國體護持總論
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著書紹介

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國家の本能總體としての國體

動的平衡(dynamic equilibrium)を保つた宇宙の雛形(フラクタル)である生命は、宇宙意志としての本能を基軸として生存し、人の集合體における國家もまた、國家本能に基づいて高次に構築された國體に從つて維持される存在であるが、この國體は、決して硬直化した意味で萬古不易といふことではない。國家本能に基づいて國體が構築されるについて、外部環境や内部環境の變化に即應して、その生命體の動的平衡を維持發展させるについて最も適した統一的かつ合目的的な變革を試みて自己實現する。端的に言へば、國體とは「國家の本能總體」のことである。これは生理學におけるホメオスタシス(homeostasis 生體恆常性、生體の均衡)と同樣の機能であると云へる。

各國には、それぞれに對應する國體が存在し、これらの共通した世襲の法理などの點も存在するが、各國の歴史の長短、國家形成の經緯、動亂の態樣などによつて完全に一致するものはない。我が國では、その歴史の特殊性により、文化國體の内容は豐富であり、これに關する論述も多い。前述の昭和十二年五月に文部省が刊行した『國體の本義』では、法律學における主權國體の概念ではなく、なんと文化國體の樣相について詳しく體系的に論述されたものとして注目に値する。これは、文化的天皇論(三島由紀夫)や生物學的天皇論(松本道弘)に通ずるものがある。

ところで、「本能」と聞けば、剥き出しの欲望であると誤解して嫌惡し、「國體」と聞けば、軍國主義の源泉であると誤解して唾棄するのは、實のところ何も知らない單細胞人間の性癖である。この『國體の本義』は、GHQの占領初期に、同じく昭和十六年に刊行された『臣民の道』と共に發禁處分となり、今でもその餘波により非難攻撃の對象とする愚かな言説を反面教師として認識すれば、これが國體の本義を鋭く指摘してゐたことが浮き彫りとなつてくるのである。

これを讀めば、西洋近代思想、とりわけ合理主義と個人主義を痛烈に批判してゐるのであつて、まさしく本能適合性を滿すものであつて、國體の本義と題することの面目躍如たるものがあつたのである。

そして、このことを踏まへながら、國體、皇室典範、憲法のそれぞれの關係や體系的な理解をするについては、先づ、國體、政體、主權及び制憲權などの基本的な主要概念について檢討整理しなければならない。特に、國體(文化國體と規範國體)、皇室典範及び憲法の關係は、第三章に詳しく述べることとして、ここでは、これまでに付加して、國體の樣相についてさらに述べてみたい。

この國體の概念は、國法學及び憲法學の基本概念でありながら、その學問的な檢討が充分になされることなく、戰前戰後を通じて、「狂信的肯定論」から「憎惡的否定論」へとその評價が大きく振幅し、これが今なほ思想的概念と誤解されてタブー視されている有樣である。法的に意味を持つ特定の概念を思想的にタブー視して一切檢討しない姿勢は、學問ではなく、學説の自殺行爲であり、法の科學を放棄して邪教となるに等しい。

ところで、前に述べたとほり、文化國體には、「事實」の領域に屬する「傳統」といふ存在(Sein)の側面と、「規範」の領域に屬する「古道(ふるみち)」といふ當爲(Sollen)の側面とがあつて、兩者は、等價値的な對極事象として振動的平衡の關係にある。「かくある傳統」と「かくあるべき古道」とは、必要充分條件關係にあり、「かくあるゆゑにかくあるべし」と「かくあるべきゆゑにかくある」とが兩立するのである。決して、傳統から當然に演繹しえない「思想」を含むものではない。ところが、傳統としては存在しなかつた天皇親政の原則を肯定しようとした「天皇親政國體論」や、ダーウィンの進化論を方法的に採用した社會主義や共産主義の單線的發展史觀による「進化論的國體論」など、およそ傳統とかけ離れた視點からの「政治思想としての國體論」が展開され、これが正統な國學と混同されるに至つた。

ここで指摘した「天皇親政國體論」とは、天皇論を基調とする國體論の一つであり、天皇主權論者の穗積八束、浮田和民、上杉愼吉などの學者や軍部、内務省官僚によつて支持されたものである。また、ダーウィンの進化論を方法的に採用した單線的發展史觀による「進化論的國體論」とは、人權論を基調とする國體論の一つであり、加藤弘之によつて提唱され各界の支持を得たとされる。なほ、北輝次郎(北一輝)著『國體論及び純正社會主義』はこれらの折衷説であり、進化論を基礎とする點で後者の亞流であり、また、天皇主權説を批判して天皇機關説に準據する點で前者の傍流であつた。

このやうに、當時多方面に影響を與へた進化論は、「ウォーレス線」として名を殘したウォーレスが進化論に關する論物を『種の起源』を執筆中のダーウィンに送り、そのダーウィンによつて完成した假説であるが、ウォーレスとダーウィンの唱へた進化論(自然淘汰説、自然選擇説)もまた唯物論であり理性論であり、その論理破綻は明らかであるが、當時はこの理論の斬新さに幻惑されて世界に席卷した。もし、地球上で自然現象によつて初めて原生動物が誕生し、それが進化して人類に至つたするのであれば、その原生動物の遺傳子に、その後の生活學習と環境變化に伴つて繼起的に進化を遂げ、最終的にはその進化の連續の彼方に人類が誕生するといふ、ありとあらゆる事態に對應した膨大なプログラムが組み込まれてゐなければならない。假に、いづれか進化の過程において、そのやうなプログラムが成立したとすれば、そのプログラム自體の「進化」が何ゆゑに起こつたのかも説明できない。「念ずれば花ひらく」(坂村眞民)として、個體がその子孫を進化させたいとの願望を抱けば進化できるといふのか。原生動物とそれから連續して進化したとする動植物自身に、子孫を進化させたいとの意思が備はつてゐたのか。また、それが備はつてゐるとすれば、その「意思」を抱く能力は誰からどうして得られたのか。進化論は、これらの疑問に唯物論的に答へられないことから、現在では進化論の破綻は露呈してゐる。

また、當時流行してゐたダーウィンの進化論と原子物理學に觸發されて構築したマルクスの理論は、膨大な資料に基づいて資本主義の産業社會を分析しようとする學問態度によつてもたらされたが、その姿勢と情熱は評價しうるとしても、史實に基づかない原始共産制を肯定するにとどまらず、生産性が無限に擴大し共産主義社會が到來するとの預言を行つたことや、經濟差別による階級社會に取つて變はつて登場した官僚制による階級社會の出現、官僚統制國家への變貌について豫知しえなかつたことは、もはや學問ではなく單なる觀念の産物としての政治思想に等しいのと同樣、これらの國體論もまた、史實に基づかず預言的手法を用ゐた愚かな政治思想であつた。これらの政治思想は、帝國憲法制定の前後で盛んに議論されたが、特に、帝國憲法制定後では、帝國憲法の解釋をめぐって法律論に便乘して展開されていくのである。

そもそも、國體が「主權の所在」に過ぎないのであれば、それは主權概念に包攝すれば足り、敢てそれだけのために新たに法律的な主權國體の概念を設定する必要は全くない。これは、實證法學(法實證主義)の立場からは當然のことであり、自然法學の立場からも、「主權の所在」といふ内容の主權國體の概念は不要である。その意味では、主權國體概念不要説が妥當である。しかし、後に述べるやうに、自然法學の立場からは、文化的・歴史的意義に根差した文化國體の概念を基礎に、傳統事實の中から規範的に意味を持つ事柄を法的當爲(規範)に昇華させた自然法的な概念として再構築し、主權國體とは全く別個の法律的概念としての國體(規範國體)の概念を設定する必要があつた。なぜなら、國家と法との關はり合ひを究明することが國法學と憲法學の至上命題であり、そのためには、「國家の本質」ともいふべき新たな法律上の國體概念を設定して究明することが必須となるからであつた。

文化國體は、我が國だけに限らず、およそ「傳統」を持つ全ての國家に存在する。しかし、これに權力的要素を含むか否かは、その國の傳統によつて決されるのである。アメリカ、カナダ、オーストラリアなどワスプ(WASP White Anglo-Saxon Protestant)の新大陸への移民による獨立國家建設の經緯を「建國の精神」による「傳統」と評價するならば、これらの國の規範國體には、權力的要素を多分に含むことになる。いづれも、宗教的かつ階級的事情などによる移民建國であり、先住民(インディアン、アボリジニー、タスマニア人など)の生命、土地、財産を略奪することの「自由と平等」、そして、本國からの「獨立」といふ權力的要素が文化國體の内容を構成してゐる。これは、ワスプの優越性を前提とする差別と排除の思想であり、これは黑人奴隷制度、奴隷牧場の經營、黄禍論による移民制限と隔離などの公然とした差別と排除を必然的に生じさせた。現在のアメリカでは、ヒスパニック(Hispanic スペイン語系住民)などの後發移民の激增に關して、ワスプ社會には文化國體の因果應報的ジレンマが生じてゐる。

「不法移民が建國した國が不法移民で惱んでゐる。」

これは、アメリカに限らず、移民建國の國家に共通する惱みである。今後は、この文化國體の權力的要素(差別と排除)を除去しうるか否かである。ワスプのアメリカン・ドリームを文化國體の要素として完全に維持するのであれば、それは白人至上主義を唱えるKKK(Ku Klux Klan)の運動と同樣に、權力的要素(差別と排除)に從ふことになり、また、文化國體から權力的要素(差別と排除)を除去するのであれば、それは、移民の完全自由化運動となる。今後の移民政策はその中間を振幅するであろうが、理念的には二者擇一であり中間は存在しないのである。

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