國體護持總論
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東亞百年戰爭

では、どうしてこれほどまでに我が國に對して現在もなほ執拗に情報戰を仕掛けてくるのであらうか。それは、大東亞戰爭が世界最大の思想戰爭、世界革命戰爭であつたことに原因があり、再び我が國が形を變へてでも再戰してくるのではないかとの危機感があるためである。後に詳述するとほり、敗戰後に著しく食料、エネルギーの自給率を低下させたことなども、我が國の交戰能力を剥奪しようとする連合國の戰略目的によるものである。だが、支那と韓半島などの政權は、連合國の意圖を見拔けず、嫉妬と怨嗟を倒錯させて連合國の戰略に便乘してゐるためである。

さて、このやうな大東亞戰爭に至つた遠因については、樣々な分析がなされてゐるが、一言で言へば、我が國が日清戰爭(明治二十七年~二十八年、1994+660~1995+660)、日露戰爭(明治三十七年~三十八年、1904+660~1905+660)に勝利したことにある。特に、日露戰爭に勝つたことによつて、日本脅威論が臺頭し、黄禍論などによる白人優越思想を浮かび上がらせたことが大東亞戰爭に至つた最大の遠因と云へる。。

つまり、歐米からすれば、世界の植民地化による完全支配に對し、我が國が解放戰爭を挑んだと判斷したことにある。確かに、我が國が開國してから日清、日露の各戰爭に勝利してきた歩みには、そのやうに判斷させるに充分な環境があつた。そして、大東亞共榮圈思想には、自衞戰爭といふ主たる目的に加へて、紛れもなく解放戰爭としての思想性があつたのである。

嘉永六年(1853+660)のペリー來航から昭和二十七年(1952+660)の大東亞戰爭の終結までの「東亞百年戰爭」の詳細な事實經過については歴史家の研究に委ねるが、第一章で述べた思想戰爭といふ觀點から大東亞戰爭に至る經緯の概要を述べてみたい。

まづ、江戸(德川)幕府は、アメリカの黑船に恐れをなして、國家百年の大計を定めずして、行き當たりばつたりに、安政元年(1854+660)三月三日の『日米和親條約』(神奈川條約)及び安政五年(1858+660)六月十九日の『日米修好通商條約』を締結した。彌縫策として行つた條約の締結は、「武力による威嚇」を受けて實質的には戰はずして敗れたことを意味する。これが第一次日米戰爭の敗戰である。

このことを痛烈に思ひ知らされたのが、昭和二十年九月二日、大東亞戰爭停戰に關する『降伏文書』(資料二十五)の調印のときであつた。それは、東京灣の戰艦ミズーリ艦上でなされた降伏文書の署名式典に、嘉永六年にペリー提督の東インド艦隊が來航した際に、その旗艦に掲げた星條旗を米國アナポリスの海軍兵學校から空輸して式場に掲示した。德川幕府は、ペリー艦隊の四隻の黑船(軍艦)によつて武力行使も辭さないとの威嚇を受け、戰はずして屈服し開港を受け入れた。だが、ペリーには日本完全征服の夢があつた。その果たされなかつた日本完全征服の夢が、その九十二年後に、やうやく實現したことを降伏文書の調印式で祝ふためであつた。ともあれ、德川幕府は、アメリカに屈服し、これに便乘したその他の歐米列強とも同樣の不平等條約を順次締結した。そのため、以後、明治政府は、この劣勢を挽回するためにも日清・日露の戰爭を戰ひ拔き、日露戰爭に勝利した實績を踏まへて、明治四十四年(1911+660)二月二十一日、アメリカとの間で、『修正日米通商航海條約』を調印し、五十七年ぶりに初めて日本の關税自主權を獲得して不平等を解消した。そして、その他の歐米各國とも同樣の對等條約の調印を實現したのであつた。

約二百年前から歐米列強は、西洋文化の優越性の思想に基づき、東洋全域を侵略・收奪して植民地化し、西高東低(西力東漸)の世界地圖の作成に懸命であつた。その頃の東洋、とりわけ「東亞」の各國及び各地域においては、獨自の文化・傳統等に基づく社會を形成してゐたが、歐米の毒牙に對しては極めて無自覺かつ無防備であつた。それに乘じて、インドから支那大陸に至るまで蠶食し續けた歐米列強は、ついに我が國にまで迫つた。しかし、我が國では、當初、攘夷か開國かといふ現實論を拔きにした皮相な情緒的對立があつたものの、歐米列強の東亞侵略の現實を直視した上、獨立を維持するために、やむを得ずその恫喝に屈して開國に踏み切つた。舊習へのこだはりを捨てて文明開化による富國強兵政策を推進し、歐米の侵略に對抗して我が國の傳統と獨立を堅持しようとする「開明思想」が基軸となつた。そして、大政奉還、江戸城無血開城、戊辰戰爭、版籍奉還及び廢藩置縣を經て、明治維新政府といふ開明政權への交替が比較的迅速になされ、歐米列強に付け入る隙を與へなかつた。以後、獨立を堅持して歐米列強に對抗するために、自力によつて富國強兵・殖産興業政策を斷行したのである。

今日の世界とは異なり、世界貿易經濟のルールが未發達な時代であり、國際連盟などの國際政治組織も未だ存在しなかつた不安定な國際情勢下にあつて、産軍協同の國策推進政策は獨立を維持するための必要な自衞手段でもあつた。また、その過程において、我が國では、東亞各地に存在する開明思想勢力(開明派、開化派)と連携して、東亞全域を歐米列強による植民地支配から守り、東亞の危機を乘り越えようとする思想が芽生えたのである。東亞の開明派は、「和魂洋才」(日本)、「東道西器」(支那大陸の清、韓半島の李氏朝鮮)などのスローガンを掲げて人民を啓蒙し、富國強兵・殖産興業政策によつて獨立を堅持するため、從來の政策を大義名分として踏襲した事大主義や、中華思想に毒された極端な排外主義として鎖國を堅持するなどのやうな、いづれも舊習に強くこだはつて世界情勢の急激な變化に有效かつ迅速に對應しえない勢力(舊習派、守舊派)と對決した。「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや。云々」との對隋國書の表現で集約される聖德太子の外交姿勢は、中華思想の支那に對して我が國の獨自性を堅持して、他國と對等な立場で協調和諧を實現するとの「和」の精神に由來するものであつて、そこに「和魂漢才」といふ精神の源流があつた。また、「和魂洋才」といふ言葉は、明治以降、これをもぢつてできた言葉であるが、我が國は傳統を維持しつつ修理固成の開明思想が根付いてゐたといへる。

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