國體護持總論
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著書紹介

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行爲規範と評價規範

法であるための前提要件となる形式や外觀すら備へず、對外的にもそれが周知されない場合は、法として認識しえない状態であると云へる。それは、事実として認識できないといふ意味で「不存在」といふことになる。しかし、これとは異なり、たとへば、ある規範が法律として公布された事實があつたとしよう。その場合は、一應は法律としてその存在が認識できるといふ意味では「存在」してゐることになる。ところが、これを以て直ちに「成立」したかといふと、一概にはさう云へない。極端な例としては、公布の事實はあつたが議會による議決の事實もなく、あるいは正規な手續を經てゐないこともありうる。存在を認識できても不成立と評價されるのである。つまり、「存在」か「不存在」かは主として「事実認識」の問題であるが、「成立」か「不成立」かは主として「法的評價」の領域だからである。さらに、この成立か不成立かといふ「法的評價」とは別に、さらに、それが法として效力を有するか否か(有效か無效か)といふ「法的評價」があり、これらの區別は、前に述べた、法の成立要件と効力要件の區別に対應するものである。つまり、成立要件を滿たさないとして「不成立」と評價される場合は當然に「無效」であるが、成立要件を滿たして「成立」したと評価される場合であつても、それが有效か無效かについて效力要件を充足の有無をさらに判斷しなければならないからである。さうすると、法の成立要件と效力要件といふ概念法學的な分析手法によつて法の生成と效力の過程を分類すれば、①不存在無効(不存在であるが故に無效)、②不成立無效(不成立であるが故に無效)、③成立無效(成立したが無效)、④成立有效(成立しかつ有效)といふ四つの效力態樣類型があることになる。

そして、このやうな段階的な判斷手順を經へ判斷する理由は、つまるところ、法としての效力を認めるか否かといふ最終的な判斷を慎重に行ふために必要だからである。嚴密に云へば、有效か無效かといふことは、「成立」したものに對する評價であり、存在しないもの、成立してゐないものに對する評價ではない。これらのものが法的な效力を持つことはそもそもあり得ない。生命が宿つてゐないものに、その生死を論ずることはないのである。しかし、存在しないもの、成立してゐないものには法的效力がないことを表現する言葉として、「無效」と表現しても誤りではない。つまり、「有效」であるといふことは、法として認められるといふこと、つまり、法として保護され遵守すべき義務が課せられるだけの價値が認められること(遵由ノ效力があること)であり、「無效」といふのは、さうでない場合のことをいふことになるが、このやうな現象は、さながら入學試驗の場合と似たものである。

つまり、入學試驗に合格して入學を果たすためには(有效となるためには)、まづは、願書を提出して試驗日に試驗会場で考試を受けなければならない。願書を出さずに、あるいは所定の日にその考試を受けなければ、そもそも合格することはありえない(不存在無效)。また、手續を經て考試に臨んだものの不正をしたことが考試中に發覺したために受驗自體ができなくなることもある(不成立無效)。さらに、所定の受驗手續を經たものの、考試の成績が惡くて不合格となつたり、事後に受驗手續等の不正が發覺して不合格となつたり、あるいは合格を取り消されたりすることもある(成立無效)。そして、そのやうなことも全くなく合格基準を滿たしてゐれば合格と判定され入學が認められるに至るのである(成立有效)。

このやうにして、法の效力の有無を判斷するについては、分析的で精緻な認識と評價をすることになるが、どうしてこのやうな手法がとられるのかと云へば、この入学試驗の喩へでも、成立要件と效力要件との相違について示唆されてゐるとほり、これらの要件はそれぞれ適用される時期と基準を異にするためである。

このやうな要件論的な議論は、後で詳述するとほり、占領憲法の效力論について缺かせないものであるが、まづ、一般論として、そもそも、法として認められるための「成立要件」と「效力要件」とを區別する實益はどこにあるのか、と云ふことについて考へてみたい。

思ふに、前に述べたとほり、この二つの要件で審査した上で、法として認めうるかを判斷することは、法が人々と國家全體に遍く適用される性質からして、その愼重さは必要でありかつ有益であると考へられるからであるが、それ以外にもさらに積極的な理由があるためである。  それはかうである。

まづ、「成立要件」は、規範定立時(成立時)における「行爲規範」である。ここでいふ「行爲規範」とは、行爲時(成立時)にその要件を滿たさなければ法としては認めないといふ基準であり、規範定立の「行爲」そのものが許容できるか否かを判斷する規範なのである。「行爲」自體を許すか否かに向けられた規範であり、いはば、「行爲時」に適用される規範である。

これに對し、「效力要件」は、規範定立後(成立後)における「評價規範」である。ここでいふ「評價規範」とは、一旦成立した後になつて、その要件を滿たさないと判斷されれば成立時に遡つて法として認めないといふ基準であり、規範成立の「結果」が許容できるか否かを判斷する規範なのである。行爲の「結果」を容認するか否かといふ評價のための規範であり、いはば、效力の有無が問題とされる「評價時」に適用される規範である。

しかし、通常は、この「行爲規範」と「評價規範」といふ對比ではなく、「行爲規範」と「裁判規範」といふ對比によつて、規範の重層的な機能構造を説明する場合が多い。この「評價規範」と「裁判規範」とは、類似した概念ではあるが、評價規範は裁判規範をも包攝した上位概念である。裁判規範とは、裁判の際の準則としての規範機能を有するもので、それは評價規範の一態樣であり、裁判での評價規範のことを裁判規範と云ふのである。つまり、評價規範とは、裁判だけに限定して機能するものではなく、行爲規範の場合と同樣、廣く立法作用や行政作用などの國家作用全域において機能するものである。裁判は、すべての紛爭や解釋論爭などを解決することはできない。私人間の和解、學術協議、行政處分、有權解釋、政治判斷などの裁判以外の行爲で決着がつくことの方が壓倒的に多い。裁判で決着がつくのは極少數である。そして、さらに、裁判自體にも限界があり、憲法裁判所の不設置、憲法判斷の消極性(處分權主義、弁論主義、爭訟性の要件、統治行為論、司法消極主義など)によつて、憲法判斷を含む司法判斷がなされない領域が餘りにも多いのである。

そもそも、法の妥當性や實效性といふ效力要件の要素は、社會全體の樣相から離れて語ることはできないし、裁判といふ國家作用に限定することは、規範の機能を矮小化するものである。また、行爲規範といふのも、議會だけに向けられたものではないし、行政や裁判などの國家作用のみならず、國民に對しても機能するものである。それゆゑ、成立要件と效力要件との對應性からして、行爲規範と裁判規範といふ對向概念で捉へることはできず、あくまでも行爲規範と評價規範といふ對向概念を用ゐなければならないのである。

ところで、この行爲規範と評價規範といふ二つの規範による結論は、本來は一致するはずであるが、時には一致しないことがある。たとへば、不動産の物件變動を公定させるための登記簿は、不動産の履歴書であるべきであつて、事實と異なる記載を許さないとするのが「行爲規範」の求めるものである。ところが、不動産の所有權が、甲から乙、乙から丙へと移轉した場合、この二つの登記の經緯を反映させるべきことが行爲規範として求められるべきところ、これを甲から丙に直接の移轉登記をした、いはゆる中間省略登記が行はれた場合、これを行爲規範に違反するとして無效とするか否かといふ問題がある。權利變動を正確に公示してゐないことは行爲規範に違反し、これを無效とする見解もあるが、假に、中間者の乙がこれに同意してをり、現在の權利者が丙であることに爭ひがないといふ場合、その點に着目すれば、これを無效とすることなく有效とする見解もある。これはまさに評價規範によつて有效とするのである。行爲時においては許されない行爲であつても、その結果が中間者を害さず、しかも、現在の權利者の權利を公示してゐるのであれば、あへてこれを無效とすることなく有效と評價するといふことである。このことを不動産實務も最高裁判所の判例も肯定するのである。しかし、これはあくまでも結果論であつて、初めから中間者の同意書を添付して中間省略登記を申請しても、それは行爲規範に違反するので申請は却下される。中間省略登記の有效性は、行爲規範からではなく、評價規範のみから導かれるものである。

また、別の例を示す。民法は、未成年子の保護の見地からして婚外子を分娩することを積極的には奬勵してゐない。これは行爲規範である。しかし、出生してきた婚外子については、それを保護するために認知請求や扶養請求などを認めてゐる。これは評價規範である。それゆゑ、婚外子保護の制度があることを以て國が婚外子の分娩を積極的に奬勵してゐるものと判斷してはならないのである。婚外子が評價規範によつて厚く保護されてゐるからと云つて、それが行爲規範において奬勵されてゐることではないのである。

このやうに、行爲規範と評價規範とは、行爲時と結果時(評價時)といふ判斷時の相違と判斷基準の相違によつて結論が一致しないことがある。そして、行爲規範と評價規範の關係についてさらに重要なことは、それは、成立の序列(授權の序列)と效力の序列とが必ずしも一致しない點である。

たとへば、殺人、放火、強盜などを處罰する各國に共通した基本的な刑法規範(處罰規定)は、通常は、法律で規定されてゐる。それは、法の成立要件について考察するとき、憲法の下位規範としての法律(刑法典)であり、憲法からの授權を得て規範が定立されたものであるから、當然に合法性は滿たす。勿論、これまでの歴史的事實からしても、これらの行爲を處罰してきた經緯があることからして、この規範定立の權力作用に歴史的かつ倫理的な正當性があることも肯定できる(正統性の充足)。また、法の效力要件について考察しても、この規範定立における「手續」と「内容」の雙方が妥當なものとして適正に形成された規範意識に支へられてゐるし(妥當性の充足)、その規範が實際に公然と通用してゐる(實效性の充足)ことからして、全く問題はない。

しかし、このやうに、刑法典を制定するといふ積極的な權力作用を認めることには問題はないとしても、逆に、刑法典を制定しないとする消極的な權力作用を認めることができるのかどうか。帝國憲法にも占領憲法にも、殺人、放火、強盜などの重大犯罪は勿論、その他の行爲を犯罪として處罰の對象とせよとは規定してゐない。むしろ、それを前提として、刑事被告人の手續保障などが規定されてゐるに過ぎない。では、制定しないといふことが可能だらうか。否、もし、刑法典を定めなかつたら、殺人も放火も強盜も放任され、社會秩序は確實に亂れ國家は崩壞する。それゆゑ、刑法典を定めることは國家防衞の見地から必要不可缺なものであり、まさに本能適合性がある。

さうすると、これは規範國體(根本規範)に屬する事項といふことになる。しかし、刑法典は、法形式としては、規範國體の下位規範である憲法典の、さらに下位規範である法律である。それゆゑ、成立要件の序列、つまり授權の序列としては法律といふ形式ではあるが、制定された刑法典の效力の序列からすると、實質的には規範國體の效力を持つ規範となるといふことである。

このやうな例は、外にも多くあり、世襲の態樣である相續を定めた民法典なども「世襲と相續」の制度保障をしてゐる點において規範國體に含まれるものであり、最近の法律の例としては、平成十一年八月に成立した「國旗・國歌法」も法律形式ではあるが規範國體に含まれるものである。

國旗が日の丸であり、國歌が君が代であることは、もとより規範國體に屬する事項である。しかし、成立要件としての授權の序列として法律となつてはゐるが、效力要件としての效力の序列としては、やはり規範國體に屬するものといふことになる。從つて、これ以外の圖案や歌詞、旋律を國旗、國歌とする法律は無效であり、現行の國旗・國歌法を變更したり廢止したりすることは、規範國體に違反して無效といふことになる。

また、これとの關連で、我が國には、「大和言葉(やまとことのは)を國語とする。」との明文規定のある成文法はない。帝國憲法にも占領憲法にもそのやうな明文規定はない。さうであれば、成文法主義に徹した法實證主義(純粹法學)によれば、「國語を英語とする」との法律や、「公用語を英語とする」との法律を作つても、憲法典が明文を以てこれを禁止してゐないので許されることになる。しかし、國語もまた規範國體(根本規範)であり、その改變は到底できないのである。

ところが、このやうな論理は、主權論や法實證主義(純粹法學)では導き出せない。むしろ、これを阻止できない致命的な矛盾と弱點を抱へてゐることが、主權論と法實證主義(純粹法學)に論理破綻があることを示してゐるのである。

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