國體護持總論
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著書紹介

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老人福祉と孝行

ところで、現代において、祖先崇拜が希薄となつた例は枚擧に暇がないが、これが希薄となつたために、分業化が高度に進んだ現代大衆國家の病める姿の典型例を次に指摘する。

それは、老人福祉問題である。老人福祉について、その福祉豫算を限りなく增大することが福祉の向上であり正義であることを受け入れる風潮がある。しかし、このことは、反面において、祖先崇拜の始源的形態であり本能の發露である「親孝行」を否定することを促進してゐるのである。老人福祉は、財政上の措置で賄へるものではない。一人一人がその親と同居して介護し、麗しい家族生活をすれば、基本的に老人福祉問題は解消する。老人ホームなどといふ現代の姥捨山に親を遺棄しても、當面の命の保障がなされてゐるとの安心感から子供たちは全く罪惡感を抱かない不道德社會であるため、このやうな制度が自己の生活にとつて快適(快樂)であるとして、その種の豫算の增大を切望する。そして、親孝行をしたいので、そのために親と同居できる住居の提供などの豫算措置をしてほしいとの要求には耳を貸さず、逆に、親不幸をしたいので、親を姥捨山に連れて行く道を整備し、姥捨山の造成をするための豫算措置を求める聲に耳を傾けてゐるのである。老人福祉に携はつてゐる公務員や介護專業者の親が老人ホームといふ姥捨山にゐたり、獨居老人として別居して生活してゐるといふ砂を噛むような分業體制が日本を蝕んでゐる。

親孝行は、決して「分業」に馴染むものではない。分業したときから親孝行ではなくなる性質のものである。我が國には、そもそも利己主義や個人主義の理念は存在せず、家族主義や共助主義の理念しかなかつた。利己主義と個人主義とは意味が違ふのだと瑣末な議論をする個人主義擁護者の言説は、目糞と鼻糞の違ひを説明するに等しい虚しさを感じる。

歐米の持ちこんだ個人主義の理念は、共同社會(Gemeinschaft ゲマインシャフト)と調和するとの幻想もあつたが、實際は共同社會を崩壞させ、利益社會(Gesellschaft ゲゼルシャフト)へと導いたため、利己主義と何ら異ならないものとなつた。さらに、共同社會の再構築としての「福祉社會」理念についても、福祉の意味を誤解し、自我の欲心を正當化するための標語と化し、現代のやうに精神文化生活が著しく混亂したのである。これを軌道修正して麗しい社會を實現しうるには、傳統に回歸して家族共同社會を再構築することしか道はありえない。そして、すべての人々の家族の祖先が萬世一系の天皇宗家に連なり、皇祖皇宗を始源とする共同社會であるとの深層民族意識に基づき、宗家である皇祖皇宗の神裔である總領を「すめらみこと」(總命)として尊崇するのである。このことについて、水戸學の理論的指導者であつた會澤正志齋(1782~1863)の『新論』では、「治むるところの蒼生は、すなわち依然として天祖の愛養したまひしところの裔孫なり」と説いたのである。

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