國體護持總論
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分斷國家の占領憲法

このやうな經緯は、前にも述べたとほり、占領憲法が無效である根據を基礎付けるものであるが、沖繩縣がこの一連の占領憲法の制定において完全に排除されて行つた經過事實について何ら觸れられてはゐない。  沖繩縣は、特別の御高配を賜はるどころか、その後、本土とは分斷され、占領憲法の制定手續においても完全に排除されたのである。

すなはち、翌昭和二十一年一月二十九日、GHQは『若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに關する覺書』を發し、同年三月に憲法改正を審議する議員を選ぶための總選擧から沖繩縣などを排除することを指令し、同年二月にはこれに基づき内務當局をして、來る總選擧は沖繩縣などの地域に及ばないと言明なさしめた。かくして、我が國は、本土と沖繩縣とに分斷され、本土にのみ適用される占領憲法の制定をGHQから強要され、本土政府は分斷國家への道を歩み出したのである。

しかし、このことは、假に、主權論に基づいて考察すれば、占領憲法は我が國本土にだけに適用される分斷國家の憲法といふことになる。占領憲法には、領土に關する規定がないことから、その範圍は不明確ではあるが、制定時の状況からして、沖繩縣が除外されてゐないとする根據も存在しないので、この本土限定の占領憲法が、いつ、どのやうな根據により、どのやうにして本土返還後の沖繩縣にも適用されるに至つたのかといふ疑問が生じてくるのである。

このことについて、沖繩社會大衆黨の安里積千代委員長は、昭和三十七年十月の沖繩社會大衆黨臨時大會において次のやうな挨拶を行つて問題提起を行つてゐた。


「・・・日本は占領から解放されて獨立を回復しました。・・・その獨立の陰に沖繩縣を分離して米國に施政を委ねるという民族の悲劇がかくされております。平和條約は憲法第六十一條によって國會の承認を受けています。然しその國會には當時(今もそうでありますが)沖繩は參加しておりません。憲法第九十五條には一つの地方公共團體のみに適用される特別法はその地方公共團體の住民の投票において過半數の同意を得なければ國會はこれを制定することはできないと規定しております。勿論條約の承認ということは多少意味は違いますけれども日本の法律の下から沖繩を除くということは沖繩のみに適用される特別法を制定する以上に住民にとっては重大なことであります。このような拘束力をもつ條約の承認に當って國會は沖繩縣民に諮らず、その意志に反し、沖繩代表も參加しない國會において議決されたということは當時の事情は諒とするに致しましてもその非は爭えないのでありまして政治的責任を感ずべきであります。加うるに重要な國會法から沖繩縣を除いております。民主國家の國民としてもつ參政權を規定する國會法や公職選擧法から沖繩の定員を除き選擧法の別表から沖繩縣を削除しているのがその好例であります。」


この安里委員長の挨拶は、前々年の昭和三十五年に沖繩縣祖國復歸協議會が結成され、前年の昭和三十六年四月二十八日には二萬人が參加したとされる那覇での祖國復歸縣民總決起大會などの祖國復歸運動の高まりの流れの中でなされたものである。

このころの沖繩は、琉球政府の行政府の長として「行政主席」が置かれてゐたが、實質上の最高權限は米國民政府がすべて掌握し、行政主席の權限はその制限下にあつた。そして、立法機關についても、同じく米國民政府の制限下で設置された琉球政府の「立法院」があつた。

そして、行政主席の任命については、昭和三十二年から昭和三十六年までの間は、立法院の代表者に諮つて米國民政府が任命することとなつてゐたが、昭和三十七年から昭和四十年までの間は、米國民政府の受諾できる者を立法院が指名することとなり、その後、昭和四十三年までは立法院議員による間接選擧制、さらにその後本土復歸までは、住民による直接選擧制へと變遷した。

そのやうな變遷の中で、行政主席を立法院が指名することになつてゐた昭和四十年十一月十四日の第七回立法院議員總選擧の歸趨は重要であつた。この結果は、與黨民主黨が過半數を確保して行政主席を指名することができたのであるが、これには、アメリカの強い選擧干渉があつたことが平成八年になつて判明してゐる。その具體的な内容としては、米國のライシャワー駐日大使(當時)らがこの立法院議員總選擧において與黨民主黨を勝たせるために、本土の自民黨を經由して多額の選擧資金を極祕に據出したことが祕密指定解除の米國務省文書で判明したのである。

それどころか、新安保條約を締結するに至る伏線となつた本土における昭和三十三年の衆議院總選擧において、アメリカCIAから自民黨に對し、祕密資金が注入され、それがこの立法院議員總選擧のころまで繼續的に注入されてきた事實や、本土における民社黨(民主社會黨)にもアメリカCIAの資金が昭和三十五年から昭和三十九年まで據出されたとされてゐる。ましてや、日本共産黨や日本社會黨がソ連(コミンテルン)から革命工作等の祕密資金が提供され續け、日本社會黨に至つては、その幹部がアメリカからも資金の提供を受けてゐたことがあり、本土と沖繩の政黨の殆どには、「獨立」の二文字はない。米ソの冷戰をそのまま國内に持ち込まれて、政黨の獨自性とか獨立國家の體を成してゐなかつたといふことである。

それゆゑ、この安里委員長の問題提起について云へば、本土政府の占領憲法の制定から、桑港條約、さらに、昭和四十七年五月十五日に沖繩返還が實現し沖繩縣が發足するまで、否、その後においても、占領憲法を有效とする國民主權論の側からはこの問題提起に對して今もなほ何らの應答もなされてゐないことに加へて、そもそもこのやうな政治状況から判斷すれば、獨立國とは言ひ難く、從つて、占領憲法の實效性はなかつたと云はざるをえないのである。

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