國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第五巻】第五章 復元措置と統治原理 > 第三節:復元と再生

著書紹介

前頁へ

國防義務と英靈について

「占領憲法を守れば靖國は滅ぶ。」この、極めて單純明快な論理を理解しない、否、理解できない御仁が餘りにも多い。小泉純一郎首相の靖國神社參拜に關して、今までなされた國内・國外の樣々な論評を見聞する限り、この問題が、占領憲法を取るか、靖國を取るか、といふ二律背反・二者擇一の相克と矛盾を集約した現象であつたことを論理的に知る人は皆無と云つて過言ではなかつた。

ある人は云ふ。「英靈に感謝の誠を捧げることは國民としての當然の務めではないか」と。

ならば聞く。第一に、英靈とはなんぞや。特に、その法律學的な定義がありうるのか。第二に、國民としての務めとは、憲法上の義務なのか、憲法以外の法律上の義務なのか、それとも法令以外の領域であるところの多くの臣民の私的で個人的な單なる心情にすぎないのか。

ところが、この單純かつ必要不可缺の問ひに對して、誰か、眞つ向から受け止めて答へたことがあつたであらうか。これに答へずして靖國問題を語るなかれと云ひたい。

では、誰も正面から答へなかつたこの問ひについて、私だけでも今から答へようと思ふ。

まづ、英靈とは、殉國者の「みたま」である。皇御軍(すめらみいくさ)に限らず、廣く殉國者の神靈を指す。なにゆゑに人靈(ひとのみたま)ではなく神靈(かみのみたま)なのか。それは、國家の如何なる偉人や英傑であつても、己の生命を國に殉ずることがなければ、その死後において崇高なる人靈として祀られることはあつても、神靈とはならない。これは唯神の道(かむながらのみち)の靈魂觀に基づく。

現に、靖國神社の祭祀は、人靈ではなく神靈を祀る儀式が行はれてゐる。そして、靖國神社に合祀されるといふことは、故人の意志や故人の遺族の意志を超越して、御靈が國家に歸屬するがゆゑに國家護持の英靈となるのである。人靈ならは、故人の意志と故人の遺族の意志に影響されるが、神靈であるがゆゑに、その祭神は遺族に屬さず、たとへ遺族の反對があつても國家に歸屬する。しかし、遺族や縁故者が故人を人靈として祀ることはできるのであり、故人や遺族らの信教の自由とは別の次元のことである。ここに靖國の根本的な意義がある。

これを國法學的に考察すれば、かうである。

帝國憲法第二十條には、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ從ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」とある。これは、廣く國防の義務を規定したものである。『日本書紀』の天武天皇十三年閏四月の條に、詔して曰はく「凡政要者軍事也(おほよそまつりごとのぬみはいくさのことなり)」とある。それゆゑ、この義務の履行を滅私奉公の極致である殉國を以て果たした者には、國家最高の榮譽が與へられ、國家としてはその殉國者を鎭魂、慰靈、顯彰して感謝の誠を捧げることが、同條で規定する臣民の國防義務に對向した國家の義務として憲法上位置づけられるからである。

さうであるがゆゑに、靖國神社に國家元首たる天皇陛下の御親拜と臣民を代表した内閣總理大臣その他の要職者の公的參拜がなされるのであつて、公的かつ正式な參拜は、國家の憲法的義務の履行として、内閣總理大臣らの私的な信教の自由からも超越してなされなければならないのである。内閣總理大臣らが佛教徒であつても、クリスチャンであつても、その他の信仰者であつても、靖國神社への參拜は義務づけられ、靖國神社の正式な參拜形式による公的參拜がなされてきたのである。

これは、英靈が人靈でなく神靈であり、かつ、國家の公的な存在であるがゆゑに、故人や遺族の信仰とは無關係であることと鏡の如く對應するものであつて、國家機關による正式かつ公的な參拜は殉國に報ゆる國家の返禮的な參拜義務の履行として認識されるからである。

ところが、これらのことは、あくまでも帝國憲法下において矛盾なく成り立ちう論理であるが、もし、占領憲法が憲法として有效であるとすれば、占領憲法下では、以上の論理は全く成り立ち得ないことになる。

それは、まづ、占領憲法には、國防の義務が規定されてゐないからである。それどころか、第九條は、戰力不保持(武裝解除條項)と交戰權不所持(自衞權放棄、無條件降伏條項)すら規定してゐるためである。この規定の解釋について、自衞權は放棄してゐないとか、自衞のための戰力は保持してもよいとかいふ者が憲法學者と稱する者の中に、あるいは政治家の中に多くゐるが、それは國語の基本的な讀解力すら持つてゐない者らの「與太ばなし」に過ぎない。假に自衞權があつても、自衞權の行使、すなはち交戰權は認められてゐないからである。では、どうして交戰權まで否定する自繩自縛の占領憲法になつたかと云ふと、それは、その前文にも、「政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が起ることのないやうにすること」と、「平和を愛する諸國民の公正と信義に信賴して、われらの安全と生存を保持」することの二つの決意(誓約)をしてゐることからして、我が國の過去の行爲を全否定して懺悔し、連合國を神を仰ぐといふのが占領憲法の本質だからである。占領憲法は、連合國に對する「反省謝罪文」であり、「詫び證文」であつて、そして、「起請文」なのである。それゆゑ、我が國の戰爭において讃へるべき英靈とは、連合國からすれば、連合國(神)を冒涜する惡魔であつて、當然に抹殺されなければならない存在に他ならないから、この詫び證文に反して、英靈を祀ることの理由や靖國を護持することの根據が全くないといふことになる。否、むしろ、英靈といふ觀念や靖國の存在自體を否定してゐるのが占領憲法である。占領憲法は、過去の歴史を全否定し、GHQとその虎の威を借りた中韓に捧げた「謝罪憲法」(東京條約、占領憲法條約)であるから、その反省と謝罪の對象となつた行爲の先兵等を「英靈」とすることは全くの論理矛盾だからである。

しかも、交戰權を放棄してゐるのであるから、將來、違憲の存在の自衞隊が我が國を侵犯する武力勢力と戰つて、自衞官が戰死したとしても、それは人靈となりえても神靈には絶對なりえない。たとへ、「宗教法人靖國神社」が神靈として祀つても、それは一宗教法人の私的な宗教行爲であるから、故人の意志と遺族の意志を無視することは絶對にできない。ましてや、國家がこれを英靈として祀ることはできるはずもない。自衞官や警察官その他の公務員が、公務員の服務義務といふ法律上の義務に殉じたとしても、憲法上の義務に殉じたのではない。むしろ、占領憲法では、「戰つてはならない」、「國防の義務はない」、「國防の義務は免除する」と云つてゐるのに、これに背いて戰死したとしても、占領憲法下では絶對に肯定的な評價はできない。

なぜならば、占領憲法の第九十九條には、「・・・公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とし、國を守らなくてよいし、國が亡んでも占領憲法だけを守ればよい、としてをり、さらに、第十八條には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る處罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」としてゐるのであつて、占領憲法の解釋からすると、殉國といふのは、奴隷的拘束や苦役に該當するために、當然にそのことは禁じられてゐるからである。

占領憲法下では、自衞官らの殉國についてもこのやうな有樣なのに、戰前の殉國の英靈が、戰後においても同じ意味の英靈の評價として留まることは絶對にできない。それは、國家護持の公的存在としての「英靈」ではなく、「宗教法人靖國神社」といふ私的存在(民間信仰)としての「英靈」であつて、もはや「國家」との關係を遮斷された存在となつてしまふ。英靈が國家との關係を斷絶して公的存在から私的存在(民間信仰的存在)へと轉落することに呼應して、これに對する參拜も同樣に國家との關係を斷絶して公的なものから私的なものへと變質するからである。

それは、ひとへに、國防の義務を否定した占領憲法が存在するためであり、占領憲法が憲法として有效であるとする限り、英靈と國家とは永久に分斷され、眞の意味での英靈ではなくなる。それゆゑに、「占領憲法を守れば靖國は滅ぶ。」のである。

最後に、前述の「與太ばなし」に少しつき合ふとすれば、假に、百歩讓つて「自衞權」、すなはち、國家に「國防の權利」があることが占領憲法上認められたとしても、それを以て、臣民に「國防の義務」があることを導き出すことはできないのである。そのために、「與太ばなし」をする人たちでさへも、占領憲法には國民の義務としての「國防の義務」がないことだけはどうしても認めざるを得ないのである。

ちなみに、兵役の義務も含めた廣義の國防の義務を憲法上規定してゐないのは、諸外國でも數例しかなく、中共、韓國、北朝鮮などは憲法で國防の義務を規定してゐることは勿論であつて、殉國者には國家最高の榮譽が與へられるのである。

このやうに、我が國においては、占領憲法を打破しない限り、靖國の英靈を護持することは絶對に不可能であり、今もなほ、占領憲法下で靖國の庇護を望む者の姿は、「飛んで火に入る夏の蟲」の愚かさに似てゐる。

そもそも、靖國の英靈とは、國體護持のために散華された御靈であつて、これを破壞する占領憲法を靖國の英靈は決して容認するはずがない。「蚤」と「笛吹き男」の占領憲法有效論者が靖國參拜をする動機は、英靈を侮辱するためなのか、それとも懺悔するためなのか、そのいづれかである。改心もせず有效論を唱へ續けることの逡巡と懺悔のためであれば、これからの參拜は無用である。次に參拜するときは、無效論に改心してからの報告參拜しかない。また、有效論を確信する者であれば、その參拜は英靈を侮辱するものであり、明らかな冒涜であつて、恥を知るべきである。

いづれにせよ、占領憲法の有效性を主張することは、望むと望まざるとにかかはらず、眞正日本の再生を否定し、亡國の道を歩むことに他ならない。まさに、愚に滅ぶが如しである。

続きを読む