國體護持總論
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占領統治の法的性格

次に、占領統治の「法的性格」を考へるについては、オランダのス・フラーフェンハーヘ(ハーグ、英語名・ヘーグ)で我が國及び連合國が締結してゐた『陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約』(ヘーグ條約1907+660)の條約附屬書である『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』との關係が重要である。これまでの占領に關する國際法規は、交戰國の一方が戰闘繼續中に他方の領土の一部を占領した場合のことを豫定してゐるのであつて、これまでは前例がなかつたGHQの占領統治の態樣のやうに、降伏停戰後の占領までもその守備範圍となるか否かといふ問題である。

しかし、これまで前例がなかつたと云つても、これらの陸戰法規の諸規定の中には、必ずしも戰闘繼續中の状態のみを前提としてゐないことは明らかであつて、降伏停戰後の占領を含んだ規定はあつても、現實にはこれまで單に前例がなかつたといふに過ぎないのである。現に、前掲の『マックアーサー元帥の管下部隊に對する訓令』では、「國民の自由に表明した意思によつて支持されないいかなる政治形態をも日本に強制することはポツダム條項に反する」とし、「占領軍は、國際法および陸戰法規によつて課せられた義務を遵守するものとする。」としてゐることからしても、GHQの占領統治が陸戰法規の適用を受ける占領であることは疑ひの餘地がない。しかも、「占領軍は、國際法および陸戰法規によつて課せられた義務を遵守するものとする。」との意味は、國際法及び陸戰法規はポツダム條項(降伏文書を含む獨立喪失條約)よりも上位規範であることを認めてゐたことになる。つまり、獨立喪失條約は、國際法及び陸戰法規に從ふといふことである。これは、法律(國際法及び陸戰法規)があり、これに基づいて契約(獨立喪失條約)があるといふ關係なのである。それゆゑ、この點に關して、GHQ占領統治は陸戰法規の適用がないとか、陸戰法規は一般法でありポツダム條項は特別法であるから、特別法優先の原則からしてGHQの占領統治は陸戰法規の適用がないとする見解などは、GHQでさへ認めなかつたことを敢へて主張してでもGHQに阿らうとする屬國病患者の戲言であつて、何らの説得力もない。獨立喪失條約は、あくまでも條約(契約)であつて特別法ではなく、一般法である國際法及び陸戰法規を改廢する效力はない。むしろ、國際法及び陸戰法規に違反する條約は、これに抵觸する限度において無效となるのである。

それゆゑ、「占領軍は、國際法および陸戰法規によつて課せられた義務を遵守するものとする。」ことから、占領統治においては、『陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則』第四十三條(占領地の法律の尊重)の「國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶對的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ。」との規定が適用されることになる。このことが、占領憲法の制定を含む法制度の變更をしなければならないやうな「絶對的ノ支障」があつたといへるのか否かといふ後述の議論の出發點になるのである。

ところで、GHQによる占領及び統治は、樣々な種類と名稱による「命令」によつてなされ、その命令の名稱としては、指令、訓令、覺書、聲明その他の指示、示唆など樣々なものがあり、いづれも全て實質的な命令として發令されることになる。また、その形式は、文書以外にも口頭によるものも多く、しかも、その範圍は、占領統治に直接關係するもののみならず、政府幹部職員の任免、配置轉換などの同意の取り付けその他の人事要求にまで廣範に及び、しかも文書による命令事項が擴大解釋されて要求されることなども多く、それが全面かつ繼續してなされた。このことからすれば、「間接統治」が原則で、「直接統治」が例外であるとする占領統治の基本原則は否定され、原則と例外との逆轉運用がなされたのであつて、實質的には「直接統治」と殆ど大差はなかつたことになる。

また、この指令等の命令の法的性質は、帝國憲法第十三條前段の講和大權に基づいて締結されたポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印といふ、獨立の喪失、占領統治の受容を内容とする講和條約である「獨立喪失條約」の各條項を具體的に實施する細則として、獨立喪失條約に基づく下位規範(施行細則)として位置付けられる。つまり、これは、バーンズ回答の第二段落にも見られ、降伏文書の第八段落で明記されたとほり、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」るとの「subject to(隷屬)條項」に基づく「措置」として、獨立喪失條約と一體となつて效力を有するものといふことになる。しかも、この講和條約の當事國は對等の地位にはなく、敗者(日本)は勝者(連合國)に「隷屬」するのである。「隷屬」とは、無條件にて服從することであり、その名稱の如何を問はず、その一切の「措置」は、「右以外の日本國の選擇は、迅速且完全なる壞滅あるのみとす」(ポツダム宣言第十三項)といふ絶對強制として機能することになるのである。

そして、GHQからの命令や連絡を受ける政府側の窓口は、「終戰連絡事務局」であつた。これは、ポツダム宣言受諾直後の昭和二十年八月十九日、マニラに派遣された河邊虎四郎全權がGHQとの「マニラ會談」において手交され、その後に持ち歸つた『千九百四十五年八月二十日「フィリピン」諸島「マニラ」ニ於テ日本國代表ニ手交セラレタル連合國最高司令官要求事項』の中に、「日本政府ハ占領期間中連合國軍ニ依リ要求セラルベキ地域及諸便宜ヲ供與スベキ權能ヲ有スル『中央機關』ヲ設置スベシ連合軍最高司令部トノ交渉ヲ容易ナラシム爲此ノ機關ハ東京ニ設ケラレルベシ是ニ續キ此ノ機關ノ三ツノ支部ガ他ノ地域ヲ占領スル連合國主要司令官本部ノ近傍ニ設置セラルベシ東京ニ置カルベキ中央機關ハ一九四五年八月三十一日一八〇〇時迄ニ機能ヲ發揮シ得ルモノタルベシ」とあり、これに基づき設置されたものである。その官制は、同月二十六日に敕令第四百九十六號として公布され即日施行された。この第一條には、設置された機關は外務大臣の所管とし、「大東亞戰爭終結ニ關シ帝國ト戰爭状態ニ在リタル諸外國ノ官憲トノ連絡ニ關スル事項ヲ掌ル」とし、第二條には「終戰連絡事務局ハ終戰連絡中央事務局及終戰連絡地方事務局トス」と規定され、その後の機構と名稱が變更されたものの、ポツダム宣言受諾の直後から桑港條約發效までの非獨立時代において繼續一貫して存續した。それは、占領憲法の施行の前後においても變はることはなかつた。このことからしても、獨立喪失條約を「入口條約」とし、占領憲法を「中間條約」とし、そして、獨立回復條約である桑港條約を「出口條約」とする一連の非獨立時代の長い「非獨立トンネル」での「講和條約群」は、帝國憲法第十三條前段の下で、この「終戰連絡事務所」を政府の窓口とし、一貫して繼續的な機能を果たしてきたのである。つまり、この「中間條約」である占領憲法もまた、この「終戰連絡事務所」を窓口として、GHQに對する政府の窓口として調整を果たしてきたのであつて、このことからしても占領憲法もまた一連の講和條約群の一つであることの證左なのである。

このやうに、對外的には、「終戰連絡事務所」を通じて、我が國は、講和大權に基づいて締結された「入口條約」である獨立喪失條約に基づき、國内的な法制度との整合性を圖らうとする。それは、帝國憲法第八條の「緊急敕令」を基本として法制度の運用がなされるのである。講和條約は、國際法の領域のものであるが、國内法にも影響を及ぼす規範として、國際法と國内法の雙方に跨る法規範であり、國内法のみに適用される法律よりも上位規範であるから、講和條約の履行については、その下位規範である「法律」によることになる。しかし、「法律」は帝國議會によつて定立される規範であるために即應性、緊急性に缺けることから、帝國憲法第八條に基づき、法律に代はる「緊急敕令」に基づくことになつたのである。

帝國憲法第八條第一項には、「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ敕令ヲ發ス」とあり、また、同條第二項には「此ノ敕令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ效力ヲ失フコトヲ公布スヘシ」とあることから、緊急敕令であれば、GHQから入口條約に基づき矢繼ぎ早に出される命令に對して相應的かつ緊急的に對應が可能であつた。そこで、入口條約の履行のための國内法的對應としては、この「緊急敕令」に基づくことになる。そこで、この趣旨により發令された緊急敕令が、昭和二十年九月二十日に公布(即日施行)された『「ポツダム」宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件』(昭和二十年敕令第五百四十二號)といふ、いはゆる「ポツダム緊急敕令」であつた。

それは、「政府ハ『ポツダム』宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合國最高司令官ノ爲ス要求ニ係ル事項ヲ實施スル爲特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ爲シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」いふものである。

そもそも、『降伏文書』には、「subject to(隷屬)條項」(八項)はもとより、「何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ、一切ノ日本國軍隊及日本國臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト、一切ノ船舶、航空機竝ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ、之ガ毀損ヲ防止スルコト、及聯合國最高司令官又ハ其ノ指示ニ基キ、日本國政府ノ諸機關ノ課スベキ一切ノ要求ニ應ズルコトヲ命ズ」(三項)とし、「一切ノ官廳、陸軍及海軍ノ職員ニ對シ、聯合國最高司令官ガ、本降伏實施ノ爲適當ナリト認メテ自ラ發シ又ハ其ノ委任ニ基キ發セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スベキコトヲ命ジ、竝ニ右職員ガ聯合國最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任ニ基キ特ニ任務ヲ解カレザル限リ各自ノ地位ニ留リ且引續キ各自ノ非戰闘的任務ヲ行フコトヲ命ズ」(五項)とされた上、「ポツダム宣言ノ條項ヲ誠實ニ履行スルコト、竝ニ右宣言ヲ實施スル爲聯合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ聯合國代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ發シ、且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後繼者ノ爲ニ約ス」(六項)とあつて、天皇、政府、官廳職員に對して「直接」に命令できるとする「直接統治」を規定してゐたのである。そして、降伏文書に調印した同日の昭和二十年九月二日にGHQが發令した『指令第一號』の附屬『一般命令第一號』(資料二十六)十二項により、「日本國ノ支配下ニ在ル軍及行政官憲竝ニ私人」に對しては、連合國最高司令官又は他の連合國官憲の發する一切の指示を誠實且つ迅速に遵守すべきことを命じ、若しこれらの指示を遵守するに遲滯があり、又はこれを遵守しないときは、連合國軍官憲及び日本國政府は、嚴重且つ迅速な制裁を加へるものとされてゐた。

しかし、ここでいふ「私人」といふのは、「日本國ノ支配下ニ在ル軍及行政官憲」の「從者」の意味であつて、そのやうな關係のない一般の「臣民」を指すものではない。大東亞戰爭は、我が國と連合國との戰爭であり、我が國が國家として敗れたのであつて、臣民が負けたのではなく、臣民に對する直接強制や直接統治される謂れはないのである。ポツダム宣言第十項に、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は國民として滅亡せしめんとするの意圖を有するものに非ざる」とあり、降伏文書には、「何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ、一切ノ日本國軍隊及日本國臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト・・・ヲ命ズ」とあり、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ權限ハ、本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス。」とあつて、國家機關は隷屬下(subject to)に置かれても、臣民全體までもがGHQの隷屬下に置かれたものではなく、臣民全體に對して直接統治ができることを規定してゐない。ただし、唯一の例外としては、前に述べた降伏文書の三項に、「何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ、一切ノ日本國軍隊及日本國臣民ニ對シ敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト・・・ヲ命ズ。」とあり、臣民に對して「直接」に「敵對行爲ヲ直ニ終止スルコト・・・ヲ命」じてゐる點があるが、これは、あくまでも軍事的行爲の終止に限られたものであつて、以後の占領統治において臣民に對する直接統治を正當ならしめる根據とはなりえないのである。

にもかかはらず、臣民に對する直接統治もなし崩し的に實施されるに至つたのである。

このポツダム緊急敕令は、降伏文書に基づくGHQの直接強制と直接制裁(處罰)による「直接統治」方式を極力回避するため、同年九月九日に、マッカーサーが、日本の占領統治(占領管理)についての方針を「間接統治方針」であることを發表したことを根據として、「間接統治」方式に適合する法制度として發令された。ところが、GHQの命令を無條件で傳達し、その命令に違反した場合の罰則について定めた「基本法規(基本敕令)」として制定し、しかも、さらに下位法令(命令)に白地委任することにしたのである。

そして、ポツダム緊急敕令が發令された昭和二十年九月二十日と同日に公布され即日施行された『「ポツダム」宣言受諾ニ伴ヒ發スル命令ニ關スル件施行ニ關スル件』といふ「敕令」(昭和二十年敕令第五百四十三號)の第一項には、「昭和二十年敕令第五百四十二號ニ於テ命令トハ敕令、閣令又ハ省令トス」とあり、同第二項には「前項ノ閣令及省令ニ規定スルコトヲ得ル罰ハ三年以下ノ懲役又ハ禁錮、五千圓以下ノ罰金、科料及拘留トス」とされたのである。

つまり、「ポツダム緊急敕令」は、「政府ハ『ポツダム』宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合國最高司令官ノ爲ス要求ニ係ル事項ヲ實施スル爲特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ爲シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得」といふ規定により、政府機關に屬する者のみならず臣民に對してもGHQの命令に違反する行爲を罰則を以て禁止する間接統治方式を採用したのであるが、なし崩し的に、政府を飛び越えてGHQが政府の頭越しに臣民に對しても直接に強制する直接統治方式へと變質させて行つたのである。

このやうな『ポツダム命令』が占領統治中に約五百二十件も發令されたことからしても、『ポツダム緊急敕令』の公布及びこれに基づく『ポツダム命令』は、占領政策の要諦であつたことが頷けるのである。

また、このポツダム緊急敕令は、前に述べたとほり、帝國憲法第八條第二項により「此ノ敕令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出」しなければならないものであつたため、發令から約二か月後の昭和二十年十一月二十七日の第八十九回帝國議會で提出され、承諾議決がなされてゐるものの、これは、降伏文書の「subject to(隷屬)條項」の義務の履行であるから、形式的審議によつて義務的かつ形式的に承諾されたのである。

このやうにして、「形式的」な間接統治の體裁が整へられたものの、降伏文書を擴大解釋して、「實質的」には政府機關及び臣民全體に對する全面的な直接統治の實態を備へて行つたのである。

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