國體護持總論
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革命有效説(つづき)

第二に、「委讓」といふことが法的な意味を有するのであれば、「委讓」が正當化される合法的(合憲的)な根據が要求されることになるが、この見解は、その要求に答へられないといふ點である。つまり、合憲的に委讓されることの法的説明が全くできない點において、この「革命」の概念は、やはり法的な意味ではなく、單に政治的な意味に留まることとなつて矛盾を來すことになるのである。

そもそも、革命の意味の守備範圍としては、自國民の「自律的變革」を意味するものであつて、GHQの軍事占領下でなされた「他律的變革」を意味するものではない。非獨立状態で革命はありえない。「他律的變革」を革命と叫ぶのは、日本共産黨が、GHQを「解放軍」と評價したのと同樣に、主權概念の二義性による混同がここにも見られるのである。

そもそも、宮澤俊義の八月革命説は、後述するとほり、日本共産黨の野坂參三が唱へた「占領下平和革命論」と通底するものである。これは、「二段階革命論」であり、第一段階は「民主主義革命」であり、それを踏まへて第二段階である「社會主義革命」に至るとするものであつた。そして、占領憲法施行前の昭和二十二年元旦における吉田茂首相の「不逞の輩」發言に端を發した全國的な倒閣運動が、いはゆる「二・一ゼネスト」へ向けて進展する中で、これは第一段階である民主主義革命と位置づけられた。ところが、この「國民主權」による民主主義革命がマッカーサーの中止命令によつて崩壞したのである。全官公廳勞組擴大共闘委員會伊井彌四郎議長は、GHQに出頭を命ぜられ、全組合員に對し、NHKラジオを通じてゼネスト中止を表明するやうに強制され、NHKラジオで中止の呼びかけを行つた。そして、その最後に、「命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。一歩後退二歩前進。」と涙ながらに語つた。この「一歩後退二歩前進」といふのは、レーニンの著作である「一歩前進二歩後退」を捩つた言葉である。伊井彌四郎は、國民主權による革命が幻想であつたことを痛感した。この二・一ゼネストが直接命令によつて崩壞したことは、まさに「國民主權の不存在」を突きつけたことになる。

ちなみに、宮澤俊義の師匠である美濃部達吉は、前に述べたとほり、帝國憲法の上諭に「朕カ子孫及ヒ臣民ハ敢ヘテ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」とある點について、これを「天皇の側からのクーデターの禁止宣言なり」と主張してゐたのである。この「革命」なるものが體制内變革としてのクーデターに該當することになるので、天皇大權を行使しうる天皇の側からのクーデターですら禁止されてゐるのであれば、GHQといふ外國勢力はいふに及ばず臣民の側からのクーデターも禁止され、クーデターによる憲法的變革は當然に無效である。

さらに、この革命有效説には、他の論者もあり、たとへば、「今次の憲法改正の經過が、明治憲法制定の場合と比較すれば、著しく公開的であったことは固よりである」(佐藤功)などとして、帝國議會の審議が公開的であつたことから、その審議過程を經たことによつて革命的に有效となつたとする趣旨の見解もある。しかし、審議が公開的であることが理由として加はつたとしても、これまでの述べた革命有效説に對する批判に答へたことにはならない。このやうな論法が不自然で欺瞞に滿ちてゐることは明らかである。まるで、これは、誰も知らないところで人を刺し殺したら犯罪だが、にこにこ顏で大つぴらに徐々に毒を與へて解らないやうに殺したり、公衆の面前で堂々と殺した場合には犯罪ではないと云つてゐるやうなものである。いつどのやうな方法で殺したとしても、殺人は殺人である。

ところで、この革命有效説の變形として、占領憲法が制定されることを解除條件として主權が國民に移つたとする見解(ただし、これは正確には、解除條件ではなく停止條件と表現すべきであろう。)、占領から解放されることを停止條件として占領憲法が制定されたとする見解などがある。しかし、これらの條件付國家行爲をなした時點は占領期間中であつて、誰が誰に對して、どのやうな權限に基づいてこの條件付國家行爲を行つた(合意した)のかについての説明がなく、しかも、これらの條件が成就するまでの憲法状態がどのやうなものであるのかといふ點についても解明されてをらず、全く説得力のない虚構の産物である。このこととの關連で附言すると、八月革命説も同じ問題を抱へてゐる。つまり、「憲法の空白」を生むといふ矛盾がある。昭和二十年八月十四日にポツダム宣言を受諾したことで革命が起こり、瞬時に帝國憲法が破棄されてから、昭和二十二年月五日三日に占領憲法が施行されるまでの間は、憲法がないといふことになつてしまふので、この八月革命説も、解除條件とか停止條件といふやうな、ちんけな議論を組み立てなければならなくなるのである。

ともあれ、革命有效説は、基本的には改正限界説に立つがゆゑに、占領憲法は帝國憲法の「改正」としては「無效」であることを前提に、これは改正ではなく「革命」であるとして「有效」になるとするのであるから、この「革命」が否定されれば、占領憲法は「無效」として確定することになる。そして、この「革命」は、現在においては完全に否定されたため、破綻した革命有效説は、占領憲法が無效であることを證明する學説となつたのである。

さらに、帝國憲法が「天皇主權」ではなかつたことは前述したとほりであり、そのことは、天皇主權説といふ和製ホッブズの學説が存在したとしても、帝國憲法には全くそれを根據付けるものはなかつたのである。さうであれば、改正限界説から、いきなり改正無限界説に屬する主權論へと百八十度の解釋變更はできない。學説の變更においては、その節度が守られなければ學問ではない。しかも、「革命」ならば、「これは革命である」といふ「革命宣言」がなければならないが、これもない。みんなが知らない「濳りの革命」、「騙し討ちの革命」、「火事場泥棒的革命」であり、このやうなものが革命と呼べるはずがないのである。


ところで、純粹法學を主唱したケルゼンは、實定法の純粹かつ客觀的な認識を指向し、法學を政治的な認識や倫理的な考察、それに社會學的な認識からも峻別して規範體系を科學的に認識することを主張した。そのケルゼンに心醉した宮澤俊義は、ケルゼン主義者として學問的地位を得たが、その宮澤俊義は、支那事變が起こつた年の翌年である昭和十三年に『法および法學と政治』といふ論文を發表した。それにはかう書かれてゐたのである。


「法はその根本的性格において政治的なものである。だから、法を政治から全く分離させることは正當でない。すべて社會的なものは生きたるものでなくてはならぬ。生きた現實から抽象された單なる形式は眞に社會的なものではない。政治という生きた現實のうちに根ざしていない法は、だから、眞の法、すなわち、生きた法ではない。法が政治と全く異なるものであるとする自由主義理論は清算せられなくてはならぬ。法學は法と區別せられなくてはならぬ。法が政治的性格をもつということは必ずしも當然に法學が政治的性格をもつべきであることを意味しない。法學と通常呼ばれるもののうちで法の解釋論と法の科學を區別する必要がある。兩者は全くその本質を異にする。法の解釋論は直接に實踐に仕えるもので、その意味でその方法は必然的に政治的なものでなくてはならぬ。ここで政治を排斥することは結局概念法學に堕することを意味する。法の科學は、これに反して、直接には理論に仕えるものであるから、その方法は必然的に科學的・理論的なものでなくてはならぬ。それが政治から獨立であるべきことは、したがって、當然である。」と。


これは、ケルゼン主義の放棄である。イェーリングがケルゼン主義を批判する用語として用ゐた「概念法學」の言葉まで便乘使用してまで、弊履の如くケルゼンを捨てた。どうしてかは本人に聞かなければ解らないとしても、これだけば云へる。

この論文が發表された時代背景としては、昭和十年の天皇機關説論爭で師匠の美濃部達吉が批判されて失脚した事件がある。そして、翌昭和十一年二月二十一日午前九時に美濃部達吉宅に小田十壮が美濃部の教へ子の辯護士であると僞名(小田俊雄)を名乘つて訪問し、その面談中に斬奸状を示して美濃部の面前で讀み上げ、逃げる美濃部の背後から拳銃を發砲して重傷を負はせた。さらに、五日後には天皇機關説を批判し續けてきた皇道派將校による二・二六事件が起こり、翌年には支那事變が起こる。二・二六事件において渡邊錠太郎教育總監が誅殺されたのは、渡邊教育總監が、軍人敕諭にある「朕を頭首と仰ぎ」とあることを根據として、かねてより天皇機關説を強く支持してゐたことに起因したとされる。かういつた状況では、純粹法學を維持して政治介入を批判し、軍部の行動を帝國憲法違反であると批判したり、自由主義を唱へ續けることに、身の危險を感じたであらう。

宮澤俊義の變節は、一回だけではなかつたのである。

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