國體護持總論
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著書紹介

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昭和二十年一月から六月まで

一月九日、米軍、ルソン島に上陸。

二月十一日、ソ連のクリミア半島のヤルタで米(ルーズベルト)、英(チャーチル)、ソ(スターリン)首腦による「ヤルタ會談」がなされる。ここでは、ドイツの敗戰後における分割占領統治とポーランドとの國境策定、バルト三國の處遇などの東歐諸國の戰後處理方針と、英、米、佛、ソ、中の五カ國(後の國際連合常任理事國)の拒否權制度を認めるなどの將來における國際組織結成の構想を合意し、「國際連合」の基本的枠組みを決定して發表された。

そして、このやうな發表以外に、米ソ間において、極東における領土分割と占領統治に關する祕密協定が交はされた。それが『ヤルタ密約』である。それは、ソ連がドイツ敗戰後の二、三か月後に日ソ中立條約を破棄して對日參戰をなせば、①ソ連に千島列島を引渡し南樺太を返還すること、②滿洲の港灣と鐵道におけるソ連の權益を確保すること、③カイロ會談で議題となつた臺灣の中華民國(蒋介石)への返還を再度確認すること、④韓半島を當面の間は連合國の信託統治とすることなどを合意した。しかし、これは密約であり、ポツダム宣言受諾と降伏文書調印による占領喪失條約(講和條約)の内容とはなつてゐない。このヤルタ密約は、丁度一年後の昭和二十一年二月十一日に發表された。

二月十九日、硫黄島守備隊全滅。

三月九日、B29が東京を夜間大空襲。死傷者十二萬人、二十三萬戸燒失。

三月十四日、大阪大空襲。十三萬戸燒失。

四月一日、米軍、沖繩本島に上陸。

四月五日、小磯國昭内閣總辭職。ソ連外相モロトフが日ソ中立條約不延長を通告。

四月七日、鈴木貫太郎内閣成立。戰艦大和沈没。

四月十二日、ルーズベルト大統領急死。副大統領トルーマンが大統領に就任。

四月二十日、アメリカは、「日本における民間檢閲基本計畫」(Basic Plan for Civil Censorship in Japan)を策定。

四月二十五日、サンフランシスコで連合國全體會議開催。國際連合憲章作成。

五月二日、ベルリン陷落(守備隊がソ連軍に降伏)。

五月七日、ドイツ無條件降伏(フランスのシャンパーニュ地方のランスでドイツ側代表ヨードル將軍が、連合軍に對する無條件降伏文書に署名し、翌八日、ベルリン郊外のカルルスホルストにてカイテル元帥も署名)。

五月八日、OWI(米戰時情報局)の日本向け短波ラジオ放送が開始される(米海軍諜報局に在職したエリス・ザカライアス海軍大佐が擔當したことから、通稱「ザカライアス放送」といふ。)。

六月八日、天皇御臨席の最高戰爭指導會議(御前會議)において、聖戰完遂、國體護持、皇土保護の國策決定を行ふ。

六月十三日、國民義勇隊結成のため大政翼贊會及び傘下諸團體が解散。

六月二十三日、義勇兵役法公布。

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