國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第六巻】第六章 萬葉一統 > 第三節:自立再生社會の實現

著書紹介

前頁へ

單位共同社會(つづき)

このやうに、自立再生の理念は、我が國の國體の精華であるにとどまらず、全世界を遍照する金剛智であつて、單に、經濟的側面のみならず、政治・文化・教育・生活その他の全ての社會事象を調和させる。そして、經濟以外の不安定要因である宗教と民族の問題についても、祭祀が復活することに加へて、宗教集團や民族集團は、自づとそれぞれ同一の構成員による獨立した單位共同社會(まほらまと)に分離されて生活することになるから、生活と文化の對立相克から解放されてこれらの問題も殆ど解消するに至る。つまり、宗教紛爭や民族紛爭といふものは、分業化體制の現實からして、どうしても異宗教徒同士や異民族同士が、それぞれの生活を維持するために混在混住し、雇用關係や事業關係などの經濟的な相互關係を持たざるをえないことが最大の原因となつてゐるからである。そこで、單位共同社會(まほらまと)が形成され、それが大家族まで極小化して行く過程の中で、異宗教徒や異民族との經濟的な相互依存關係が棲み分けによつて解消する方向へ向かひ、ひいては祭祀の復活によつて紛争の根本原因が消滅することになるのである。

そして、このやうな紛爭原因が縮小し解消することによつて官僚統制國家(全體主義)の役割も終了し、世界維新が實現し、世界と地球には再び安寧が蘇る。

この世界維新とは、神敕の成就であり、その神敕とは、「修理固成」の御神敕のことである。つまり、天つ神が伊邪那岐命(イザナキノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の二柱の神に賜はれた「於是天神諸命以、詔伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱神、修理固成是多陀用弊流之國、賜天沼矛而、言依賜也。(ここにあまつかみもろもろののみこともちて、いざなきのみこと、いざなみのみこと、ふたはしらのかみに、このただよへるくにををさめつくりかためなせ、とのりて、あめのぬぼこをたまひて、ことよさしたまひき。)」(古事記上卷)の御神敕である。さらに、この御神敕は、天照大神(アマテラスオホミカミ)が皇孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に賜はれた天孫降臨時の「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。(あしはらのちいほあきのみづほのくには、これ、わがうみのこのきみたるべきくになり。いましすめみま、いでましてしらせ。さまくませ。あまのひつぎのさかえまさむこと、まさにあまつちときはまりなけむ。)」(日本書紀卷第二神代下第九段一書第一)といふ「天壤無窮」の御神敕と、神武天皇の「上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。(かみはあまつかみのくにをさづけたまひしみうつくしびにこたへ、しもはすめみまのただしきみちをやしなひたまひしみこころをひろめむ。しかうしてのちに、くにのうちをかねてみやこをひらき、あめのしたをおほひていへにせむこと、またよからずや。)」(日本書紀卷第三神武天皇即位前己未年三月)といふ「八紘爲宇」の御詔敕へと連なる。そして、これらの御神敕の根源は、天地開闢(剖判)の時、天地の中に葦牙の如く成りませる地球始原神である國常立尊(くにのとこたちのみこと、日本書紀卷第一神代上。古事記では國之常立神)の御神意であり、これを現代において誓(うけひ)により具體化したものが、この自立再生論なのである。

ところで、「無爲自然」などが老荘思想における中心的な概念とされるが、『老子』(文獻15)の第三十八章には「無爲而無不爲(無爲にして爲さざるは無し)」とあり、第二十五章には「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」とあることから、「無爲」は、「不爲」(何もしない)といふ意味ではない。いはば、無理をして爲すことはせず、自然に營むことである。これは、『古事記』の「修理固成」に通ずるものであり、雛形理論や本能論、さらに、自立再生論とも融合するものである。

このやうに、自立再生論の目指す單位共同社會(まほらまと)は、大家族を理想型とし、それが部族、地域、國家へと相似的に擴大して行く雛形理論に適ふものであるが、その祖型は、天照大神の「御統の珠」(みすまるのたま)にある。『古事記』(上卷)には、天照大神の左右の御美豆羅(みみづら)にも、御蔓(みかづら)にも、そして左右の御手にも、「各纏持八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而(おのおのやさかのまがたまのいほつのみすまるのたまをまきもちて)」とあり、この「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠」は繰り返し登場する。この「御統の珠」の神示は、數多くの國々を靈(たま)を壞さずに一つの連珠に繋ぎ合はせて、一つの統一された靈(たま)とすることにある。これは、数珠やロザリオと同樣の構造であつて、國境をなくして一つの國に纏めるのではなく、個々の自立した社會や國家を連結させることであり、まさに單位共同社會(まほらまと)は、「御統の珠」の一つ一つの珠(靈)を意味してゐる。たわわに實つた稻穗を連想させる。これは、國歌「君が代」の「細石の巖と成りて(さざれいしのいはほとなりて)」に通ずるものである。これこそが眞の意味での「八紘爲宇」の姿である。

自立再生論は、これら御神敕を體現したものであり、その目指すものは、世界が自立再生論を選擇し、これに基づく經濟政策を實現して絶對平和を實現することである。トマス・モアの『ユートピア』、つまり「どこにもない場所」を探し求めるのではなく、單位共同社會(まほらまと)が「どこにでもある場所」とすることである。そして、その指標は、自立再生論に基づく自給自足の閉鎖循環系である「單位共同社會(まほらまと)の極小化」にある。世界主義や經濟圈擴大主義(例へば、EC統合、道州制)などの「擴散指向」は、「單位共同社會(まほらまと)の極大化」をめざすものであり、それを地球規模にまで擴張することに飽き足らず、宇宙まで取り込むに至る。「擴散指向」によれば、地球の内部矛盾を隱蔽して一層深刻化させることは必至である。この「擴散指向」を捨てて、「單位共同社會(まほらまと)の極小化」による「收束指向」によらなければ、地球と人類は救はれない。これまでの歴史は、「擴散指向」でこれまでずつと擴散・擴大してきた。人類は、そのまま放置すれば、擴散指向を際限なく續けて飽和絶滅する以外にない。そのために、自立再生論による「收束指向」の方向へ政策轉換をなすことによつて、均衡と安定を實現させることができるのである。

その意味では、自立再生論は明らかに世界思想である。これをこれまでの世界思想と比較することは餘り有意ではないが、食料、資源、エネルギーなどの基幹物資の自給率の變遷の見地から捉へて第一章の別紙一を借用すると、章末の別紙六『V字型自給率回復構造圖』のとほりとなる。世界は、完全自給がなされてゐた原始自給社會から、物資交易と技術交易を擴大させて自給率を低下させてきたが、自立再生論の登場により、方向貿易理論などを實踐する政策轉換がなされることによつて、自立再生社會の實現に向かつて物資交易を縮小させ、技術交易を選別させて、再び自給率を向上させ完全自給の自立再生社會に至るといふ經緯を示してゐる。なほ、我が國では、遣隋使、遣唐使、對宋貿易、勘合貿易(對明貿易)、南蠻貿易、朱印船貿易などによつて、徐々に自給率を低下させてきたが、江戸時代の鎖國政策によつて再び自給率を高めたものの、明治維新以後は國際的分業體制に組み込まれて極端に自給率を下げた。そして、大東亞戰爭時には戰爭状態であることから反射的に自給率が一擧に高まつたが、敗戰後は有史以來急激に自給率を低下させて今日に至つてゐる。しかし、それを自立再生理論によつて再び完全自給の自立再生社會を實現させるための政策轉換がこれからなされるであらう。

このやうにして、世界の人々が雛形理論に基づいた自立再生論によつて國際社會が收束(みすまる)したとき、そのとき同時に世界の人々の祭祀も復興し、世界はすめらみことの御代となるのである。

続きを読む