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トップページ > 各種論文目次 > H28.08.06 いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の十一›「核保有権」及び「核報復権」の宣言 -広島と長崎から世界に向けて-

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いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の十一›
「核保有権」及び「核報復権」の宣言
-広島と長崎から世界に向けて-

「原爆の日」が今年も巡つてきたが、一体いつまで、被爆都市とか被爆国といふ被害者意識のみを発信し続けるのか。

広島、長崎の原爆の日が毎年やつてきて、被爆の恐怖と悲惨さを訴へ、非核宣言を虚しく発信し続けたとしても、非核世界が実現するとは誰も思つてゐない。この偽善の繰り返しにより、核廃絶どころか、核軍縮すら実現せず、逆に核拡散をもたらしてゐる。


これまでのやうな被害の発信だけでは政治的に全く無力であることを冷静に受け止めることと、原爆の歴史的事実を伝へ続けることとは全く別の問題であるが、このやうなことを述べれば、偽善者たちは感情的に直ちに反発する。


しかし、オバマが広島に来て、被爆者と抱き合つたイベントを行つても、その後に何らの変化もない。そもそも、アメリカの核の傘にすがりながら、被爆国だからといふ立場だけで核廃絶を唱へる。これほどの矛盾があらうか。世界の為政者の誰がそんな矛盾した我が国の屁理屈に耳を傾けることがあるのか。偽善者が誇らしげに行ふ原爆の日のセレモニーの虚しさを多くの人が感じてゐる理由がここにある。


どんな悲惨な事実でも、世代を重ねれば忘却するのが人の常であり、今や被爆国といふだけで核軍縮を語る価値も発信力もなくなつた。


それどころか、核の恐怖、悲惨さの語り部として発信し続ければ続けるほど、善良な世界の人々の心に訴へて反核思想を植ゑ付けるといふ効果が多少はあるとしても、それは、そのことを理解できる余裕があり、広島や長崎に観光で訪れる富裕層に限られる。


そして、この反核運動が、全く別の効果を生み出してゐることに気付く人は少ない。


それは、核保有国に対してその目的を達成するための手間を省かせるといふ効果をもたらすことである。核保有の目的は何か。それは、核兵器の恐怖と悲惨さを植ゑ付けて戦争抑止力を高めることである。

恐怖と悲惨さを我が国が世界に向けて煽ることによつて、核保有国や核保有を企てる国や集団は、わざわざ核保有によつて他国に対し核の恐ろしさを喧伝して威嚇をしなくても、核保有の事実だけで他国に恐怖を与へることが容易になるからである。核保有国や核テロ集団が核使用を予告する威嚇行為の地ならしとお手伝ひをしてゐるのである。核保有といふブラフをかける国が行ふべき恐怖の宣伝に、核被害の語り部は利用され続けてきたのである。

これによつて、人々に恐怖のみを植ゑ付けて思考停止させ、為政者は「囚人のジレンマ」に陥り、その結果、NPT体制は実質的には骨抜きになつて、核軍縮どころか核拡散を引き起こしてきたのである。


このやうなジレンマを劇的な方向転換をするにはどうすればよいのか。本稿は、そのためのものである。


大東亜戦争において、東京その他の都市に焼夷弾を投下され、非戦闘員や非戦闘施設を狙ひ撃ちにした無差別爆撃は、連合国からすれば戦略爆撃として位置づけられ、しかも、それを断行した根拠と理由は「報復」であつた。


ドイツ軍のゲルニカ爆撃と同様に、我が国でも昭和13年以降に、戦略爆撃として焼夷弾を多用した重慶爆撃を行つた。

戦時国際法の慣習法として報復攻撃は認められる。そのため、連合国(アメリカ)は、東京大空襲などの絨毯爆撃といふ無差別爆撃が重慶爆撃の報復攻撃として繰り返し行つたのである。

これは無辜の殺傷であり、戦争犯罪であると叫んだところで、巻き添への被害(collateral damage)は、戦略爆撃においては不可避であり、しかも、報復攻撃としての戦略爆撃であつたとの理由で我が国の主張は簡単に退けられる。


このやうに、連合国は、東京大空襲などの都市爆撃を国際慣習法として認められてゐる報復権の行使として認められることを主張したものの、原爆投下は報復権の行使であるとは主張しなかつた。

あくまでも、我が国本土への侵攻と征服を地上戦で達成することによる人的・物的被害を最小限度にとどめるために必要かつ不可欠なものとして原爆を使用したとするだけで、重慶爆撃の報復権の行使であるとは主張しなかつた。そもそも、戦争における武器対等の原則からして、大量殺戮の新兵器である原爆の使用は報復権の行使にはならないことを当然に知つてゐたからである。


つまり、広島、長崎に対する原爆投下は、報復権の行使ではない。この点が重要なのである。


あくまでも、我が国本土への侵攻と征服を地上戦で達成することによる人的・物的被害を最小限度にとどめるために必要かつ不可欠なものとして原爆を使用したとするだけで、重慶爆撃の報復権の行使であるとは主張しなかつた。そもそも、戦争における武器対等の原則からして、大量殺戮の新兵器である原爆の使用は報復権の行使にはならないことを当然に知つてゐたからである。


このやうに、連合国は、東京大空襲などの都市爆撃を国際慣習法として認められてゐる報復権の行使として認められることを主張したものの、原爆投下は報復権の行使であるとは主張しなかつた。


戦勝国(連合国)は、国連体制(連合国体制)とNPT体制を構築し、我が国が報復戦争を行ふことを封じ込めた。しかし、我が国こそ連合国に対して核兵器による報復権(核報復権)を有してをり、その前提として核兵器の保有権(核保有権)がある。しかし、その権利はあるが行使できない障碍がある。これがNPT体制の目的である。これは集団的自衛権の議論と相似形をなしてゐるものである。


しかし、あくまでも我が国には、核報復権が国際慣習法によつて認められてゐるのである。これを行使するか否かは高度な政治判断である。核報復権及びその前提となる核保有権はあくまでも権利であつて、保有と報復の義務があるのではない。


平和は、軍事的均衡によつて達成させるものである。MAD(相互確証破壊)により、核兵器は攻撃兵器ではなくなり防御兵器となつた。だからこそ、我が国は、仮に、国連常任理事国の連合国5か国、つまり、米、英、仏、ソ連(その承継国であるロシア連邦)、中華民国(その承継国である中華人民共和国)との間で戦争となつた場合には、核兵器による報復権を行使できるための準備として、核兵器の保有権を行使して核武装をすることも理論上は可能である。


しかし、核武装をすることのコストを考慮すれば、核武装をすることは決して最良の策ではないが、せめて、我が国には核保有権があり、核報復権があることを宣言するだけでも、戦争抑止力が高まる。核武装を実現すると軍事的緊張が増す危険性があるが、無法国家である中共、ロシア及び北朝鮮に対する軍事的牽制として、核保有権及び各報復権の存在を表明する対外的な宣言を行ふことは、防衛力増強のコスト・パフォーマンスの視点からも有益である。


核武装をするか否かといふ実現性の乏しい議論をする前に、我が国には、国際慣習法に基づいて、核保有権があり、核報復権があると宣言することだけでも、「終末時計」の針を大きく戻すことに寄与するはずである。


NPT体制によつて核の独占を図る連合国を含め全ての核保有国に対して、武器対等の原則に基づき、連合国等が核兵器の廃絶を実現するのであれば、我が国も核報復権を放棄すると宣言し、国際世論を喚起する。


これこそが、我が国にしかできない究極の国際平和貢献なのである。


平成28年8月6日記す 憲法学会会員、弁護士 南出喜久治

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