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トップページ > 各種論文目次 > H21.05.11 いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の七›ミサイルと拉致と国籍2(続き)

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続き

それゆゑ、この五月三日を祝ふことは、東京裁判と占領憲法を共に肯定することに通底する。帝國憲法は、明治二十二年二月十一日公布、同二十三年十一月二十九日施行であるから、眞の憲法記念日は、十一月二十九日以外にはありえないのである。

その昔、岡山縣の奈義町議會で帝國憲法復元決議を結實させた運動家の中では、この五月三日に、國旗を掲揚するか、掲揚しないか、あるいは半旗を掲げるか、といふ論爭があつた。自嘲的に星條旗を掲げてはどうかといふ悲しい諧謔案も出たといふ。私は、奈義町に關係者を訪ねた際にこの話を聞いてから、占領憲法無效宣言といふ悲願達成の日まで、悲願のための國旗を毎日掲揚することにしたので、この日に限つてだけ特別なことはしないことにしてゐる。

この日のことについて、メディアは、これまでと同じやうに、占領憲法については、護憲論(改正反対有效論)と改正論(改正肯定有效論)しか存在しないかの如く報道した。そして、またもや、NHKでは、NHKスペシャル・シリーズ「JAPANデビュー」第二回『天皇と憲法』といふ偏向放送を垂れ流した。その偏向箇所は枚擧に暇がないが、特に、帝國憲法が天皇主權の憲法であるとしたり、國體論とは天皇主權の主張のことであるとしたり、さらには、戰時體制下における帝國憲法の運用を批判しながらもGHQ軍事占領下の占領憲法の制定經過の詳細には全く言及しないなどの點は、憲法學及び國法學の見地からしても到底容認できるものではない。

放送法第三條の二には、「放送事業者は、國内放送の放送番組の編集に當たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。」とし、第一号(公安及び善良な風俗を害しないこと。)、第二号(政治的に公平であること。)、第三号(報道は事實をまげないですること。)及び第四号(意見が對立している問題については、できるだけ多くの角度から論點を明らかにすること。)を規定してゐることからすると、この放送はこれらの規定に明らかに違反する。このやうな放送をこれまでも反復繼續し、放送法違反事實の指摘を受けてもなほ悔ひ改めて改善できないNHKは、もはや公正公平な放送を行ふ能力がないものと判斷して直ちに「解散」させるべきである。しかし、占領下の昭和二十五年にGHQの監視下で制定された放送法は、第五十條第一項で「協會の解散については、別に法律で定める。」とし規定しながらも、未だNKHの解散に関する法律は制定されてゐない。制定後六十年近く經過するのに、國會が自らに立法義務を課したこのNHK解散法が制定されてゐないといふのは、著しい立法不作為の違法があると云へる。このことを指摘し、あるいはNHKの解散の要件と手續についての立法化を働きかけた國會議員がこれまで皆無であつたことも誠に不思議な話である。

似非保守の正體

不思議な話と言へば、他にもある。それは、占領憲法の改正論者(有效論者)は、私が構築した新無効論に対して「學理的な反論」をせずに専ら沈黙してゐることである。私は、ネット社會に生息する者ではなく、支援者のホームページにずつと「下宿」させてもらつてをり、これからもしばらくの間はこの居候生活は續くと思ふが、關係者の協力によつてPDF版の『國體護持』を昨年發表し、今年四月には、その部分的な概説書である『占領憲法の正體』(国書刊行会)を上梓した。また、これに先だつて、一昨年に『日本国憲法無効宣言』(ビジネス社)も上梓してゐる。従つて、もうそろそろ學理的な批判や反論が出てきても不思議ではない程度の時間が經過したはずである。にもかかはらず、正式に反論がないのは有效論者には學問的な誠意がないのか、學問的怠慢として新無效論を知らなかつたのかのいづれかである。そこで、善意に受け止めて、知らなかつたものと理解して、これからは積極的に有效論者各人毎に公開討論を申し込んでそれを實施する予定であるので、支援者各位には是非ともその協力を願ひたい。

ともあれ、これまで、新無效論に對する批判としては、學理的なものはなかつたが、政策論的なものがあつたと理解してゐる。インターネット上でも政策論的な批判があるやうだが、「匿名性」が本質であるこの社會における批判には對應するつもりはない。そもそも、私の『國體護持』と『占領憲法の正體』を讀まずして揶揄するだけの匿名の雑音を相手にするつもりはない。それは、「匿名性」の性格が、裁判員制度における匿名原則と同樣に、「無責任性」の温床であるから禁忌するのである。もし、批判するのであれば、堂々と實名を明らかにして公開の場でなされるべきものであり、さうであれば勿論これに應ずる用意はある。

思ふに、新無效論に対する政策論的な批判は、およそ次の三つの觀點であると考へられる。ひとつは、「新規性」の觀點であり、ふたつ目は「實現可能性」の觀點であり、そして、最後は、「背信性」の觀點である。

まづ、新規性の觀點からの批判といふのは、新無效論のやうな見解やこれを根據づけるやうな見解を今までの政治家や官僚や學者などのうちで誰か主張した人があるのか、無ければ學問的に通用するものではない、といふやうな類のものである。新規性に價値を見出さない、つまり、新規の見解は無價値であり、いかがはしいものであるといふ思想である。先例や實績があるものでなければ學説として認知することはできず、權威ある學者が唱へてをらず學會で主流となつてゐないものは無價値であるとするのである。これは、新規性こそが價値の源泉であるとする知的財産権の「發明」の世界とは全く逆の發想である。しかし、初めに眞實を語る者は常に異端とされるのがこれまでの歴史である。これは、科學の發展を否定する見解であり、ガリレオやコペルニクスなどを葬り去つた宗教的原理主義と同じものに他ならない。似非保守が新無效論を無視といふ迫害を續けるのは、そのやうな態度をとり續けなければ既得權益が守れないためであり、非科學的、非論理的な體質が染み込んでゐることを證明してゐることになる。

ところが、このやうに「新規性」を無價値あるいは惡と評價する一方で、こんどは、占領憲法を「改正」することの動機として、占領憲法が時代に合はない古いものとなつたから時代を先取りする「新しい憲法」にしなければならない、といふやうに、古いことを惡とし、新しいことを善とする、まさに「新規性」に絶大の價値があると主張するのであるから全く以て支離滅裂なのである。一方で、歴史や傳統を重んじ、他方で、歴史や傳統を弊履の如く廢棄する、まさに鐵面皮の二重基準である。

次に、「實現可能性」の觀點からの批判がある。これは、今の政治状況では新無效論による國法體系の整序が實現しえないといふ批判である。しかし、實現可能性といふのは、あくまでも豫測であり相對評價である。したがつて、新無效論によつて法體系を整序することの方が、改正論によるそれよりも遥かに實現可能性があり、改正論は現時點において實現不可能と判斷されるのである。改正論者がこのことを自覺しようとしないのは、これまでも繰り返し述べてきたとほりである。

最後に、「背信性」の觀點からの批判がある。これは、改正論からすると、これまで改正論が培つてきた祖國再生への努力を新無效論は水泡に帰せしめるものであり、新無效論の運動は裏切り行爲の言動に他ならないとする怨み節である。また、批判するにしても言葉を選んで節度を保つべきであるとし、改正論を反日思想であるなどと禮儀を失した過激な批判と攻撃は護憲論を擁護する利敵行爲であるとするのである。

しかし、これらの批判は、そのまま熨斗をつけてお返しする。改正論こそ、護憲論と同樣に占領憲法を有效であるとする共通の土俵(マッカーサーの手のひらの上)に立ち、これまで無效論を彈壓し排斥してきたではないか。無效論が築かうとした憲法體系を護憲論と共謀して否定し占領政策に加担し續けたのは一體誰なのか。しかも、無效論に対する誹謗中傷の限りをつくしてきたのは誰であつたのか。そもそも占領憲法が制定された時は、マッカーサーの命令と指示に隷属して利權を貪つてきただけで、改正論を唱へれば政局になるとの不安から殆ど主張してこなかつたではないか。そのころは、無效論以外はすべてが護憲論(有效論)であつた。改正論は、護憲論を母體として枝分かれした亞流にすぎないものであり、護憲論と改正論とは祖國に対して背信行爲をし續けた反日兄弟なのである。

似非保守の限界

思ふに、似非保守(改正論者)は、一體何を基軸に立て、何を法的根據として祖國再生の運動をするのであらうか、と素朴な疑問を抱く人は多いはずである。もし、占領憲法を基軸と根據として祖國再生運動をするといふのであれば、それは自己矛盾の敗北主義であることを自覺してゐるのであらうか。「國體破壞の占領憲法を遵守して國體護持を實現する」といふのは、論理學でいふ「形容矛盾」の一種である。

占領典範の改惡法案(皇統斷絶促進法案)、教育基本法(祖國喪失教育促進法)、男女共同參画社會基本法(家族的協業破壞促進法)、夫婦別姓法案(家族分斷促進法案)、人權擁護法案(傳統保守思想彈壓法案)、國籍法の改惡(國籍廢止法、日本人消滅法)など、枚擧に暇がないほど祖國崩壞の危機にさらされてゐる原因は、まさに占領憲法の思想的な徹底追及とその完全實施の方向に立法化が進んでゐるためである。

占領憲法を肯定しつつその内容と方向性を拒否することなど到底不可能である。たとへば、國籍法第三条第一項が占領憲法第十四条第一項に違反するとした平成二十一年六月四日の最高裁判所大法廷判決に基づいて國籍法が改正された點についても、これを阻止しうる論理を占領憲法自體から見出すことは殆ど不可能である。

占領憲法第十条は、「日本國民たる要件は、法律でこれを定める。」とし、同法第十四條第一項には、「すべて國民は、法の下に平等であつて、人種、信條、性別、社會的身分又は門地により、政治的、經濟的又は社會的關係において、差別されない。」とされてをり、さらに、國籍法第三條第一項が「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で二十歳未滿のもの(日本國民であった者を除く。)は、認知をした父又は母が子の出生の時に日本國民であつた場合において、その父又は母が現に日本國民であるとき、又はその死亡の時に日本國民であつたときは、法務大臣に届け出ることによつて、日本の國籍を取得することができる。」と規定されてゐることからすると、この判決は、結局のところ、占領憲法第十四條第一項の「すべて國民は」とあるを「何人も」と読み替へ、さらに、國籍法第三條第一項の冒頭にある「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子」を「父母の認知した子」と読み替へて、占領憲法と國籍法の當該條項を最高裁判所が判決で勝手に「改正」した結果となつてゐる。全く出鱈目な判決ではあるが、形式解釋からは全く不可能なことではない。むしろ、これは占領憲法の趣旨に適合するのである。占領憲法は、そもそも占領下の非獨立時代のものであるから、「國籍」についての嚴格な姿勢を示してはゐない。むしろ、日本國民(日本臣民)全員が國家を喪失した「無國籍人」に等しい状態であり、占領憲法には、國籍否定の世界市民的思想(コスモポリタニズム)が濃厚であり、それは、これに基づいて成立した教育基本法が「無國籍の法律」であつたことからも頷けることである。

現に、邦文の占領憲法の條文と「同等」の法的效力を有する英文占領憲法(英文官報に掲載された正式法文。これは、決して「占領憲法の英譯」ではなく、「もう一つの占領憲法」なのである。)によると、邦文占領憲法に「日本國民」と表現されてゐるのは、英文占領憲法では、「Japnes people」(前文、第九條)、「people」(第一條)、「Japnes national」(第十條)、「people of japan」(第九十七條)となつてゐる。また、同樣に、邦文占領憲法と英文占領憲法を比較すると、「國民」と表現されてゐるのは、「people」(第十一條、第十二條、第十五條、第三十條、第九十六條)であり、「すべて國民」と表現されてゐるのは、「All of the people」(第十四條)、「All people」(第二十五條ないし第二十七條)とある。

これに對し、「何人」と表現されてゐるのは、「Every person」(第十六條、第十七條、第二十二條第一項)、「person」(第十八條、第二十條、第三十一條ないし第三十四條、第三十八條、第三十九條、第四十八條)、「all persons」(第二十二條第二項、第三十五條)、「any person」(第四十條)である。

このことからすると、概ね「國民」は「people」に、「何人」は「person」にそれぞれ對應してゐるが、そもそもこのやうに明確に区分される根據はない。「Japnes people」(前文、第九條)、「Japnes national」(第十條)、「people of japan」(第九十七條)は「日本國民」と理解されるとしても、単なる「people」(第一條、第十一條、第十二條、第十四條、第十五條、第二十五條ないし第二十七條、第三十條、第九十六條)を「國民」のみに限定される根拠に乏しい。ましてや、「person」を「國民」に限定される根拠は全くなく、外國人を當然に含むものとされてゐる。

さうすると、邦文占領憲法第十四條の「すべて國民」は、これと同格の法的效力を有する英文占領憲法第十四條の「All of the people」の邦譯を「すべての人民(何人)」と解釋してもよいことになる。

しかして、英文占領憲法によつて無國籍化がさらに推進させる根拠となりうるのである。國籍の取得も、歸化も、そして在留資格の附與も、いづれもその要件は同等に緩和され、日本國籍とのハードルは低くなり、ついには消滅するに至る。それがGHQが占領憲法に與へたミッションなのである。

そして、このやうにして希薄化する國籍傾向が突き進むと、拉致問題は自動的に完全消滅する。無國籍人は他の無國籍人が拉致されても助けなければならない理由は全くないからである。

反天皇の似非保守

最後に、この占領憲法に関して、讀者各位の中で尊皇の志を堅持する多くの同志が居ることを信じて、どうしても述べておきたいことがある。

それは、占領憲法を「有效」であるとしてその「改正」を唱へることは、尊皇の志とは全く相容れないものであることを自覺していただきたいといふことである。占領憲法第一條には、「この(天皇の)地位は、主權の存する日本國民の總意に基づく。」とある。これは、國民主權主義によつて、國民を「主人」とし、天皇を「家來」とすることを規定した條文である。有史以來、天皇と臣民の地位を逆轉させる法令がある時代は現代のみであり、恥ずべき歴史の汚點である。これは傀儡天皇制といふべきであつて、それを象徴天皇制などと誤魔化されて滿足してゐることは不敬不遜の極地であり、もし、このやうな占領憲法を有效であると胸を張つて自覺的に主張し、この第一條から第八條の天皇彈壓條項の改正を唱へずして第九條の改正しか関心がなく、さらには、この天皇彈壓條項を維持すべきであるとの主張は、まさしく反天皇思想であり、天皇の玉座を否定する朝敵と看做さなければならないことになるからである。

また、天皇機關説事件において「天皇主權」を明確に否定されてをられた先帝陛下の御叡意は、そもそも「主權論」なるものの否定にあつた。にもかかはらず、主權論の中で最も傲慢な思想である「國民主權」に固執し、第一條の「主權の存する日本國民」を支持することは、明らかに反天皇思想である。

そして、なによりも問題は、占領憲法の有效論と國民主權の肯定によつて、一體その延長線上にどのやうな國家像を描けるといふのか。祖國を再生するための國家像と世界觀について、私が唱へる「自立再生論」に代はりうる構想を提案することもなく、単に占領憲法の有效論に固執して新無效論を批判して何の意味があるのか、といふことである。

いづれにせよ、我々が占領憲法を憲法としては無效であると自覺し、國民主權なるものを否定しなければ祖國の再生はありえない。占領憲法を無效と認識することによつて、自衞隊は帝國憲法下の皇軍と認識でき、拉致問題や教育問題その他樣々な國内問題はすべて解決の目途が開かれて我が國の矜恃が回復し、これによつて自立再生社會が實現できるのである。そのことの根據と理論については、拙著『國體護持』(PDF)、『占領憲法の正體』(国書刊行会、トップページ参照)などに詳しく述べたので參照していただきたい。

平成21年5月11日記す 南出喜久治

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