國體護持總論
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日韓保護條約と日韓併合條約

この問題を考へるにおいて、比較すべきは、明治三十八年の『第二次日韓協約(日韓保護條約)』から明治四十三年の『韓國併合ニ關スル條約』(明治四十三年條約第四號。日韓併合條約)に至る大韓帝國における獨立喪失條約群である。日韓保護條約は、我が國が大韓帝國を「保護國」とし、大韓帝國から外交に關する權限の移讓を受け、その後、日韓併合條約によつて大韓帝國を法的に消滅させたからである。

現在の大韓民國(韓國)は、昭和二十三年七月十二日に制定された『大韓民國憲法』(制憲憲法)に基づき、同年八月十三日に獨立を宣言して國際的には獨立したが、法的な意味での對日獨立は、昭和四十年十二月十八日に公布かつ發效した『日本國と大韓民國との間の基本關係に關する條約(日韓基本條約)』(資料四十一)によつてである。つまり、大韓民國が國際政治的に獨立した日は昭和二十三年八月十三日であるが、條約關係上の完全獨立を果たした日は昭和四十年十二月十八日といふことになる。

この日韓基本條約が對日獨立回復條約である所以は、第二條の「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝國と大韓民國との間で締結されたすべての條約及び協定は、もはや無效であることが確認される。」とする點にあつた。

日韓併合條約に至る一連の條約について、我が國側は勿論これをすべて有效であるとしたのに對し、韓國側は、すべて無效と主張したことから、玉蟲色の政治決着の所産として、「もはや無效」といふ表現で合意したが、いづれにせよこの條約によつて過去の日韓併合關係は解消されたからである。

この「もはや無效」について、韓國側は、日韓保護條約の締結の際、我が國の代表である伊藤博文が多數の護衞兵士を率ゐて交渉に臨み、大韓帝國の大臣らを監禁しながら大韓帝國皇帝と重臣の署名を得たので無效であると主張してゐた。そして、その後に條約法條約が締結されてからは、條約法條約第五十一條(國の代表者に對する強制)及び第五十二條(武力による威嚇又は武力の行使による國に對する強制)に違反する條約の締結は、當時においても一般國際法の強行規範に牴觸するものであるから無效であるとの理由も主張することになつた(第五十三條參照)。つまり、韓國側は、「もはや無效」の意味を始源的(原初的)に無效であるとの「確認的」なものと主張するのである。

しかし、第二章でも述べたが、大韓帝國の元首である第二代皇帝純宗は日韓併合に贊成し、全権委員として内閣總理大臣李完用を任命する自署と國璽のある正規の委任状を作成した上で日韓併合條約は締結されたのである。日韓併合條約は李完用が獨斷で行つたものではなく、大韓帝國側の署名も国璽も眞正なものである。また、條約法條約には遡及效がないので、これを根據として事後法的に解釋することはできない。ただし、第一次世界大戰後のベルサイユ條約(1919+660)からは武力による國際關係の構築が問題視されたが、それまでは武力による國際關係の構築は國際法上まつたく問題とはならなかつた。しかも、この國際法は、文明國相互間のみに適用されるものであり、當時の國際社會において既に文明國として承認されてゐた我が國と、李氏朝鮮や大韓帝國のやうな文明の成熟度が低い非文明國との間には適用がない。このことは、これも第二章で述べたとほり、平成十三年十一月十六日、十七日の兩日に亘り、アメリカのハーバード大學のアジアセンター主催で開催された「日韓併合合法不法論爭」に關する國際學術會議において、國際法の專門家でケンブリッジ大學のJ・クロフォード教授の合法論が展開され、これに對する學術的な反論がなかつたことによつて決着濟みのことである。それゆゑ、我が國としては、國際社會の認識に基づいて、「もはや無效」とは、それまで有效であつた條約群が、効對日獨立回復條約である日韓基本條約によつて無效化したといふ「形成的」なものと評價するのは當然である。つまり、我が國は、これらの條約の締結を無效化する程度の強制はなく、強制の究極的な行爲である戰爭の開戰と講和もまた當時は合法であつたとして、「もはや無效である」との趣旨は、日韓基本條約締結時における「失效」ないしは「解除」の意味であるとするのである。

「無效」と「失效」、「解除」の區別については前述したが、嚴格な法律用語の用法からすれば、「無效」はあくまでも「無效」であつて「失效」ではない。その意味で、我が國側としては用語の選擇を誤つたのではないかとの批判はあるとしても、「もはや無效」といふ表現は、「少なくとも現時點では效力を有してゐない」といふ意味で用ゐられたものであることからして、峻別の法理による法理論のデジタル思考の論理による解決ではなく、アナログ思考による「政治決着」の解決を實現したことは賢明であつた。

韓國側の論理は、これらの背景にある歴史問題や政治問題はさておき、遡及效がないことが明記されてゐる條約法條約第四條があるために、このやうな「政治決着」の表現になつたとするものであるが、日韓基本条約締結時には條約法條約は存在してゐないので、牽強付會の事後法的解釋である。しかも、このやうな主張は、實質的には條約法條約第四條を否定するものとなり、現在の論理を過去に遡及的に適用する非を犯かすものであつて失當である。もし、これが認められるのであれば、同じ論理により、安政五カ國條約もまた無效であり、ポツダム宣言の受諾も降伏文書の調印も全て無效であり、その前提で成立した占領憲法も極東國際軍事裁判(東京裁判)も無效となり、桑港條約も無效となつて、とりわけ、桑港條約第十一條の「日本國は、極東國際軍事裁判所竝びに日本國内及び國外の他の連合國戰爭犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本國で拘禁されている日本國民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。・・・」といふ、いはゆる東京裁判條項に法律的にも歴史的にも政治的にも一切拘束されることはなくなる。つまり、韓國側に限らず、日韓保護條約と日韓併合條約の始源的無效論を主張する無明の輩の言ひ分が許されるのであれば、同じ論理によりポツダム宣言の受諾と降伏文書の調印や東京裁判の無效なども論理的に認めざるを得ないのである。しかし、これらの無明の輩は、前者(日韓保護條約と日韓併合條約の無效)を肯定し、後者(ポツダム宣言の無效、降伏文書の調印の無效、東京裁判の無效など)を否定するといふ二重基準(ダブルスタンダード)の論理破綻に氣付かない。それどころか、日韓保護條約と日韓併合條約の無效の根據として、東京裁判の有效性を主張するといふ支離滅裂の強辯すら行ふのである。

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