昭和二十七年四月
一日、GHQは、神宮外苑の各競技場、メモリアルホール(舊國技館)、帝國ホテルなどの接收を解除。
同日、GHQは砂糖の統制撤廢。
同日、琉球中央政府が發足する。初代任命主席に比嘉秀平。
二日、日華平和條約會談を再開(調印は二十八日)。
七日、國警が、ピストルを躊躇せず使用するやう指示。
九日、総理府の内閣總理大臣官房に内閣調査室開設。
十日、NHKラジオが、連續ドラマ「君の名は」の放送を開始。
十一日、ポツダム政令廢止の法律を公布。
十五日、警視庁の機構改革。
十六日、米の戰後初代駐日大使にR・マーフィー任命。
十七日、公安調査廳設置法案(政府案)を衆議院に提出。
二十一日、公職追放令廢止。岸信介ら追放解除にならなかつた五千七百人も自動的に解除(解除實施は二十八日)。
二十三日、米國は、ネバダ砂漠で大規模な原爆實驗演習。
二十五日、マッカーサーライン撤廢。遠洋漁業が本格化。
二十六日、海上保安廳に海上警備隊を設置。定員六千三十八人。
同日、GHQは、八幡製鐵など舊軍需工場八百五十箇所を返還。
同日、我が政府は、最後の追放解除二十九人を發表。
二十八日、午後十時三十分、『日本國との平和條約』(桑港條約)及び『日米安全保障條約』(舊安保條約)が發效。
これにより、GHQ、對日理事會、極東委員會が廢止され、極東委員會による我が臣民の自由意思の「再檢討」が實施されないまま本土だけで獨立するに至つた。
このときの大御歌は、「風さゆるみ冬は過ぎてまちまちし八重櫻咲く春となりけり」、「國の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに」、「いにしへの文まなびつつ新しきのりをしりてぞ國はやすからむ」である。
同日、『ポツダム宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件の廢止に關する法律』(昭和二十七年法律第八十一號)が施行され、昭和二十年九月二十日に公布(即日施行)された『「ポツダム」宣言の受諾に伴ひ發する命令に關する件』(昭和二十年敕令第五百四十二號)が廢止され、連合國占領軍の郵便物・電報・電話の檢閲に關する件など占領統治のために制定された法令は、時際法的に處理されて消滅する。
同日、桑港條約發效の七時間三十分前に、臺北で、國民政府の支配下にある臺灣を適用範圍とする『日本國と中華民國との間の平和條約』(以下「日華平和條約」といふ。)に調印する(同年八月五日發效)。
これは、桑港條約を基本に据ゑたもので、日本國と中華民國との「戰爭状態」は日華平和條約が效力を生ずる日に終了するとし(第一條)、臺灣における日本の領土權を放棄した(第二條)。そして、人的範圍に關して、中華民國の國民の範圍を原則として臺灣及び澎湖諸島に限定するものの、「今後施行する法令」によつて國籍を取得する者を含むとの表現を以て、將來において支那本土を奪還する場合にも對應できる含みをもたせてゐた(第十條)。
二十九日、沖繩のアメリカ民政府は、政治的意圖を持たない條件で日章旗の掲揚を認める。