國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第二巻】第二章 大東亞戰爭と占領統治 > 第三節:占領統治の前提

著書紹介

前頁へ

帝國憲法に基づく宣戰と講和

 大東亞戰爭は、帝國憲法第十三條前段に基づく天皇の「宣戰大權」により、昭和十六年十二月八日に開戰となり、同二十年八月十四日、同じく同條前段に基づく天皇の「講和大權」の發動により、『ポツダム宣言』(資料二十三)を受諾して停戰し、同じくこの講和大權によつて締結された桑港條約が昭和二十七年四月二十八日に發效して獨立するまで、GHQによつて、我が國の國家主權、領土保全及び政治的獨立が武力の行使によつて奪はれ續けた。

昭和四十九年十二月十四日の第二十九回國連總會の『侵略の定義に關する決議』によれば、その第一條には、「侵略とは、一國による他國の主權、領土保全若しくは政治的獨立に對する、又は國際連合憲章と兩立しないその他の方法による武力の行使」とあることから、このGHQの行爲は侵略に該當するのである。そして、このGHQの侵略によつて軍事占領統治下に置かれ、我が國の獨立は完全に奪はれたことになる。

連合軍は、昭和十六年八月十四日の『英米共同宣言(大西洋憲章)』(資料十八)、昭和二十年二月十一日の『ヤルタ密約』(資料二十一)と同年七月二十六日の『ポツダム宣言』により、戰後の世界支配の枠組みを決定し、我が國に對し、軍隊の無條件降伏と完全武裝解除を求めた。その要求は、廣島と長崎に原子爆彈を投下しつつ「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみ」(ポツダム宣言第十三項)とするホロコースト豫告の恫喝であり、我が國にはこれを受諾するしか他に道はなかつたのである。

そのため、ポツダム宣言では、形式上、日本國軍隊の無條件降伏と完全武裝解除や民主主義的傾向の復活強化等の政治命題を我が國が自主的に實現するやう要求してゐたものが、昭和二十年九月二日、東京灣上にて署名した『降伏文書』では、「天皇及日本國政府の國家統治の權限は、本降伏條項を實施する爲適當と認むる措置を執る連合國最高司令官の制限の下に置かるるものとする」と明記されてゐた。

しかし、この「制限の下に置かるる」との點は、「subject to」の翻譯として表現されたが、これは「制限」ではなく「隷屬」である。連合國は、我が國の期待と甘えにも似た氣休めに等しい「誤譯」を當然のことながら無視し、我が國を軍事占領による絶對強制下に置き、その自由意志を奪つて占領政策を推進した。

從つて、ポツダム宣言では「一切の軍隊が無條件に降伏すべき」との文言であり、「日本軍の無條件降伏」であつたにもかかはらず、降伏文書では、實質的に「日本國政府の無條件降伏」にすり替へられることとなつたのである。それは、ポツダム宣言が引用する「カイロ宣言」に、「日本國の無條件降伏」とあつたことによるものであつた。これは、連合國からすれば、すり替へといふよりも、我が國がGHQの「subject to」(隷屬)を容認したことによる必然な流れといふことになる。つまり、我が政府の自主性は悉く否定されて獨立を完全に奪はれ、連合軍による軍事占領統治(侵略)が實施されたのである。

そして、昭和二十六年九月八日に調印された「桑港條約」による最終講和と、同日、日米間で締結された『日本國とアメリカ合衆國との間の安全保障條約』(以下「舊安保條約」といふ。資料三十七)の雙方が昭和二十七年四月二十八日に「戰爭状態」(桑港條約前文及び第一條)が終了し再び我が國本土だけではあるが獨立が回復された。

ポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印とは、いづれも帝國憲法第十三條前段の講和大權に基づく講和條約である。この第十三條前段は、宣戰大權も規定してゐることからして、宣戰から講和に至るまで、國家が一連の權限として保有する「交戰權」(right of belligerency)の存在根據なのである。「交戰權」(right of belligerency)といふ用語は、占領憲法第九條第二項後段に見られるが、これは國際法上も初めて登場した「造語」であつて、戰爭を開始して軍隊を指揮し戰闘を繼續し、そして、戰闘を止めて停戰し、最終的に戰爭状態を終結させて講和を締結するといふ一連の行爲を意味する。占領憲法第九條第二項の前段(戰力の不保持)はポツダム宣言の「完全武裝解除」(第九項)を、占領憲法第九條第二項後段の「交戰權の否認」はポツダム宣言の「軍隊の無條件降伏」をそれぞれ規定したものである。帝國憲法の規定と對應させれば、これらは、宣戰大權(第十三條前段)、編制大權(第十二條)、統帥大權(第十一條)、講和大權(第十三條前段)の全てを否定することを意味する。

占領憲法では、この交戰權を明確に放棄してゐるため、講和大權に屬する國家行爲であるところの桑港條約の締結權限を占領憲法に求めることはできず、やはり帝國憲法にその權限を求めることになる。現に、桑港條約の前文と第一條では、この條約が發效するまでは「戰爭状態」であるとしてをり、これは、昭和二十年六月八日、御前會議においてなされた「聖戰完遂」、「國體護持」、「皇土保衞」の國策決定がポツダム宣言によつて停戰したものの、未だに取り消されてゐなかつたことからである。

戰爭状態を完全終結させるためには、帝國憲法第十一條の統帥大權と同第十三條前段の講和大權に基づくこととなる。勿論、それ以前に、戰闘行爲の停止については、ポツダム宣言の受諾後、降伏文書の調印前に統帥大權によりなされてゐたことを踏まへて、講和大權に基づき桑港條約が締結された。そして、桑港條約の發效により、本土だけの獨立を回復させて戰爭状態の終結を行つた。これら一連の國家行爲は決して占領憲法に基づくものではない。これは、まさに帝國憲法が今もなほ效力を有してゐることの現存證明なのである。

続きを読む