國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第二巻】第二章 大東亞戰爭と占領統治 > 第五節:占領統治の經緯とその解説

著書紹介

前頁へ

昭和二十五年一月

一日(元旦)、マッカーサーは、年頭の辭で「日本國憲法は自衞權を否定しない」との聲明を出す。

 三日、NHKのバラエティー番組『愉快な仲間』放送開始。

 五日、トルーマン米大統領は、支那・臺灣問題に軍事介入せず、經濟援助にとどめるとの聲明を出す。

 六日、英國は、中共を承認し、臺灣と斷交。

 同日、スターリンの率ゐるコミンフォルム機關紙『恆久平和と人民民主主義のために』が「日本の情勢について」と題する論評を掲載し、野坂參三の「平和革命論」を批判する。これが日本共産黨の、いはゆる「五十年問題」の始まりである。その要旨は、「野坂の『理論』が、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものであることは明らかである。本質上野坂の『理論』は、反民主的な反社會主義的な理論である。それは、日本の帝國主義的占領者と日本の獨立の敵にとつてのみ有利である。したがつて、野坂の『理論』は、また同時に、反愛國的な理論であり、反日本的な理論である。」といふものであつたが、このことが正式に明らかにされる前に、國内の商業新聞によつて、「日本共産黨指導者野坂氏はブルジョア的態度をとつており、帝國主義者の召使である。野坂氏日本共産黨中央委員會の報告で、日本が占領下にある間に人民民主主義政權を樹立することが可能であると述べているが、野坂氏の理論は日本人民を誤らせるものである。」(同月八日付朝日新聞)といふ内容が報じられた。

 十一日、日本共産黨中央委員會は政治局會議を開催し、コミンフォルムの論評に反對する所感派(德田、伊藤律ら)と論評を無條件に受け入れて盲從する國際派(志賀義雄、宮本顯治)との激突の末、所感派が制して、伊藤律の手によつて「『日本の情勢について』に關する所感」を作成。同黨の統制委員會において、前日の記者會見で野坂理論を批判したコミンフォルムの論評を支持することを表明した中西功を黨攪亂者として除名する決定を行つた。

 十二日、日本共産黨は、内外記者團三十餘名を前に伊藤律がこの「所感」を發表する。その内容は、「論者が指摘した同志野坂の諸論文は、不十分であり、克服されなければならない諸缺點を有することは明らかである。それらの諸點については、すでに實踐において同志野坂等と共に克服されている。そして、現在はその害を十分とりのぞき、わが黨は正しい發展をとげていると信ずる。」といふものであり、論評の是認と辯解に止まつた。

 十七日、中國共産黨は『人民日報』の社説で「日本人民解放の道」を掲載し、「(『論評』に同意しないと『所感』で表明したことが)本當であるとすれば、日本共産黨政治局の見解ならびに態度が正しくないことは極めて明らかである。」として、所感を批判して論評の受け入れを強く迫つた。

 十八日、日本共産黨第十八回擴大中央委員會が開催。激しく紛糾したが、結果において、コミンフォルムの論評による野坂批判を全面的に受け入れて所感の撤回する「コミンフォルム機關紙の論評に關する決議」を滿場一致で採擇。

 十九日、野坂參三は、右翼日和見主義だつたと自己批判し、「今後こうした誤謬を犯さないように、そして國際プロレタリアートの期待に報いることに努力する。」と全面降伏した。これら「五十年問題」と呼ばれる一連の騷動は、コミンテルン日本支部として發足した日本共産黨が自立しようとする試みであつたが、その萌芽はコミンテルンの後身であるコミンフォルムによつて完全に否定されたことを示してゐる。そして、これによつて日本共産黨は、コミンフォルムの武裝革命方針に基づき、その後は軍事闘爭を開始し、火炎ビン、拳銃、日本刀、ダイナマイトなどを使用した武裝蜂起の事件を數年に亘つて繰り返すに至る。

 二十一日、財閥商號使用禁止令、財閥標章使用禁止令公布。

 三十一日、トルーマン米大統領が、水爆製造を正式に命令。

続きを読む