國體護持總論
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自立再生社會の課題

このやうに、國富本位制と金塊本位制の導入、利子の禁止と通貨保有税の創設、家産制度の推進、法制税制の抜本改革、方向貿易理論と效用均衡理論などによる政治經濟改革、複式簿記の採用、一般會計と特別會計の合體などを實行すれば、必ず自立再生社會は實現する。

しかし、中央銀行の消滅、金融專門業の終息、證券取引所等の閉鎖、金融資本の貿易市場參入禁止などを含めて、これらの政策の實施については、決して急激であつてはならない。自然的な推移を見届けて、充分な經過措置を講ずる必要があるが、これら一つ一つの論理や政策には、すべて根據があつて充分に納得しうるはずである。

しかし、直接の利害關係者は別として、一般の人々がこれらを全體的に見て過激な主張と感じて拒否反應が出るとしたら、それは合成の誤謬(fallacy of composition)を口實とした錯覺である。これらの政策について優先順位をつけて漸進的に混亂を回避した政策の措置を採ることになるにもかかはらず、これをしないと決めつけた偏見と誤解に過ぎないのである。

ただし、これらの目標に到達するまでの政策的な課題は多いと思はれる。建設的な疑問には真摯に答へる必要があることは言ふまでもないし、現に、今も尚、檢討課題がいくつか存在する。以下は、その檢討課題について觸れてみたい。


まづ、國家の財務諸表において租税徴収權をどのやうに取り扱ふかといふ問題がある。

國家の貸借對照表に、簿外資産(asset out of book)である租税徴収權を固定資産として計上すべきか否かの檢討である。

これについては、自家創設營業權(self good will)についての考へ方が參考になる。自家創設營業權とは、自己が營業を繼續して開拓してきた「のれん」のことであり、平均的な利益水準を越えるものと評價されてゐるものである。しかし、これには、貸借對照表能力(B/Sに計上しうる資格)がない。ただし、これを有償で譲渡すれば、その譲受人には、自己の貸借對照表に營業權として計上ができるのである。このことから判斷すると、自國の租税徴収權には貸借對照表能力がないと考へられる。また、租税徴収權は、評價算定不能の資産であり、國家の永續性を踏まへれば、その價値評價は無限大となつて、數値計上は不可能となる。

しかし、これは、租税徴収權それ自體、つまり基本權としての租税徴収權のことであつて、年度ごとに發生する支分權としての租税徴収權のことではない。


ところで、國家の貸借對照表の資産合計が負債合計を越えると債務超過(負債超過)となることは政策的にも避けるべきである。これを回避する方法として理論的に可能なことが二つある。

一つは、肇國以來の資本金(元入金)を計上する方法である。ところが、現在ですら未だに單式簿記の豫算制度を採用してゐるのに、過去に遡つて元入金を累計査定することなどは不可能なので、せめて、明治以降の豫算制度によつて國土に投入した資金を資本金として計上してはどうかといふことである。

もう一つは、先ほどのやうに、租税徴収權の基本權を計上するのではなく、その一部と認識できる支分權を計上する方法である。これまでの租税徴収實績を踏まへて、數年度の租税徴収額の平均を算定し、現在の債務超過額がその何年分に對應するかを計算する。そして、債務超過の總額に對應する額を「支分徴税權」として資産計上することである。いはば、基本權としての租税徴収權では計上できないので、債務超過分に相當する支分權の租税徴収權を基本権から切り取つて一部計上する方法である。


このうち、前者の方法は、現實的でなく、その價額評價も恣意的になるので採用できない。そこで、後者によることになるが、これによると、何年分の租税徴税分が前倒しされてゐるのかを明確にすることができる。


ところで、大災害や大事故などあつて、流通財が大きく減少して國富が収縮することになつた場合、理論上は發行通貨量を大きく減量させることになる。災害や事故が小さな規模のものであれば、国富の彈力性よつて吸収できるが、大規模な場合はさうは行かない。長期償還の國債か、償還期限を定めない永久國債(permanent debt)を發行して政府が通貨を調達し、それを復舊復興財源として投入することができる。永久國債(公債)といふのはイギリスで實例がある。しかし、政府支出が突出すると、通貨不足によつて民間よる復舊復興支援の足を引つ張ることにもなりかねない。これが大災害、大事故などの際に、通貨量が減量することの抱へる問題である。


通貨量調整は年度末になされるので、その處理までの時間のずれ(tme-lag)があれば、その間にある程度様々な調整をすることができるが、もし調整できないときは、制度上は發行通貨量を減量させることになる。それでは流通する通貨量が不足して復舊復興に必要な資材の調達に支障を來す可能性があるので、そのやうな場合には、特別措置を講ずる必要が出てくる。

それは、前にも述べたとほり、基本權である租税徴収權から派生する「支分徴税權」を相手勘定(資産勘定)とし、「發行政府券」を負債計上して、特別に通貨發行をすることである。ここで「發行政府券」といふのは、國内通貨としては同一のものであるが、これと異なるのは、通貨發行益(シニョレッジ、seigniorage)といふ打ち出の小槌(通貨發行權)を發生させるものである。これはあくまでも例外のことであり、國家緊急權の發動としてなされるものである。

これが例外である所以は、國富本位制による流通財の價値總額に對應する通貨發行には、この通貨發行益はなく、逆に、通貨發行費用が發生するだけのものである點にある。これは、たとへて言ふならば、銀行が顧客に統一手形用紙を交付するやうなもので、それを交付したことによつて、銀行が手形上の利益を得るものではないのと似てゐる。


このやうに、いくつかの課題はあるとしても、大きな問題や支障はない。しかし、一足飛びでは實現しないものである。長期の國家目標を立て、法制、税制の改正によつて漸進的に移行して行く。さうすれば、經濟が經世濟民といふ本來の意味を取り戻せる日が必ず來るのである。

財貨の均衡が實現すれば、インフレもデフレもなくなる。天気豫報と一緒に株價速報や國際爲替相場の金額がリアルタイムで報道されるといふおぞましいこともなくなり、額に汗して働く人の平穩な生活が回復するのである。


合理主義と個人主義を捨てて、本能主義と家族主義に戻る。本能主義とは欲望主義ではない。欲望主義こそ合理主義なのである。

「本能」に導かれた直觀の道が「道義」であり、「理性」で判斷して正しいとしたものが「正義」である。道義に反する正義があること、不正義なものでも道義に反しないものがあること、道義は正義に優先することなどは、我々の御祖先の教へである。


これまで御先祖は、この本能原理に基づき、祭祀の道と家産制度による自給自足生活を営んできたが、合理主義と個人主義といふ理性の産物によつて、宗教を作つてだんだんと祭祀の道から遠退いた。また、家族が財産を所有する家産制度を壞して、個人が財産を所有する私有制度となり、分業體制によつて自給生活を捨てることになつた。


しかし、人類は、再び本能原理を回復させ、祭祀を復活させ、これまで理性によつて低下させてきた生命力を取り戻さなければならない。祭祀とは、祖先祭祀(氏神)、自然祭祀(産土神)、英靈祭祀(守り神)である。そのためには、ばらばらになつた家族、分業體制で工程が細分化された物作り、生産と消費の二極分化によつて低下した各家庭の食料自給力などを少しずつ元に回復させ、この擴散する世界に歯止めをかける必要がある。

その目指す方向は、家族の統合と生産工程の収束にある。

假想水(バーチャルウォーター、virtual water)、食料の重量と輸送距離の積(フードマイレージ、food-mileage)、地産地消といふ言葉は、生産、分配、流通、消費、再生といふ水と物資の循環の輪を極小化して効率化を圖り、自立再生社會の實現に向かふための指標である。  その實現までに時間がかかつても、大きな國家目標を立てて前進せねばならない。この方向は、全世界が競つて同時に行つても争ひの原因にはならない。擴散から収束への方向は、それぞれの民族がその本能原理に基づいて、個性的に歩む必要があるが、その手法の違ひは、全體としての方向を妨げることにはならない。山の頂上に至る道はいくらでもある。しかし、目指す方向は一つである。

本能原理は、フラクタル構造になつてゐるので、「合成の誤謬」(fallacy f composition)は起こらない。だからこそ本能原理による「道理」なのである。決して一人勝ちする「正義」ではなく、すべての人々が共生、共存、協調できるのが「道義」である。

これによつて、全世界に平和と安定が實現するもので、全ての民族のそれぞれの本能原理に最も適した「道」、それが自立再生論といふ人類の「道義」なのである。


花札遊びやトランプ遊びに「婆抜き」といふゲームがある。婆とは花札では白札、トランプではジョーカーのことである。

品のない名前ではあるが、ルールは至つて簡單である。數人に同じ枚數の手札を配り、一人づつ一定方向に順次循環して相手の手札から一枚づつ引き抜き、同位の札二枚の組み合はせができれば、その場に捨てて行き、最後までジョーカー(白札)を持つてゐた者が負けとなる、あのゲームである。

ジョーカーとは、全能、最高の札であるが、これを長く所持することは身の爲にならないことを意味してゐるゲームである。

そして、この何気ない遊びが、實は家産制や通貨制度などによつて自立再生社會が實現できることを寓意してゐるのである。


つまり、同じ數字の二枚の札が揃ふと(家産が形成されると)、その二枚の札は場(流通經濟)からリタイアする(非流通財となる)。そして、一番先にすべての札をリタイアさせると(家産形成によつて完全自給できると)、その者が勝者、リタイアできずに(家産形成もできず完全自給できずに)最後までジョーカー(通貨)を持つたままの者が敗者といふことになる。

ジョーカーは、「剩貨」(余剩通貨、過剩通貨)と聞こえるではないか。

やはり、真理を示し、幸せを運ぶものは、「青い鳥」のやうに、身近なところにあつたのである。

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