國體護持總論
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著書紹介

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正當性説の登場

このやうに有效論である改正無限界説と革命有效説と條約優位説などは、その論理を破綻させて今日に至つてゐる。改正無限界説は死滅したが、革命有效説については、改正限界説と改正無限界説との對立、憲法と革命との相克から逃げ出して、その後、その土壤から新たな有效論(らしきもの)を出現させた。革命有效説の逃げ場所、それが正當性説である。

それは、憲法の名に値するものは、その出自や來歴、歴史や傳統によつて決定するものではなく、その内容と價値體系(國民主權主義、人權尊重主義、戰爭放棄平和主義など)の優越性を意味する「正當性」によつて決定するといふ見解である。革命有效説では、占領憲法は帝國憲法から判斷すれば無效であつても、革命によつて帝國憲法は無效となり、これとは全く別個に新たに成立した占領憲法が有效であるとした。ところが、これには、革命の定義と根據などについて明確な説明ができないといふ致命的な缺陷があつた。そこで、革命に拘ることなく、占領憲法の有效性の根據を直接的に求めようとするのが正當性説である。

しかし、正當性説は、效力要件の要素である妥當性とは異なる「正當性」といふ概念を定立し、效力論に直接には言及しない。つまり、正當性即妥當性ではなく、正當性説即有效論ではないことを自覺するからであるが、占領憲法の效力論とは別個に(むしろこれを度外視にして)占領憲法の正當化に成功すれば、これによつてあたかも占領憲法が有效であるが如き印象を與へることができるとするのである。それゆゑ、これは法律學といふよりも法社會學の範疇における革命有效説の變形であり、有效論らしきものなのである。

確かに、カール・シュミットがいふやうに、憲法についても、「合法性」と「正統性(legitimacy)」の二つ觀點を檢討する必要があり、いままで述べてきたのは、主として占領憲法の合法性に關する有效論と無效論の議論であつた。他方、正統性の概念は、論者によりまちまちであるが、それが政治學、歴史學、文化論など廣範な領域を守備範圍とするために多岐に分かれてゐるものの、少なくとも、その憲法が國家の歴史、傳統、文化などに合致し連續性を有しているか否かといふ要素を含むものであることには疑ひはなく、占領憲法が正統性を滿たさないことは多言を要しない。なほ、ここでは、「正統性」と「正當性」とを音讀で區別するために、前者を北畠親房の『神皇正統記』に倣つて「シャウトウセイ」と音讀し、後者を「セイタウセイ」と音讀して區別したい(相原良一)。

ともあれ、正當性説は、憲法の名に値するものは、その出自や來歴、歴史や傳統によつて決定するものではなく、その内容と價値體系の優越性を意味する「正當性」によつて決するとするのであるから、「正統性」とは別に「正當性」があるとし、「現時点における日本国憲法の正当性と、その出生の正統性とは全く別の問題である」(長谷部恭男『憲法学のフロンティア』)とする見解である。否、むしろ、「正統性」がないことを前提として、それに代はる「正當性」があれば充分であるとする。正統性がないことと正當性があることとは矛盾せず、正當性は結果であつて過程を問はないとするのである。

しかし、これは言葉の遊びにひとしい。つまり、この正當性説は、著しく欺瞞的で、あるいは暴力的で凄慘を極めるやうな憲法制定過程であつても、結果においてその内容が「正當」と判斷できるものであれば有效であるとする「目的のためには手段を選ばない暴力禮贊思想」なのである。これは、ナチスが依據した思想であり、フランス革命におけるジャコバン主義である。正當と判斷する主體は、詐術と暴力を用ゐた者であるから、それは自畫自贊となり、「暴力=正當」とすることになる。しかも、自己の暴力(革命)だけでなく、他者の暴力(征服)もまた「正當」とするのである。

目的が正當であれば、その目的のためには手段を選ばないことを正當として、その實現のための自他の暴力を無條件で肯定すること自體に問題がある上に、その暴力によつて生まれた結果もまた正當であるとする點にも大きな問題がある。暴力から生まれた結果が内容としても「正當」であるといふのは、暴力が正當であることから当然に導かれるのか、それとも、その内容を別個に判斷して導かれるのか、といふことが定かではない。前者であれば、内容の如何を評價するまでもなく「暴力=正當」の公式によつて導かれる。しかし、正當性説は、さうではなく、後者の立場のやうである。單純な暴力禮贊思想であるといふ批判を避けるために、「目的の正當性」の外に、「内容の正當性」といふ要件を持ち出すのである。

しかし、「正當性」といふ概念は、本來は「正統性」の内容を檢討するところから出發した議論であつたはずなのに、正當性説は、歴史、傳統、文化など、正統性の中核に位置する傳統性を全く排除し、單に内容だとか價値體系などの優劣を議論することにすり替へてゐるだけである。

そもそもこのやうな内容と價値の優劣に關する判斷は千差萬別であつてなんら普遍性はない。これまでの悠久の歴史と、これからも續く未來といふ長い時間の中で、「現在」といふほんの一瞬の時點における特定の價値判斷(正當性説の價値判斷)に時代を超えた未來永劫の「普遍性」があるとするならば、そのことを先づ證明しなければならない。

ところが、もし、正當性説が正當であると判斷した價値が普遍的なものであるといふためには、結局のところ、それが將來に向かつて時間的に永續することが確實であるとの確信を前提とすることになるが、それならば、過去からの永續性を根據とする歴史、傳統、文化などに依據した正統性(正當性)の主張を排斥することはできないはずである。

そして、なによりも、内容や價値體系の優劣によつて正當性を決定するといふこと自體に致命的な陷穽がある。この正當性説は、古典的な神學的自然法説に屬する見解である。正當性こそが絶對的正義であるとして「正當で普遍な自然法」といふ信仰的な假説を設定しただけである。それゆゑ、正當性説は、これまでの自然法説と同樣に、その絶對的正義が何ゆゑに絶對的價値を有するのかについて、絶對的價値を有するはずの正當性といふ名の自然法そのものによつて證明できないといふ致命的な矛盾がある。そのために正當性説は、社會科學ではなく神學の領域の見解なのである。

それは、北朝鮮によるいはゆる拉致事件といふ國家犯罪などを題材として具體的に考察することで解るはずである。

たとへば、假に、我が國において極貧の生活をし、仕事もなく社會的には全く活動の場が與へられなかつた人が拉致の被害者となつたとする。しかし、拉致された後には工作員指導教育などの任務が與へられて極めて富裕な生活待遇を受け、本人も拉致によつて我が國で生活することの自由が損なはれたことの不滿はあつたが、極貧生活からの解放とそれなりの仕事と社會的地位を與へられたことを事後になつて好意的に受け入れたとする。そして、いつしか、拉致されたことへの不滿や不安も薄らぎ、北朝鮮で一生暮らすことを決意したとしよう。この場合、正當性説と同じ論理によれば、それまでの經過はどうであれ拉致の前後における生活の内容と水準を比較すれば、拉致後の生活の内容の方が決定的に勝つてゐるので、我が國としても、これを北朝鮮の犯罪だと批判せずに、逆に、北朝鮮に感謝して被害者が拉致されたことを大いに祝福すべきであつて、「拉致」には「正當性」が認められるといふことになる。また、もつと單純な例を擧げるとすれば、親から虐待されてきた貧しい家庭の子供を誘拐し、この子供に愛情をそそいで裕福に育てた誘拐犯についても同じことが云へる。この陷穽はどこにあるかといふと、それは、犯罪の成否と斟酌すべき情状とを混同したことにある。正當性説は、斟酌すべき情状があれば犯罪は成立しないといふ、本末轉倒の見解なのであり、まさに「無理が通れば道理が引つ込む」といふ理論なのである。

やはり、このことからしても、前に述べた「原状回復論」の正しさが再認識されるとともに、正當性説の論理破綻が明らかとなるのであるが、正當性説からは、このやうな批判に對する反論を一切行はうとはしない。正當性説は、いまや革命有效説に代はり、有效論(側)の主流となつてゐる感がある。正當性説の企ては、占領憲法の效力論爭を眞摯に行へば無效論の勝利となるのは必至であるから、效力論爭を沈靜させて決着をつけさせないやうにすることにある。そのために、效力論爭に全く參加せずにこれを黙殺することによつて無效論を封じ込め、あたかも占領憲法が有效であるかのやうな風潮を生み出すことに懸命である。そして、正當性説に立たない全ての憲法學者もこれに同調する。それはなぜか。それは、占領憲法の效力論爭をすることは、占領憲法のコバンザメとしてその解釋で生計を立ててゐる憲法學者全體の利益に反するからである。これはまさに憲法學の自殺行爲であつて、今や憲法學は、自己保身の處世術を驅使する法匪の道具となり果てたのである。

占領憲法の效力論爭といふのは、純粹な法學論爭であつて、「占領憲法が好きだから」とか「占領憲法が嫌いだから」といふやうな感情論や趣味の問題であつてはならない。「占領憲法は好きだけれども、占領憲法は無效なのでこれを否定する。」といふ、泣いて馬謖を斬るが如き態度こそが法學者たるものの矜恃でなければならない。その意味では、我が國に眞の憲法學者は皆無にひとしい。

有效論が復活しうる唯一の論理的な選擇肢としては、革命有效説が絶滅したと思はれた改正無限界説を抱き込んで、改正無限界による「合法的革命」として有效であると主張することである。これは荒々しい主權論同士の結合であり、新たなジャコバンの群れとなる。しかし、これも後出しのジャンケンであり、法匪のなす變節の極みとならう。

憲法は、法匪の專賣物ではない。これまで帝國憲法が「憲法」であるとし、そのことを前提として、その改正の限界があるか否かを議論してきたのに、改正無限界説では説明が付かないことを知ると、今度は、法概念論(法の認識)と法價値論(法の評價)を扱ふ魑魅魍魎、百家爭鳴の「法哲學」の領域に逃げ込み、ついには帝國憲法は「憲法」ではないとして、革命説や正當性説などを編み出してくる。これこそ法匪の法匪たる所以である。

法匪は、これ以外にも樣々な詭辯を用ゐる。たとへば、占領憲法には、「憲法の自律性」があつたとする論法である。それは、「日本國憲法の制定は、不十分ながらも自律性の原則に反しない」(芦部信喜)といふ正當性説の主張である。それは、どんな論法かと云ふと、まづ、憲法制定權力を持ち出し、凡そ次のやうに云ふのである。

「憲法制定權力は法秩序を創造する權力であり、純粹な法的な權力ではない。社會的、政治的な事実の力(實力)である。占領憲法の國民主權とは、この權力の究極の行使者として國民を射程することをいふ。國家權力の正當性の根拠としての一體的國民は、法外(占領憲法外)の概念であり、それを占領憲法内に内包することはできない。内包しうるのは、國民主權による憲法改正權である。法外の國民が法内の國民を支配するといふことである。そして、占領憲法は、この憲法制定權力によつて、不十分ながらも自律性を以て制定されたものであるから、憲法の自律性を有してをり、正當性がある。」と。

しかし、憲法の自律性の原則といふのは、法原則ではなく、政治的要請に過ぎないのであつて、これを以て占領憲法の有效性を議論できないのである。政治的要請を不十分ながらも滿たすので、正當性があると主張しても、それは政治的意見であつて法的根拠とはならない。憲法外にある剥き出しの憲法制定權力を持ち出したとしても、この憲法制定權力については、第一章で述べたとほり、これは同じく法外の「革命」と不可分一體のものであるから、占領憲法が「革命」によつて生まれたことを例証せねばならなくなる。さうすると、やはり、前述した革命有效説の矛盾を抱へることになる。

また、憲法制定權力(革命現象)を社會的、政治的に捉へるとすると、それは紛れもなく連合國による「革命」ある。しかし、その契機とされるポツダム宣言は、連合國に我が國の憲法制定權を与へてはゐなかつた。そこで、連合國が我が國政府を傀儡として占領憲法を制定させたといふことになり、これを以て「革命」を説明するのは、社會的、政治的にも不可能である。やはり、これは「革命」ではなく、第二章で述べた「征服」(デベラチオ)であつて、我が國側には、「革命」も「憲法制定權力」も存在してゐなかつたことになる。

そして、なによりも問題なのは、この憲法制定權力や革命が認められるためには、その權力(實力)に正當性が必要であるとする點である。つまり、正義の革命でなければならないのである。これが滿たされなければ、正當性説は崩壞するからである。ところが、占領憲法の制定過程における社會的、政治的状況は、連合國軍といふ外患を利用して、憲法改正に反対する意見や政府案を排除し、あるいは一般國民に占領憲法制定に關する詳細な事情を全く知らせず占領憲法を制定したといふものである。

このやうな社會的、政治的状況には、本質的に自律性はなく、自律性の存在を十分條件とする正當性をも滿たさないことになることは明らかである。もし、このやうな社會的、政治的状況に正當性があるといふのであれば、後世の國民がこれと同じ手法によつて憲法を制定することを認めなければならない。正當性とは、一回性のものではなく、普遍性がなければならない。ところが、このやうな行爲を現在行はうとすると、内亂罪(刑法第七十七條)、外患誘致罪(同第八十一條)、外患援助罪(同第八十二條)に該當するとして處斷される。この刑法規定は、形式的には下位法規ではあるが、實質的な憲法規範であり、このやうな行爲には正當性がないとする占領憲法秩序が形成されてゐる。「昔は良かつたけれど、今はダメ」といふのでは、普遍的な正當性ではない。占領憲法秩序は、占領憲法制定の手續に正當性がないことを自ら認めてゐるのである。次項で述べるとほり、手續的正義は、實質的正義に勝るとも劣らない重要なものであるから、假に、占領憲法の定める他の原理原則が實質的正義を備へた正當性を持つものであつても、占領憲法には手續的正義を備へた正當性がない。このことから、正當性説は破綻してゐることが證明されたのである。

このやうに、占領憲法の效力論爭に怠惰であつた法匪には、憲法學全般においては專門性を持ち合はせてゐたとしても、占領憲法が無效であるとする論據に反論するだけの知識を持ち合はせてゐない。素朴で健全な批判的精神があれば、憲法學の初學者といへども必ず法匪と論爭して、その邪論を打ち破ることができるのである。

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