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トップページ > 各種論文目次 > H19.08.05 いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論3(続き)

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本能強化教育

つまり、禁忌(タブー)などの基本的な道徳規範は、個体と集団を守るために組み込まれた本能に由来し、それがさらに民族的特性も加味されて道徳などの、より高度で複雑な社会規範へと形成発展してきた。それゆゑ、家族や社会、そして国家といふ集団を防衛するための規範が生まれ、これに違反した者に対して応報的処罰を課すことを当然と認識し、それを実行するのも、群れ社会秩序を維持するための本能から由来するのである。国家の形成も、この集団の確定のために必要な本能の発露である。

そして、人類全体に共通する一般の本能もあるが、それに付加して各民族ごとに特別の本能がある。おそらくそれは、使用言語の性質によつて人の思考や行動が規律される言語相対説(サピア・ウォーフの仮説)からして、わが民族においては、やまとことのはの持つ言霊による特殊な本能が備はつてゐるはずである。

いづれにしても、決して、本能を抑制するために理性による思考の産物として規範が生まれたのではない。自己保存のために情欲や物欲をかき立てるのも本能なら、それを秩序維持のために抑制するのも本能である。それゆゑ、この本能の総体が規範を生み出す源泉となり、さらに、理性により複雑に構築されて現代の規範となつたのである。本能と理性とは決して対立するものではなく、コンピュータのハードとソフトの関係か、あるいは、基本ソフトと応用ソフトの関係に準へることもできる。また、自動車に喩へれば、本能といふのはアクセルで、理性がブレーキといふのではなく、アクセルもブレーキもハンドルもいづれも本能なのである。理性は、その運転技術である。アクセルとブレーキ、それにハンドルの操作を無意識に調整し、その行動を理性の働きで認識するのである。

そして、民族国家の形成は、集団を形成し維持発展させる本能の発露であつて、民族必須の根本規範である國體(規範國體)は、やはり、禁忌、道徳などの延長線上にあるものとして、やはり本能に由来することになる。

このやうな本能は、過去においては正常に機能し、家族や社会での躾けや教育などを通じて強化されてきたが、核家族化と極度の分業体制、相互不干渉、そして、食の乱れと歪みなどによつて、現代社会においては、本能の機能低下、人類の退化、民族の劣化が進行してゐる。昨今の「少子化」といふのは、その前提に「劣子化」、すなはち、本来的に子孫に備はるべき民族の生命力が劣化してゐるのではないか。教養や徳性は云ふに及ばず、戦前までの日本人の民度の高さと比較すると、現代日本人は、奢侈と拝金と快楽に溺れて教養と徳性を低下させ、その民度が著しく低くなつてきてゐることは明らかであり、民族自体が劣化してゐることこそが問題なのである。

その結果、親殺し、子殺し、凶悪犯罪、ニート、無気力、出産意欲や育児意欲の低下、政治家や公務員、会社経営者などの倫理感、規範意識の喪失、拝金主義の蔓延などといふ現代社会の病的現象が起こり続ける。

これを根本的に改善治癒させるためには、合理主義による「理性偏重教育」から脱却し、初等教育での戸塚理論による「本能強化教育」による國體の基礎教育によつて民族の蘇生が行はなければならないのである。「命の大切さ」を教へるといふやうな理性教育は必要ではない。これは最も根源的な自己保存本能であつて、本能を強化すれば足り、わざわざ教へる必要はない。むしろ、それよりも高度な「命を捨てて家族、社会を守る」といふ種族保存本能などを覚醒させる必要がある。畏敬の念や惻隠の情などは、本能を強化すれば自然と生まれてくる。それが本能の神秘さでもある。社会集団の中で生きることの修養がなければ情操は育たない。この修養には、災害その他有事の際にも対応できる「教練」を取り入れることが必要である。そして、この修養と一体となつた情操教育といふ土台をしつかりしなければ、その上に築く理性教育は壊れやすい。これは全て小学生までで決まる。この本能強化教育を実現できるのが戸塚校長の教育理論であり、その教育改革は、実践に裏打ちされた重みがある。しかし、これを教育界で採用すれば、これまでの戦後教育体制は崩壊し、それに巣くう占領教育学界の利権は吹き飛んでしまふ。それゆゑ、どうしても組織維持と保身のために、今もなほ国賊どもは、口先だけの「教育改革」を喧しく唱へて衆目をそらし、戸塚理論の封印を画策してゐるのである。本質論に迫らない小手先だけの「教育改革」を唱へ、選挙で衆愚な支持を得て当選したからと云つて、それが真理であるはずもない。真理は多数決で決まるものではない。

皮肉なことに、これもまた本能的闘争の一種である。教育利権に牛耳られた現在の教育業界、教育学界といふ限定された範囲の「部分社会」である利益社会集団の擬似的な組織維持本能と、国家全体の「全体社会」の生来的な組織維持本能との闘争なのである。

合理主義と新無効論

国家に重要な基軸は、教育と憲法である。この教育における戸塚校長の「脳幹論」と「教育界」との対立構造は、占領憲法における「新無効論」と「司法界」との対立構造と瓜二つである。私が戸塚校長を全面支援するのも、この教育の問題と憲法の問題とは、ともに国家の基軸に位置する問題であり、戦後保守体制を打倒することが目的であることも共通するからである。

私は、崔教授に、これまで述べてきたやうな本能と理性、脳幹論などの詳しい説明はしなかつたものの、その概要を説明してみた。そして、教育と憲法とが民族の再生にとつて密接不可分な国家の基軸であるといふ認識を共有するに至り、日韓両国の教育事情などについても語り会つた。そして、崔教授曰く、常に国際事情を重視し、あらゆることについて国内事情だけで憲法や教育の問題を捉へてはならないとの意見を述べられ、最後に、再び、「やつぱり、私は、今でも日韓併合は正しかつたと思つてゐます。」と繰り返し強調された。このやうに、終始和やかな雰囲気の中で、あつと云ふまに時間が過ぎ、再会を約束してお別れした。

その後、私は、この度の邂逅のことを反芻しながら考へ続け、大清皇帝功徳碑にも行つて見た。碑文の文字は全て削り取られて、恥辱の歴史は隠蔽されてゐた。すると、どうしてもそのときに、私が口に出した「刷り込み」とか、「本能」といふ言葉が何度も浮かんできて頭から離れない。それは、私の本能論を踏まへて、予てから考へてきた次に述べるやうな一つの仮説のためである。それは、もしかして、新無効論は我が民族の本能から導かれた結論ではないのか、といふことである。そして、この時点で結論が見えてきたのである。

これまで、私は、占領憲法有効論(護憲論、改憲論)と対峙するためには、有効論が依拠する合理主義の土俵に上がつて、論理学を徹底的に駆使して論駁しなければならないとの信念でここまで来た。それは、まさに合理主義の精緻な論理展開に徹して、むき出しの情念や感情の世界を意識的に遠ざけてきた。感情だけに流されると論理が破綻する。論理が破綻すれば有効論を論破できない。だから、あくまで厳格に論理に拘る。ただその一念であつた。そして、帝國憲法第75条を根拠として占領憲法が憲法としては無効であり、承詔必謹が成文化された第76条第1項を根拠として、占領憲法が講和条約の限度で有効であるといふ新無効論を確立させた。これは、まさに合理主義による理性の領域において結実した理論であり、情操などとは無縁のものであると自負してゐた。

本能と新無効論

何故そのやうに拘つたのか。それは、いはゆる右翼は情操を、いはゆる左翼は論理を、それぞれ重視するといふ状況ではお互ひに同じ土俵に立つて議論できない。そして、どちらかが相手の土俵に立つことを譲歩すること自体が、譲歩した側の敗北であるやうに云はれてきた。しかし、旧無効論は、これに挑んで論理の土俵に上つたものの、残念なことに論理が破綻してゐることが露見してしまつた。そこで、私は、再度挑戦した。厳格に論理を貫き、もし、その結果において有効論が正しいとすれば、残念ながらそれに従ひ、以後は憲法論からを離れ、情操の世界で文化活動をしようと考へてゐた。だが、幸ひなことに、論理破綻することなく合理主義に則つた新無効論は完成した。

それでも、やはり、論理を嫌ひ、情操を重んじる人たちの多くは、新無効論の論理重視の立場に抵抗があるのか、今まで新無効論を受け入れようとはしなかつた。平たく云へば、新無効論が余りにも論理的であることが鼻に付くのである。あるいは、論理に深入りすると情操を失つてしまふといふ迷信を信じてゐるからである。まるで、写真を撮られると魂が吸ひ取られるといふ明治維新のころの迷信さながらに。

思ふに、この情操の領域は、本能の深層に根ざしてゐる。では、この新無効論といふ論理は合理主義の極地として生まれたが故に、民族の本能とは異なる方向を向いてゐるのか。否、断じて否である。別の方向を向いてゐると思ふこと自体が、本能と理性とを対立させてきた合理主義に犯された結果である。むしろ、厳格な論理に拘つて有効論と戦ふのだといふこの國體護持の一念こそが、民族の本能に由来し、それによつて完成した新無効論も本能に基づくものではないのか。さう思つた。

これは、民族の自己保存本能に適合する結論のはずである。占領憲法が無効であるといふ結論は、民族(国家)内の秩序回復であり、また、講和条約として有効であるとするのは、他の民族(国家)との国際関係において、その関係性を破壊せずに共存共栄で調和しようとする民族の保存本能に基づくのである。占領憲法が成立した当時の情勢と、それを今なほ引き摺つてゐる現在の国際関係において、占領憲法を自国内だけで無効であるとして国際法的観点を無視する立場(旧無効論)や、サンフランシスコ講和条約第11条に関して、judgementsを「諸判決」と解釈するだけで、この条項を対外的に破棄せずとも国際法的にもA級戦犯などの存在を否定する立場(破棄無用論)は、その論理自体に矛盾があるのは勿論のこと、これでは「夜郎自大的な冒険主義」に陥つてしまひ、民族の存続を危うくする。国際社会の規範を遵守して「然諾を重んずる」ことは我が民族の伝統的な道義であつて、それは民族保存本能に由来する凛々しさである。これらの方向はいづれも民族の本能が示すべき方向と一致してゐる。さう考へたとき、私は、崔教授が最後に言はれた国際性重視の言葉をその意味で受け止めることができた。

すると、やはり、占領憲法の護憲派はもとより、改憲派もまた、占領政策によつて、貰ひ乳の狼(GHQ)を親として慕ふ「刷り込み」から脱出できない占領病(属国病)に犯された者であり、淘汰されなければならない「民族の徒花」であるといふことを再確認するに至り、この度の崔教授との邂逅の意義と成果を実感した。

小山常実氏と産経新聞社へ

ところで、私は、平成19年7月1日付の「保守論壇」(その四)において、小山氏に公開反論したところ、これが掲載された数日後に同氏から私宛の私信を頂戴した。その内容は、公開討論は拒否するとのことであつた。しかし、どうしてなのかその理由は示されてをらず、共に学問に携はる者として、そのやうな態度は到底理解ができない。

しかし、これを拒否されてしまつた以上、納得できないが是非もない。そこで、私は、改めて自己の新無効論についてまとめたものを後日出版する予定であり、その中で小山氏の見解などについても言及するつもりでゐる。

今回のことは、決して他意はなかつた。小山氏の方から挑まれたことについて答へることから始まつたのである。そして、それを契機として、旧無効論に属する小山氏が新無効論を全く理解せずに『別冊正論Extra.06』において新無効論の内容を誤つて紹介をしてゐることについて、その訂正を強く公式に求めるためでもあつた。

私の見解を誤つて紹介した小山氏の論文を掲載した産経新聞社も、私からの「反論権」による申出を今もなほ全く無視したままである。もともと、産経新聞社は、「社是としての第9条改憲論」による世論形成に水をさすことになることを恐れ、新無効論を紹介したくないのであらう。前掲雑誌は改憲論の啓蒙用であり、あたかも刺身のつまのやうに、旧無効論の小山氏の不正確な論文を載せることで「公正さ」を装つてお茶を濁すだけである。

本来、前掲雑誌の特集タイトルである「日本国憲法の”正体”」を真に解明したいならば、占領憲法の制定経緯に関する歴史的事実について詳細に蘊蓄を傾けて縷々書き連ねるだけの「事実論」では意味がない。占領憲法の前文や第9条などを含めて占領憲法の各条文の意味が可笑しいとか、正しい日本語の表現に成つてゐないとか、あるいは、条文の規定が国際政治の現実に適合しないとかの愚痴をこぼし、こんな内容のものを押し付けられたとする言説を中心に編集されてゐるが、これでは「押し付け憲法論」を通り越して「ケチ付け憲法論」である。隔靴掻痒の改憲論や情緒的な無効論や破棄論など、引かれ者の小唄の言説を並び立てるだけである。

しかし、「立法論」としての護憲論と改憲論との論争のみならず、もつと本質的には、「法律論」としての有効論と無効論との本格的な学術論争、さらに、旧無効論と新無効論との学術論争として企画編集したものでなければ、占領憲法の「正体」は解らない。少なくとも、立法論としての改憲論と法律論としての無効論とをごちや混ぜにした編集であつてはならないはずである。

最後にあへて云ふ。「営業右翼」の改憲論者たちよ!民族の徒花たちよ!祖先から受け継いだ民族の本能からの叫びに耳を塞ぐ勿れ!諸君らは死してどこへ帰へるといふのか?このやうな羊頭狗肉の欺瞞は、必ずや今後の動向と後世による歴史の審判によつて白日に曝されるであらう。

平成19年8月5日記す 南出喜久治

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