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鳴門事件の意義と教訓

一 はじめに

ここで取り上げようとする「鳴門事件」とは、山本幸男鳴門市前市長が、平成十年十月二日、その支持住民十六名とともに、日本皇民党(大島竜珉総裁)及び祖国防衛隊(角野周二会長)が行なっていた鳴門市政糾弾の街宣活動を弾圧するため、徳島地方裁判所に対し、鳴門市のほぼ全域での活動を一切禁止する、いわゆる「所払い」を求める仮処分申請を行い、即日、これを全部認容する仮処分決定が発令されたことに始まり、この仮処分に対する数々の攻防の末、遂に、平成十一年七月十五日、鳴門市側の全面降伏により全事件が取り下げられて、我々が実質的に全面勝訴して終結した事件のことである。

私は、この鳴門事件を担当した日本皇民党及び祖国防衛隊の代理人弁護士として、また、尊皇愛国運動の一兵卒としてこの事件を振り返るとき、この事件の意義は大きく、その結末は我々の純正な尊皇愛国運動の勝利であったと共に、これから我々が取り組もうとする運動について限りなく多くの教訓と勇気を与えてくれたものと確信している。

二 我々に人権は認められるのか

昨今、人権人権と喧しく叫ばれる一方で、人権を過度に強調する風潮を批判する傾向が強く主張されてきている。このような傾向は、一見すると矛盾するようであるが、実のところ、このような理念が混沌として共存している原因の一つに、「人権の差別化」というものがある。それは、人権が享有される階層が分離し差別化されてきているということである。

これは、何も今に始まったことではない。そもそも人権思想というのは、その沿革からみれば、欧米人のみの人権を高らかに謳い上げることから始まった。黄色、黒色人種には、人権はなかった。法の下の平等を謳う現行憲法を実質的に制定したアメリカでは、皮肉なことに、その本国においては法の下の平等が実現していなかったのである。黒人差別の撤廃に関する公民権法等の整備が完了したのは、一九七〇年(昭和四五年)になる直前であり、インディアンやヒスパニックに対する差別は、現在も未だに続いている。

奴隷制度時代のアメリカでは、白人の女は、黒人男子の奴隷の前で、平気で全裸になれる。家畜の前で全裸になれることと同じであり、羞恥の対象ではないからである。これは、人種「差別」というよりは、人畜「区別」に似ている。

そして、これと同様の「区別」の思想傾向が、現在、我が国でも徐々に浸透して拡大してきている。それは、体制内に組み込まれて利権を貪り尽くしている同和団体のいう差別問題では決してない。戦前、戦後を通じて、一貫として、右翼、総会屋、暴力団を十把一絡にして、これを当て馬の如く利用し、これによって権力を肥大化させて官僚統制国家への道を歩もうとする狙いである。それは、人権の差別化・区別化を推進し、新たな差別を助長してそれを固定化しようとする傾向に他ならない。

商法改正、風営法改正、暴対法制定、暴騒音規制条例、特殊暴力対策、盗聴法制定など、最近の傾向は著しいものがある。権力は、権力に服従する者の人権は保障し、服従しない者の人権は否定するのである。

そして、戦後保守を根底から否定しようとする我々のような純正の尊皇愛国運動は、最後まで権力に服従しないものとして、ことあるごとに、安易に所払いの仮処分が発令されて、その人権は悉く否定されてきた。しかし、我々の側も、これに対して抵抗する術も気概もなく、権力に媚びを売り、おのれの尊厳を否定して自嘲するかのように、このような権力の横暴を受忍してきた例も多い。その中には、残念ながら、愛国運動という羊頭を掲げて、企業恐喝という狗肉を売るが如き、不純な動機によるものがあったことを否定できない。そのため、十把一絡の論理により、このような「所払い」の仮処分が多発されてきた悪循環が生まれていた。

ところが、これに立ち向かったのが、この鳴門事件であった。

三 鳴門事件の発端となった仮処分決定

では、この鳴門事件とは、何であったのかについて、私の立場で順を追って説明したい。

事の発端は、そもそも山本前鳴門市長による公私混同の市政体質に基因する。先ず、新聞報道によれば、平成七年七月、優良農地の保護を目的とした吉野川下流域国営農地防災事業が進んでいた鳴門市大津町大代にある広域のレンコン畑が農業振興地域に指定されていたところ、その指定を解除し、宅地化する計画がなされていたことが発覚した。その指定解除される約七ヘクタールの区域内には、山本市長や実兄らが平成元年から三年にかけて購入した約一・三ヘクタールのレンコン畑が含まれていたのである。

さらに、平成十年四月に、住民に十分な説明を行なわず、同市瀬戸町堂浦の山林五十六ヘクタールを、ゴミ焼却場・処分場の建設予定地とするとの発表を行なったが、その後も住民への説明を行なわなかったため、「瀬戸町環境を守る会」など多くの住民の反発を招いていた矢先の同年六月、またもや、山本前市長が建設予定地内に山林一万五千八百六十七平方メートルを所有し、それが親族を経由して同年五月二十一日、三井建設(東京都千代田区)に売却されていたことが判明した。これが疑惑の最大の源泉であった。というのも、このゴミ処理施設建設用地は、鳴門市土地開発公社が三井建設から一括取得することになっており、同年四月三十日の鳴門市議会は、公社による用地取得費二十三億円を債務保証する補正予算案を可決していたからである。

そこで、「瀬戸町環境を守る会」などの住民は、一層反発を強め、その中の住民が祖国防衛隊(角野周二会長)に反対運動の支援要請を行なってきた。そこで、祖国防衛隊は、その支援要請を受けて、概ね次のような支援方針を固めた。それは、先ず、この支援運動は、尊皇愛国運動の名を汚すものであってはならないこと。つまり、これに藉口した一切の利権目的と行動を排除すること。他団体や有志に協力を呼びかける場合も同様のであり、全ては手弁当(ボランティア)として取り組むこと。

そして、祖国防衛隊は、地元の有力な協力団体である日本皇民党(大島竜珉総裁)の参加を呼びかけ、その志を共通にした両団体が中心となった住民運動の支援態勢が整ったのである。

しかし、鳴門住民は、初めは、彼らの支援運動を懐疑的に見ていた。何か裏があるのではないかとの疑念であった。ところが、住民との共闘関係が形成されていく中で、徐々にその疑念は払拭されてきた。

そして、その支援活動を含めた反対運動が予想外の盛り上がりを示し始めた、同年十月二日、鳴門市とその傀儡の住民十六名は、鳴門市の略全域における日本皇民党と祖国防衛隊の街宣活動の禁止を求めるという、いわゆる所払いの仮処分を徳島地方裁判所に申請したのである。

しかし、このような二団体を中心とした支援活動は、憲法第二十一条の表現の自由により保護されるものであり、現に、一連の支援活動は、公職選挙法、徳島県公安条例及び徳島県暴騒音条例(徳島県拡声器による暴騒音の規制に関する条例)など、一切の法令に違反していなかった。

したがって、このような仮処分申請は、憲法保障が十分に機能している社会においては、直ちに却下されるべきところ、なんと、こともあろうに、徳島地方裁判所は、この二団体の弁解や反論の機会を一切与えることなく、即日、審尋を行なわないまま無条件に所払いの仮処分を発令したのである。

しかも、裁判所は、二団体について僅か各百万円の保証金を鳴門市側に連帯として担保を提供するように求めたにすぎず、鳴門市とその他の住民との保証金の区分すら行なわなかった。そして、さらに、その申請代理人弁護士の弁護士報酬についても、公私の区別が不明であり、公金の不正支出の疑いがあることから、これらは、後に、仮処分決定の違法性の理由として主張され、住民監査請求の事由へと発展していくのである。

四 鳴門事件を受任する

なんという不条理であろうか。このまま黙認することは、民族運動の壊死を意味すると感じた角野会長と大島総裁は、直ちに私に対し裁判対策と支援運動継続のための助言を要請された。私としては、弁護士という立場よりも、憲法学者小森義峯先生が会長を務められている全国有志大連合(全有連)の副会長という立場から、この事件に取り組むべきであると感じた。全有連は、初代会長片岡駿先生が「正統憲法の復元改正」を第一綱領として結成された団体であり、その後を引き受けられた二代目会長小森先生は、憲法学会の元理事長であり、この綱領に相応しい理念に基づく実践をしてこられた方である。また、私も、憲法学会の元理事長であった亡相原良一先生が拙著『日本国家構造論ー自立再生への道ー』で展開した現行憲法絶対無効論を絶賛していただいたことから、憲法学会に入会させていただき、今では、憲法学会で唯一人の現行憲法無効論者として論陣を張っているという自負がある。私は、東京裁判の断行と帝国憲法の改正という、車の両輪にも似た占領政策の二大方針を我が国の國體護持のために絶対に容認することができない。これを一つでも容認する者は、我々とは似て非なる反日思想として排斥する。容認しないことの法的表現を「無効」というのである。これ以外に皇道はない。私は、帝国憲法に殉死された唯一人の憲法学者である清水澄博士の遺志を受け継ぎ、必ずや教育勅語とともに帝国憲法を復原せねばならないとの信念と、昭和四十四年八月一日、岡山県奈義町の町議会で、「大日本帝國憲法復原決議」を可決したという日本初の大壮挙のために多大のご努力をされた武山巌先生が務めておられた全有連の副会長の後任として選ばれたことの栄誉を誇りとを持ち続けている。

それゆえ、角野会長と大島総裁との熱い思いと至誠を感じたとき、この信念と誇りを実践する機会が与えられたと感じた。私は、謝罪決議違憲訴訟、違法教科書訴訟、それにNHK、朝日新聞に対する訴訟の中で、現行憲法違反を展開してきた。現行憲法は、帝国憲法の改正としては絶対的に無効であるとしながら、現行憲法を根拠に違憲の主張をする私の姿は、人がみれば自己矛盾というように思われるかもしれない。しかし、現行憲法に如何なる効力も認めない立場ではない。詳しくは、拙著の説明に委ねるが、連合国との「条約」の限度でその効力を認める立場である。それゆえ、「毒を以って毒を制す」ものとして、現行憲法に準拠した違憲論を展開したのである。

私は、直ちにその反撃の準備にとりかかるとともに、住民の方々に、くれぐれも住民運動の継続をお願いした。この仮処分決定により、反対住民側にも、明日は我が身かという、動揺が走っていたからである。そして、平成十年十月十五日には、仮処分異議を申し立て、同月二十九日に、準備書面(第一)を提出し、徹底した反論を展開した。そして、起訴命令の申立書も提出した。

その反論の理由は、極めて多岐に亘るが、憲法論としては、表現の自由の侵害(現行憲法第二十一条)と適正手続違反(同第十三条、第三十一条)であった。

私は、徳島地裁に対して、仮処分異議申立書と準備書面(第一)による反論で、この仮処分決定が違憲・違法であることは明らかであるから、直ちに、決定されるよう求め、仮に、そうでないとしても、この仮処分異議事件の審理については、口頭弁論を開くよう要望した。というのも、この仮処分異議事件について口頭弁論を開くか否かは、裁判所に裁量権があり、このような重大事件については、鳴門市民その他一般の傍聴を認める必要があると考えたからである。すると、その後、徳島地裁から連絡があり、口頭弁論を開くということになった。

ところが、その期日がなかなか決まらない。私は、もっと早い日時にするように求めたが、なんと、第一回口頭弁論期日は、平成十年十二月二十二日午後四時三十分と指定された。そして、その際、担当の増田書記官から、とんでもない発言が飛び出した。

それは、角野会長や大島総裁(以下「両氏」という。)を「右翼」と決め付け、傍聴人に対して、戦闘服などは着てこないよう指導してほしいと私に要請したのである。

私は、鳴門市側が、両氏側を「右翼」であると主張していた点について、その「右翼」という言葉の概念の定義を求め、それが云われなき差別用語であることを主張していたにもかかわらず、裁判所側が、鳴門市側と同じ予断と偏見に基づく対応をとったことに対して、厳重な抗議を行なった。つまり、審尋も行なわず決定がなされたのであるから、両氏側がどのような服装で口頭弁論に臨むかということは裁判所では判らないはずである。また、戦闘服を着ようが背広を着ようが自由なはずである。仮に、仮処分決定の前に審尋を開き、その際の、両氏側の服装がひんしゅくを買うようなものであったというような前例があったというのであれば、服装に関する発言については理解し得なくもないのであるが、そのようなことが一切なかったのに、このような発言自体、予断と偏見に基づくものである。また、この事件は、鳴門市民一般に広く関心がある事件であり、その傍聴人は多数であることが予想され、誰が傍聴するかは代理人や当事者では判らないので、傍聴者の服装の限定についてまで代理人に要請するのは筋違いであった。

そして、このような抗議を行なった結果、この件は、同書記官が私に対し、前言を全面的に撤回し、陳謝することによって終わった。

五 鳴門市での抗議集会とデモ行進

私は、早速、両氏に連絡をとり、そのことを報告するとともに、反対運動を行なってる鳴門市民の世話人に対し、第一回口頭弁論期日の当日に、鳴門市内で反対住民の抗議集会を開催し、鳴門市役所を中心に抗議デモを行い、その後引き続き、徳島地裁で裁判の傍聴を行なうという計画を提案した。

さて、当日は、午後一時から、鳴門市内の公園で住民と支援者による抗議集会が開催された。百数十人の集会であり、私も勿論参加した。そして、引き続き、市役所付近を中心として、「仮処分は憲法違反」、「山本市長は退陣せよ」など、思い思いのプラカードを手にした市民や支援者がシュプレヒコールを行ないながら徒歩によるデモ行進を行なった。特に、警察は、市役所前で、音量の計測を行なっていたが、中止警告は一度もなく、勿論一人の逮捕者も出さずに、再び出発地の公園に戻って無事終了した。

その後、私は、両氏とともに徳島地裁へと向かう途中、食事のため立ち寄った場所で、朝日新聞の記者から取材を申し込まれた。朝日新聞の偏向報道に辟易していた私としては、どうせ記事にならない取材であれば時間の無駄であるとして取材を拒否していたが、この事件が重大な人権侵害事案であり、差別的な言論弾圧であるとの私の説得により、その記者は何としてでも記事にしたいとの素朴な情熱を示すまでに至った。

六 仮処分異議事件の第一回口頭弁論

私は、両氏とともに、定刻の午後四時三十分より約一時間前の午後三時三十分頃に徳島地裁へ車で到着した。すると、正面玄関前に、沢山の人が集まっていた。よく見ると、構内駐車禁止の張り紙があり、全ての門扉は閉ざされていた。私は、少し前に徳島地裁に来たことがあったが、そのようなことは全くなかった。何もかも全て、この事件のために、このような措置が採られていることが判るまでに余り時間はかからなかった。

この事件は、傍聴券交付事件となっており、裁判所職員が総動員されているかのように、裁判所の腕章を巻いた三、四十名位が閉められた門扉の構内側に居る。前例のない異常な措置である。正面手前の駐車場には、一台の車もなくガラガラであるのに、当事者や代理人の車すら入場させない。「事件がありまして今日はこのような状態です」と職員は説明する。その事件とは、この仮処分事件のことであるが、このような事態こそが異常な「事件」であることに気付いていないのである。一般の人も誰一人入れさせないのである。

しばらくすると、鳴門市民や支援者が続々と集まってきたが、依然として、誰一人入れさせない。そして、いよいよ傍聴整理券を路上で交付して抽選するということになった。ところが、歩道上に裁判所の備品である事務机を出して歩道を塞いでいるのである。私は、道路使用許可があるか、と担当の職員に尋ねると、「ある」と答えた。疑問を感じたので、私は、支援者の人に、向かいにある鳴門警察署の担当者を呼んできてもらい、その担当者に尋ねると、許可していないことが解った。私が、その職員に対し、平然と嘘を言ったことに対して抗議し、氏名を尋ねると、今度は一切黙秘し続ける。そして、机は片付けたものの、あくまでも路上で抽選を行なうことを強行しようとした。それでは交通の妨げになるから構内で整理券の交付と抽選を行なえと要望するが、一切取り合わない。不手際のため抽選が遅れてさらに混雑してしまったのである。

また、構内に入場できても、その後は一切自由行動はできない。仮設の専用通路が設けられ、ピケをはられた真ん中を進む。法廷に行くまで全てこのような状態である。各階段にも職員が監視して、指定された通路以外のところへ行くことはできない。全て封鎖され、一切監視されている。つまり、裁判所はこの事件だけで貸し切り状態になっているのである。法廷の書記官等にこのような過剰警備と対応を抗議するも全く無視された。そして、鳴門市側の代理人は、我々とは別の出入り口から入場したらしく、法廷に入ってきたのも、裁判官の専用通路からのお出ましである。全く特別扱いである。

弁論が開かれた後、私は、裁判所に対して、このような過剰警備と歩道上で傍聴事務手続きを行なった不当な取り扱いは、我々の運動に対する予断と偏見に基づくものであることを強く抗議したが、これについて裁判所は沈黙したままであった。そして、私は、引き続き口頭で仮処分異議の理由の概要について意見陳述を行なったが、鳴門市側からは特に反論はなかったので、審理の終結を求め、早期に決定がなされることを要望した。これについて鳴門市側も異議はなく、予定どおり審理が終結したのである。

そして、終了後に、裁判所の正門前で、傍聴した鳴門市民や支援者、また、傍聴券の抽選に外れて傍聴できなかった鳴門市民や支援者らに対し、裁判の報告と不当な傍聴手続に関する抗議の集会を開いて解散した。

なお、裁判所の起訴命令に応じて、鳴門市側は本訴を提起し、その第一回口頭弁論期日は、平成十一年二月二十四日午後三時と指定されたことも併せて集会で報告した。

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