各種論文
トップページ > 自立再生論目次 > H22.01.25 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 「第六回 太陰太陽暦と祭祀」

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第六回 太陰太陽暦と祭祀

こよみする ひしりのつとめ はたされて たみやすかれと いのりたまひき (暦(日読み)する 日知り(聖)の務め 果たされて 民安かれと 祈り給ひき)



 前回(第五回)では、「数へ年」が法律で廃止されたことについて述べました。これを復活させるのは、私たちの揺るぎない祭祀の実践を継続することに懸かつてゐます。ですから、祭祀を実践する家族が全国に広がつていくやうにすれば、この伝統的な慣習が定着して行くのです。

 ところで、この数へ年の廃止に勝るとも劣らない伝統破壊の重大事件が他にもありました。それは、明治五年の「太陽暦改暦」です。

 明治政府は、欧米諸国と暦を共通することによる外交上や貿易などの便益から、これまでの太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)への改暦を決定し、旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年一月一日(元旦)とすることを僅か二十三日前に発表して改暦を行ひました。暦の決定(選定)は、日知り(聖)である天皇が行はれるもので、皇権に専属するものです。このことは、世界的に見ても、暦の決定は王権に属するものとされてゐました。

 そして、これと同様に、年号の決定もまた皇権ないし王権に属するものなのです。我が国の「元号」の決定も、もちろん皇権に属するもので、その意味において我が国には元号法があり、この元号のほかに、「皇紀年号」があるのです。また、韓国には檀君神話による「檀紀年号」があり、さらに、仏教文化圏には、「仏紀年号」があり、他にも「イスラム暦」などもあり、世界には様々な紀年号が用ゐられてゐます。


 我が国では、よく西暦年号が用ゐられることが多いのですが、なんと、この西暦年号の西暦法といふのは、基督教(キリスト教)暦なのです。つまり、西暦とは、「A・D」といふ略号で表示されるのですが、この「A・D」とは、ラテン語の「Anno Domini」(アンノ・ドミニ)の略で、その意味は、「イエス・キリストが支配・君臨してゐる年数」の意味なのです。これの使用を政府が強制することは、宗教的強制になります。ですから、我が国には元号法はあつても西暦法はないのです。少なくとも元号と併記せずに西暦年号だけの表記を政府や自治体その他の公共機関が行ふことがあつたら、占領憲法第二十条第二項に違反するとして、直ちにこれに抗議して是正させるのも、祭祀復活運動の基底となるものです。ところが、このやうに西暦法を用ゐる法的根拠がないにもかかはらず、また、西暦法の意味も解らないまま、これを安易かつ無意識に使つてゐるのです。特に、キリスト教以外の神社や仏教宗派など社寺が発行するカレンダーの中にも、元号を使はずに安易にキリスト教暦(西暦法)のみを使つてゐるのを見かけますが、これを見ると笑つてしまひます。他宗教がキリスト教の暦を受け入れて、その限度でキリスト教に従つて支持してゐることになることも知らずに使つてゐるのです。無知といふのは恐ろしいものです。

 また、伝統を大切にしようと呼びかける文書に、西暦を使つてゐるのを見かけたりしますが、そのやうな人は、後ろからキツネの尻尾が出てゐることに気付いてゐないのです。もちろん、元号を使ふのを反対する者たちは挙つて西暦を使ひますが、彼らはすべて隠れキリシタンならぬ、「ねじれキリシタン」なのです。つまり、主権(sveregnty)といふ名の神(God)もどきを崇める信者だからです。

 さらに、毎年暮れになるとクリスマスツリーが飾られ、これをクリスチャン以外の人が見ても違和感のない人が多くなりましたが、慣れといふのは本当に恐ろしいものです。ツリーの先端にある星は、キリストの降誕を知らせたベツレヘムの星を意味するもので、このやうなクリスマスツリーは宗教的建造物ですから、これが公共的場所に設置されることは、臨時的といへども大問題なのです。


 さて、明治五年の改暦のことに話を戻しますが、たとへ、太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(新暦)への改暦を行ふことが時代の趨勢としてこれに抗することができなかつたとしても、何故この時期に行つたかといふことが問はれなければなりません。

 その理由は、一言で言へば、当時の政府が著しい財政難であつたことに原因してゐます。つまり、旧暦によると翌年の明治六年には閏六月があり、十三ヶ月、三百八十四日となつてゐました。このままでは、官吏(公務員)の俸給を十三ヶ月分支払ふことになります。そこで、旧暦の明治五年十二月三日を新暦の明治六年元旦とすれば、明治五年十二月は、一日と二日の二日間しかないので、この十二月分の俸給を支払はずに済みますし、しかも、明治六年は十三ヶ月分の俸給を支払ふところを十二ヶ月分で済ませられるので、向かう一年で二ヶ月分の俸給が節約できるとの計算から、そのやうに計画して実行したのです。こんなことが改暦の動機であつたのは、やるせない思ひがします。

 そもそも暦を決定する権限は、前にも述べましたが、古今東西において「王権(皇権)」に属するものです。それを財政的な理由や諸外国に迎合することを善とした文明開化といふ名の伝統破壊思想によつて犯すことは許されないことなのです。

 それまでは、正月の挨拶には、新年を「初春」、「迎春」、「新春」などの言葉で表現し、これが短歌や俳句の季語にもなつて生活に密着してゐました。しかし、新暦では立春が二月四日ころですから、元旦は真冬であり、「春」ではありません。一年は、春夏秋冬ではなく、冬春夏秋冬であり、冬が始めと終はりに跨つた変則的なものとなつてゐます。そして、冬なのに「初春」といふ季節はずれの挨拶や白々しい季語がまかり通るため、「言霊」と「数霊」が曇り、この季節と暦の「ずれ」により人々は健全な季節感を失つてしまつてゐるのです。

 一年の始まりが正月(睦月)であり、それが春夏秋冬の季節の始まりの春であることからすれば、立春より約三十四日前の何ら意味のない日を元旦としてゐる新暦よりも、農事暦、海洋暦でもある旧暦の方が季節感と合致してゐます。八十八夜とか、二百十日、二百二十日などといふ生活に密着したものも、立春から日数を数へますので、例へ新暦をそのまま継続採用するとしても、元旦を約三十四日ずらして立春を元旦とする暦へと変更すれば、これらの矛盾やズレはなくなり、季節の始まりは春であり、一年の始まりは春正月として、人々の暮らしと営みに伝統の智恵が蘇ることになるはずです。

 これは真正太陽暦(立春元旦説)といふ提案であり、戦前の国際連盟において、伊勢の皇太神宮を基点として、その真上の天空を通る子午線を基準とした真正太陽暦(日本暦)を採用したうへで立春を元旦とすることが検討されてゐたのですが、残念なことに、我が国が昭和八年三月に国際連盟を脱退したことによつてその採用が見送りになつた経緯がありました。

 旧暦には、確かに少し難点はありましたが、決して致命的な欠陥はなく、実生活の面において多くの利点と効用があります。新暦を廃止して真正太陽暦を採用せよといふことを性急に言ふつもりはありませんが、せめて韓国と同じやうに、文化と伝統の維持のために、新暦と旧暦の併記併用を公式に認めさせる必要があるのではないでせうか。


 ともあれ、このやうな暦の乱れや年齢計算の乱れは、祭祀の実践にとつて重大な影響を受けます。戦後の神社仏閣での行事は、そのほとんどが新暦で行ひますので、季節感や行事の意義がなくなつてゐます。たとへば、赤穂義士の討ち入りは、元禄十五年十二月十四日ですが、これは旧暦です。また、慶応三年十一月十五日に坂本龍馬が暗殺されましたが、この日も旧暦です。坂本龍馬の誕生日は旧暦で天保六年十一月十五日ですので、誕生日に暗殺されたことになります。十五日といふのは満月の日ですから、龍馬は、満月の日に生まれ、満月の日に殺されたのです。全国各地で、義士祭とか龍馬祭とかが催されてゐますが、旧暦の月日をそのまま新暦の月日で行はれることが殆どで、祭祀としてはあまり意味がありません。極端に言へば、ユダヤ暦の日をイスラム暦の日にそのまま当てはめて行つてゐるやうなもので、数霊だけに頼つた祭礼なのです。

 余談ですが、龍馬の誕生日は新暦で一月三日です。私の誕生日も旧暦で十一月十五日、新暦で一月三日ですので、龍馬と全く同じ「月回り」なのです。この「月回り」といふことが祭祀にとつては大事なのです。「一日」を「ついたち」と読みますが、これは「つきたち」のこと、つまり「月立ち」のことであり、新月(月齢一)の日のことです。満月(望月)の夜ことを「十五夜」と呼ぶのも月齢十五の日だからです。月と太陽との黄経(春分点を零度とする黄道座標の経度)が等しいときを「朔」(さく、つきたち)と言ひ、その対語が「晦」(みそか、つごもり)です。「みそか」といふのは、「三十日」の大和言葉です。また、「つごもり」といふのは、月が隠れて見えないといふ「月隠り」(つきごもり)のことです。

 このやうに、旧暦は、太陽と月との関係性を保つた暦であり、それが農林水産業のみならず生活のすべての指針となるものです。しかし、旧暦を復活させ活用させませうといふ掛け声だけでは、真の文化復興運動にはなりません。ここでもやはり祭祀の出番です。祭祀の実践的復興によつて旧暦文化が再生するのです。そのために、旧暦を生活の中に取り入れて、それに従つて祭祀を行つてください。ですから、誕生日や御先祖様の御命日についても、旧暦では何年の何月何日となるのかを確認して、祭祀を旧暦と新暦のいづれでも行ふことができるやうにしてみてください。御先祖のご命日などの新暦と旧暦の対応がどうしても解らないのであれば、遠慮なしに聞きにきてください。調べてお教へします。

 旧暦の日を知ることは、次のやうな効用があります。つまり、新暦の日は旧暦の日よりも月日は早く来ますので、何か退つ引きならない事情があつて新暦の日で祭祀ができないときは、旧暦の日で祭祀を行ふことができるといふ大きな利点があるからです。祭祀は実践ですから、新暦で祭祀ができなくても、その年の祭祀を中止するのではなく、旧暦で祭祀を行ふことが必要です。そのことに心がけてください。

 春分の日や秋分の日は、皇室祭祀の春季皇霊祭、秋季皇霊祭であり、祝日ともなつてゐます。立春の前日は、豆まきなどをする「節分」です。この節分といふのは、季節の変はり目といふ意味で、立春から「春」になるのでその前日が「節分」なのです。いまでは立春節分だけを節分といふやうになりましたが、立春だけではなく、夏の始まりである立夏、秋の始まりである立秋、冬の始まりである立冬のそれぞれの前日も「節分」です。季節の移り変はりとともに祖霊と自然の恩恵に感謝し、魂振りによる祖霊と自然神の活力の再生を願つて祭祀を行ふのです。

 この二十四節気のうち、一年のうちで昼間が最も短い日である「冬至」は、世界的にも祭祀として重要な日です。それは、この日から日照時間が長くなるので、生命力や霊力が復活し再生が始まる節日と認識されたからです。特に、宮中では、冬至の日が旧暦の十一月一日と重なると「朔旦冬至」(さくたんとうじ)と呼んで、「めでたきしるし」(瑞祥)の祝宴が催されたものです。冬至のお祝ひ(冬至祭)は、世界的に存在してをり、ヨーロッパでは、生命力の復活を願ふ冬至祭と、イエスの復活願望とが一体となつて、クリスマスを定めたのです。イエスの生誕日は不明ですが、生誕日を冬至祭と同じ日にすることはキリスト教の独自性がなくなるので、それに近い特定の日(新暦の十二月二十五日)にしただけです。しかし、祭祀の観点からすると、イエスはユダヤ人ですから、ユダヤ暦で祝つてほしかつたはずです。また、キリスト教の復活祭が、春分後の最初の満月の後の日曜日と定められてゐるのも、太陰太陽暦、太陽暦、二十四節気などの影響を受けてゐます。

 このやうに、祭祀は、暦と密接な関係があります。我が国と世界の祭祀を復活させるために、太陰太陽暦と真正太陽暦を強く自覚して祭祀を実践してみてください。


平成二十二年一月三十日記す 南出喜久治


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ