定義したとしても、その「革命」の在り方によつてその革命國家の性質は一律ではなくなる。つまり、革命國家と言つても、その革命前と革命後の比較において、それまでの國體との斷絶が完全なもの(眞正革命國家)と、それまでの國體の一部については承繼され殘部については斷絶するか、あるいは、それに變更を加へるに留まるもの(不眞正革命國家)とに分けられるが、さらに、この不眞正革命國家の態樣は千差萬別のものがあることになる。

アメリカ革命(獨立)とフランス革命とを比較しても、祭祀の承繼を否定した點において、新たに誕生した國家がいづれも革命國家であることは共通するが、兩者にはさまざまな違ひがあり、特に「統治」の見方に顯著な相違があつた。

アメリカ革命は、英國からの獨立、つまり、英國の有してゐた「統治」の正統性を認めた上で、それから「分讓」を受けたといふことにある。統治權力に對する基本的な「信賴」があり、民主主義とは權力參加の手段であると肯定的に捉へ、權力の擔ひ手となる富裕者による政治によつて統治する。しかし、先住民、貧困者、奴隷は權力の擔ひ手からは排除された。

これに對し、フランス革命は、ルイ王朝の統治の正統性を否定し、これを「破壞」することに正當性を見出したのである。統治權力に對する拭ひきれない「憎惡(ルサンチマン)」が出發點にある。それゆゑ、民主主義は、權力破壞の手段として肯定され、これまで統治の擔ひ手であつた王侯、貴族、聖職者は、排除と破壞の對象であり、その破壞の擔ひ手は、シェイエスが第三身分とした、僧侶と貴族以外の富裕な一般平民層であるが、ここからも下層民や農民は排除された。そして、破壞と殘忍の限りを盡くし、ルイ十六世の王政を打倒したフランス革命による共和制は、後にナポレオンの帝政、そしてナポレオン失脚後の王政復古によるルイ十八世(處刑されたルイ十六世の弟)の王政となり、それも早晩崩壞することになるが、「權力は何も生み出さない」といふ權力に對する極度の「憎惡」と、「權力がなければ統治することができない」といふ權力に對する「信賴」との間を振幅した不安定な歴史であつたことを物語つてゐる。

このやうに、アメリカ革命もフランス革命も、ともに既得權益の世襲を全否定しなかつた點において、これによつて樹立した國家が不眞正革命國家であると云へるが、それでは、世襲の全否定を建國の基本とし、君主を否定して一切の相續を否定し家族を完全解體する眞正革命國家といふのは、はたしてこれまで存在したのであらうか。

ロシア革命(大正六年 1917+660)は、確かにそれを目指した革命であつた。レーニンは、ロマノフ王朝を打倒した後、マルクス・エンゲルスの『共産黨宣言』(文獻24)の諸方策を實施した。「①土地所有を收奪し、地代を國家支出に振り向ける。②強度の累進税。③相續權の廢止。・・・」として、私有財産制と相續制度を廢止した。そして、さらに、法律により家族制度を廢止し、家族制度存續の一翼を擔ふ養子制度をも廢止したのである。それは、エンゲルスの『家族・私有財産および國家の起源』に基づき、廢絶すべき私有財産制度が家族制度によつても支へられてゐる構造であるとされたからである。この考へは、ルソーからフーリエに引き繼がれた家族制度解體論に由來するものであるが、特に、レーニンを支へたアレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイといふ女性革命家の貢獻が大きい。家族制度は、封建時代の産物であり、かつ、資本主義の温床であるとした上で、資本主義社會における女性勞働者の增加により家族の解體が進み、共産主義社會では、さらにそれが促進される。家事と育兒の社會化によつて女性は解放されて家族は消滅するとする女性解放論を唱へて事實婚を奬勵した。

しかし、その結果、家族の解體に伴ふ性風俗の紊亂、そして、少年の性犯罪や竊盜事犯の增加をもたらし、堕胎と離婚が增加して出生率の低下を招いた。また、その原因の背景には、第一次世界大戰やロシア革命によつて大量に生じた孤兒の存在もあつた。そのため、スターリンは、昭和元年(1926+660)に孤兒の救濟を目的とした養子制度を復活させ、さらに、昭和十九年(1944+660)には、ついに家族制度を廢止した法律を廢止して、逆に家族制度の強化する方針に轉換した。

家族制度は、國家制度との相似性があることから、家族の解體は傳統國家の解體を決定づける。しかし、それを斷念したときから、革命は挫折したことになる。

否、それ以前に革命は挫折してゐた。それは、レーニンが、大正七年(1918+660)のロシア共産黨(ボリシェヴィキ)第二綱領で定めた貨幣制度廢止の戰略目標を翌年(1919+660)に放棄した時であつた。貨幣制度は、資本主義の要諦であり、これによつて私有財産制による富の蓄積を生み、富の遍在と生産財の獨占、階級形成の原因であるとするのがマルクス・レーニン主義の根幹理論であつたからであり、これを放棄することは革命を放棄することと同じであつた。

もつとも、革命理論の基礎となつた唯物論が理論的に崩壞したのは、昭和十年のシェーンハイマーの理論と昭和十三年の原子核分裂の發見である。シェーンハイマーの理論は前に觸れたとほり、人間は唯物論で捉へることができない對象であることの發見であり、原子核分裂は、原子を「物」の最小單位として捉へてきたことの崩壞を意味し、唯物論や労働價値説の前提を覆したのであつた。

いづれにせよ、ロシア革命は、眞正革命を目指したものの、貨幣制度を革命から二年後に復活させて、革命理念の根幹を放棄し、その後のソ連といふ革命失敗後の殘骸國家は、當初の革命を著しく變質させながら、不眞正革命國家となり、平成三年(1991+660)十二月に崩壞することになる。革命を放棄して變質した後の殘骸國家ソ連の實態は、建前上は私有財産制を否定しただけの官僚統制國家であつて、元首と統治者を抽出する基盤は、共産黨指導部に屬する特權階級(ノメンクラトゥーラ)であつた。つまり、革命放棄後のソ連の政治形態は、「貴族制」に屬するものと云へる。

このやうに、歴史的な文化傳統を完全否定する眞正革命國家といふのは、合理主義による「實驗國家」であつて、この崩壞は、共産主義の敗北といふ現象面だけではなく、本質的には、合理主義(理性論)の敗北であつた。

また、支那における共産革命について云へば、これはロシア革命と比較すると、極めて不完全なものであつた。といふよりも、これは共産革命といふよりも、共産主義を信奉すると自稱する者らによつてなされた中共(中華人民共和國)といふ名の新國家建設に過ぎない。つまり、共産革命が目指すべき祭祀制度、私有財産制度、貨幣制度、相續制度、家族制度などの徹底解體を實施する政策がこれまで一度も一貫して繼續實行されたことがないからである。ただし、政治的謀略により昭和四十一年から始まつた文化大革命では、毛澤東がその失政を隱蔽するために紅衞兵を動員して、「造反有理」を掲げて子が親を告發糾彈することを奬勵した。これは、造反有理を掲げて歴史、文化、家族などを破壞した點において、眞正革命國家への道を進み出した現象であるとも云へるが、それも十二年後の昭和五十二年に崩壞した。その後の中共は、改革開放を掲げて、祭祀制度、私有財産制度、貨幣制度、相續制度、家族制度などを復元修復させた不眞正革命國家なのである。つまり、建國前と建國後の現在とを比較すれば、祭祀制度、私有財産制度、貨幣制度、相續制度、家族制度などの主要部分において本質的變更はなく、今後さらにその回歸傾向が加速することが豫測されることからすれば、結果において支那の國體は復活してゐることになる。

そして、中共の現在の統治態樣について云へば、中共では共産黨幹部による寡頭政治が行はれてをり、その地位は實質的に「世襲」または「禪讓」され、元首や統治者を人民が選擧で選出することががない點において共和制ではなく、舊ソ連と同樣に「貴族制」の不眞正革命國家であり、これまでの易性革命の域を出ないものである。

このやうにして、不眞正革命國家の中には、清教徒革命、フランス革命、アメリカの獨立、支那の易性革命などのやうに、君主制國家の革命において、その國體のうち、元首の世襲を否定する以外は、祭祀制度、私有財産制度、貨幣制度、相續制度、家族制度などの「制度世襲」とその「祭祀世襲」及び「分限世襲」を全て認めた例がある。支那の共産革命も結果的にはこれに屬することになる。

また、我が國における、大化の改新(645+660)に始まる公地公民制の律令國家體制への變革は、祭祀と元首の世襲を大前提としながらも、大寶元年(701+660)の大寶律令田令に規定された班田収受法といふ私有財産制度に關する「制度世襲」と「分限世襲」を原則的に否定した點において、「不眞正革命」に準じた變革であつたと云へるが、三世一身法(723+660)、墾田永年私財法(743+660)を契機に荘園が発達し、遂に班田収受法の廢止(902+660)に至つて世襲が完全に復活した。

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