各種論文
トップページ > 各種論文目次 > H17.08.15 國體護持:続続憲法考2(続き)

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

前頁へ

続き

新憲法制定

沖縄返還協定は、日米間においては沖縄の本土復帰の条約であるが、その本土政府の国内的効果としては、占領憲法下における領土の拡大と国家構成員の拡大をもたらした。

そして、歴史的に見ても、分断国家状態にある我が国において、その重要な部分の解消の一つである(全面的解消ではない。)。

これとの関係で参考にすべきはドイツの例である。

ドイツにおいては、昭和24年に西独基本法が成立し、西独と東独が成立。昭和30年にパリ条約が発効し、西独は主権を取得してNATOに加盟。同時に、東独はワルシャワ条約機構に加盟。翌昭和36年に「ベルリンの壁」が構築。昭和47年に東西両独が基本条約を締結して関係正常化。翌昭和48年に東西両独が国連に加盟。平成元年11月に「」ベルリンの壁」開放。翌平成2年7月に両独通貨・経済・社会同盟発足。同年9月に両独間の「統一条約」発効。同年10月3日統一といふ経過を辿つた。

ドイツ統一の過程において、西ドイツの基本法(ドイツ連邦共和国基本法。俗に「ボン基本法」)第146条に基づき新憲法の制定を行つて統一する方法(併合方式)と、統一ヨーロッパを実現するためにヨーロッパ連合の設立に関する同基本法第23条に基づいて同基本法を改正して西の諸州に東の五州が編入される形をとるといふ方法(連邦編入方式)が存在したが、実際には後者の方法による統一がなされた。

いづれにせよ、これは基本法の改正を伴ふものであり、ドイツがこれを「憲法」Verfassungと呼ばないのは、分断国家には真正な憲法といふものはありえず、統一までの「さしあたり」(zunachst)のものであるとの認識によるものである。そのことは、ボン基本法第146条に、「この基本法は、ドイツ国民が自由な決断で議決した憲法が施行される日に、その効力を失う。」と規定してゐたことからも明らかである。

このドイツの例と比較すれば、我が国の地方自治は連邦制ではないので、沖縄県の復帰は併合方式といふことになり、新憲法を制定しなければならなかつたはずである。

そもそも沖縄県民と本土の都道府県民とをその人数や面積の差異を以て優劣を論ずることはできない。ましてや、主権論によれば、琉球政府と本土政府といふ分断国家の統合であるから、本土政府の下で制定した占領憲法をそのまま復帰後の沖縄県及び沖縄県民に適用させることはできない。前述の地方自治特別法(占領憲法第95条)の場合ですら、住民投票で可決することが要件であつて、ましてや主権者の拡大的変動があつた場合であるから、憲法については、その変動後の新たな主権者によつて新たに制定されなければならないのである。

しかも、それは、沖縄県民だけの追認決議だけでは足りない。国民主権は、個々の国民に分有するのではなく、全体として一個の主権であるから、本土において占領憲法について賛意を表してゐる個々の国民であつても、改めて参政権を行使して新たな憲法の制定を求めることができる。つまり、参政権は、個々の利益を追求する「自益権」ではなく、全体の利益を求める「共益権」だからである。このやうに、国民主権主義によれば、沖縄の本土復帰は国民主権を否定する事態であつたことになる。

ここに占領憲法の国民主権論が抱へる第六の矛盾がある。

玩人失徳、玩物喪志

以上のとほり、背理法により、国民主権論の矛盾を明らかにし、国民主権論の誤りが証明された。厳密に言へば、国民主権論による占領憲法の実効性が否定されたといふことである。つまり、国民主権論の立場に立てば、本来ならは、なされるべき手続がなされてゐないといふことであり、その意味において、占領憲法は国民主権としての運用がなされず、憲法としての実効性を備へてゐないことから占領憲法が無効であるといふことである。

戦後の日本人の多くは、厭戦気分が昂じて、占領憲法は「平和憲法」であるといふ曲学阿世の憲法学者らの戯言を信じ込んできた。そして、経済復興と繁栄に酔いしれ、祖先が築き挙げてきた精神文化を蔑ろにし、國體護持といふ悠久の大義に生きることを侮つてひたすら功利を求めてきた。清貧を嘲り、消費の拡大を美徳であると錯覚し、奢侈を豊かさの指標とする経済学がもてはやされてゐる。やうやく「国益」といふことが叫ばれるやうになつたが、その殆どの意味は経済的利益の追求であり、祖国と祖先の名誉ではない。

空虚で偽善に満ちた戦後民主主義の根底には、国民主権主義といふ怪物が潜んでをり、これによつて人々の徳と志が吸い取られてきた。まさに、「人ヲ玩ベバ徳ヲ失ヒ、物ヲ玩ベバ志ヲ喪フ」(書経)である。

「其の分かれる所は、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積もり」として、二十一回猛士(吉田松陰)は、義命の存するところを貫いた。これを熱血の自戒としたい。

平成17年8月15日記す 南出喜久治

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ