國體護持總論
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沖繩返還協定

昭和四十六年六月十七日、日米間で『琉球諸島及び大東諸島に關する日本國とアメリカ合衆國との間の協定』(沖繩返還協定)が調印され、昭和四十七年五月十五日、本土への復歸、沖繩縣の復活が實現する。

この沖繩返還協定といふ「條約」の性質は、講和條約と一般條約との中間的な形態のものである。つまり、これは、対米戰爭(大東亞戰爭)の戰爭状態が桑港條約の發效によつて終了して獨立を回復した後の條約であることから一般條約とも云へるが、桑港條約第三條において確定した我が領土の事後的な返還合意といふ意味においては、桑港条約を基本條約とする附随條約(派生條約)といふ關係にあることから、講和條約の性質を有してゐる。それゆゑ、沖繩返還協定を締結する權限を占領憲法から導くことができない理由については前章で述べたとほりである。

これは、昭和二十八年十二月二十四日の『奄美群島に關する日本國とアメリカ合衆國との間の協定』、昭和四十三年四月五日の『南方諸島及びその他の諸島に關する日本國とアメリカ合衆國との間の協定』(米國との小笠原返還協定)と同樣に、桑港條約第三條に基づく米國の施政權などすべての權利及び利益を日本國のために放棄するといふ内容において共通するものである。

ともあれ、この沖繩返還協定は、日米間の條約であつて、日琉間の條約ではない。主權論の立場からすると、前述のとほり、國民主權の本土政府と琉球人民主權の琉球政府との併合(合邦)條約ではないから、沖繩は本土に復歸してゐないことになる。ただし、革命有效説や正當性説からすれば、沖繩に對する殘存主權(濳在主權)を主張することなく、沖繩の住民を除外して本土の住民だけで革命が起こり、その正當性が確立したと構成することもできるから、假に、本土だけに限定すれば占領憲法が有效であると再構成することもできる。つまり、それによると、本土は沖繩と分離して占領憲法を制定し獨立したとすることができるのである。さうすると、「本土復歸」の時點では、本土では占領憲法による國民主權の本土政府が沖繩とは無關係に成立したことになる。そして、沖繩の場合は、本土とは獨自の經過を辿る。それは、帝國憲法下の沖繩縣(大日本帝國)から、GHQ占領下となつて、制限的ではあつても琉球人民による人民主權の琉球政府へと移行したことになる。しかも、革命有效説であれば、第三章で述べたとほり、この現象は、有りもしない「天皇主權」から「國民主權」へと「主權委讓」がなされたと見ることになる。  それでは、いつ、主權者の變更がなされたのか。

昭和二十七年四月二十一日米國民政府布告第十三號により琉球政府設立が布告された同月二十九日に「革命」があつたとするのか(以下「昭和二十七年革命説」と假稱)。または、初の公選による琉球政府主席が選出された昭和四十三年十一月十一日に「革命」が起こつたとするのか(以下「昭和四十三年革命説」と假稱)。あるいは、日米間で沖繩返還協定が調印された昭和四十六年六月十七日に琉球政府は獨立し、本土復歸が實現した昭和四十七年五月十五日に琉球政府は消滅(滅亡)したとして、昭和四十六年六月十七日の主權者は琉球政府の琉球人民、昭和四十七年五月十五日の主權者は本土政府の日本國民へと二段階の「革命」が起こつたとするのか(以下「二段階革命説」と假稱)。

これは、占領憲法の效力論爭における「沖繩版」である。

また、沖繩返還協定では、沖繩縣下の米軍基地が存續することとなつたが、昭和二十七年革命説や昭和四十三年革命説であれば、沖繩返還協定時には沖繩人民が主權者であり、存續の決定主體は琉球政府といふことになり、本土政府ではない。二段階革命説においても、遲くとも本土復歸時には琉球政府は獨立してゐたのであるから、本土政府に對して、米軍基地提供者としての地位の承繼をする合意とその履行が必要となるが、そのやうな事實はない。これらの經過は、國民主權主義からでは全く説明がつかない。

ここに占領憲法の國民主權論が抱へる第五の矛盾がある。

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