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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第二十四回 鎮魂と顕彰

のちのよの まごゝのさきを のぞむなら わがみころして なさけつらぬけ
  (後の世の 孫子の幸を 望むなら 我が身殺して 情け貫け)


人が対人関係で抱く感情に、尊崇や敬愛の念がありますが、これと対極にあるものとして憎悪や怨恨などもあります。そして、成就しえなかつた思ひの種を残して亡くなつた人は、その思ひが後の人々によつて成就されるための霊力を残します。これは霊魂の作用であり、自己保存本能を抑へて、それよりも上位に位置する家族維持本能、民族維持本能、國家防衛本能を自覚して命を捧げた英霊や銃後の守りの戦没者は、國家護持、國體護持の霊力を残します。その霊力の助けにより後世の者が國家護持、國體護持を実現するために、英霊の顕彰をするのです。慰撫(慰霊、奉慰)や鎮魂を行ふのも、その霊力にあやかるためのものです。

ところが、中には、特定の者に対する憎悪や怨念を残して亡くなる人が居ます。しかし、その怨念の対象の人や物が亡くなれば怨念は消滅します。長く怨念を残し続けるといふことは、極めて強い霊力によるものですが、それを維持するについては、その本人自身が深く惨い塗炭の苦しみを続けることになります。ですから、後世の者はその怨念に対する畏怖と悔悟のために鎮魂と慰撫をして、それを軽減し消滅させようします。これは本人にとつても後世の者にとつても必要なことです。また、怨念の霊力は極めて強いものがありますので、後世の者はその強い力にあやかつて、現世利益(げんせりやく)などの別の願ひのための助力を求めることもあります。菅原道真や平将門などを祭るのはその思ひによるものです。


ところで、「古事記」によれば、黄泉の國から帰つたイザナギノミコトが黄泉の國の穢れを禊ぎ祓つたときに生まれた神に、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二柱の神があります。また、「日本書紀」によれば、これを八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と呼びます。これらの神は、併せて、禍津日神(まがつひのかみ)と呼ばれて、禍(マガ、災厄)を司る神であり、その禍を直すために直毘神二柱(神直毘神、大直毘神)と伊豆能売(イヅノメ)が生まれたとされてゐます。

そして、禍津日神の神性や、禍津日神と直毘神との関係などについては、これまで様々な解釈や見解に分かれ、今もなほ決着を見ません。たとへば、本居宣長は、禍津日神を悪神とし、「禍津日神(まがつひのかみ)の御心(みこゝろ)のあらびはしも、せむすべもなく、いとも悲(かな)しきわざにぞありける。」(「直毘霊」)とするのに対し、平田篤胤は、禍津日神を善神とし、須佐之男命(スサノヲノミコト)の荒魂(あらみたま)であるとしてゐます。

これは、八百万の神々の世界(多神教、総神教)での神性の解釈ですから、仮に、それがどのやうな解釈であつても、神道としての致命的な矛盾は生じませんが、一神教の世界では、このやうな問題は、その宗教の全否定につながる深刻な問題になります。つまり、祭祀の道の第十六回でも述べましたが、旧約聖書の「ヨブ記」の話は、一神教の持つ最大の矛盾を孕んでゐます。絶対神、唯一神の教へに忠実な者が悲惨な生活を強いられ、これに反する悪人が栄華を極め、そして、悪魔が支配する領域と事例があることは、一神教の教義を根本的に崩壊させる致命的な矛盾があることを意味するからです。

これに対し、多神教では、そのやうな深刻な問題には陥りませんが、それでもやはり禍津日神の神性は何か、直毘神との関係はどうなのかについて、本居宣長と平田篤胤とでは全く異なるといふ正反対の解釈が対立してゐることを無視できるものではありません。私は基本的には本居宣長が言ふやうに、禍津日神を悪神と考へますが、その禍(凶事)を直して日(吉事)に転換させるのが直毘(直日)であり、禍津日神の両脇を直毘神二柱(神直毘神、大直毘神)が固めて善神へと導き、これに助力して厳かに斎み清めるのが伊豆能売とするのが素直な解釈であると考へます。これこそが、怨霊の霊力を善神の作用に転換して助力を願ふ伝統的な信仰の源なのです。


ところで、その昔、崇徳上皇は、保元の乱において、後白河天皇と戦つて敗れ、仁和寺で髪を下ろして恭順を示されましたが許されず、讃岐に流刑となられました。そして、上皇の尊称を剥奪され、「崇徳院」となりました。保元物語によれば、讃岐では仏教に深く傾倒され、恭順の証として、後世の安寧と戦死者の供養のために専心に完成された五部大乗経の写本に和歌を添へて朝廷に献上し、都のあたりの寺に奉納されることを願はれました。しかし、すでに治天の君となられた後白河法皇は、写本に呪詛が込められてゐるのではないかとの疑ひからこれを拒否され、これに従つた朝廷はその写本を崇徳上皇に送り返されました。これに激怒された崇徳上皇は、舌先を噛み切り、そのしたたり落ちる血を以てその写本の全てに「日本國の大魔縁となり、皇を取つて民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と誓状を書きしたためて海に沈められ、その後は爪や髪を伸ばし続けられ、夜叉のやうな風貌となつて失意のうちに讃岐で崩御されました。

この「皇を取つて民とし民を皇となさん」といふ、天皇と臣民との逆転は、それから約四百五十年後に、徳川幕府が禁裏を拘束する「禁中竝公家諸法度」となつて顕れます。その後の「禁裏御所御定八箇条」も同じです。明治天皇も孝明天皇の御遺志を受けて、崇徳上皇の鎮魂にこころを砕かれ、京都の地に白峯神宮を創建されました。ところが、さらに、天皇を家来とし國民を主人とする占領憲法が出現することによつて崇徳上皇の怨念は成就したとも云へます。

それゆゑ、祖國再生のためには、崇徳上皇の御霊の鎮魂と修拔を第一歩とし、その上で占領憲法の無效宣言をなして國民主権といふ傲慢不遜な政治思想から解放される道を歩むことしか残されてないのです。

崇徳上皇の怨霊は、禍津日神となつて強い霊力を備へてゐます。それゆゑ、これを善神の作用に転換し、直毘神の働きを高めて國家護持、國體護持を実現する強い霊力へと導かれることを挙つて祈るのです。崇徳上皇の怨念といふ我が國最大最強の霊力を善神の作用へと転換できれば、鬼に金棒となつて必ず國體護持が実現できるのです。


崇徳上皇に関しては、その後にも様々な逸話があります。たとへば、承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河法皇の曾孫)が、その途中で崇徳上皇の御陵の近くを通り、その慰霊のために琵琶を弾かれたところ、夢に崇徳上皇が現はれて、土御門上皇と都に残してきた家族の守護を約束されたとされてゐます。また、「雨月物語」によると、西行法師は、崇徳上皇の霊と論争をし、崇徳上皇の唱へる易姓革命論を論破して、崇徳上皇の怨念が私怨であることを上皇自らが認めて反省されるといふことになつてゐます。

これらの話の真偽を問題とする必要はありません。これらの話が意味するのは、霊の世界においても怨念が崇高な志へと転換することを示してゐることにあります。

崇徳上皇は、「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」といふ和歌を詠はれるなど、もののあはれを深く強く感得される感情豊かな歌人でもあります。それゆゑ、その怨霊の霊力も当代随一となるのです。この和歌は、この世で結ばれない男女が来世での契りを願ふものとされてゐますが、崇徳上皇のご生涯からすると、後白河法皇との確執と愛憎によつて心が離れても、いつの日か國體護持のために一丸となつて力を尽くす日が来るといふ意味にも理解できます。


「崇」(あがめる、たつとぶ)の漢字は、「山」と「宗」でできてゐますが、これに似た漢字に「祟」(たたり)があります。「祟」は「出」と「示」でできてゐます。「崇」と「祟」とは文字的には紙一重です。といふことは、いづれも相互に転換しうることを寓意してゐます。

それゆゑ、私たちは、崇徳院と改名された崇徳上皇の「上皇」の尊称を復活させて名誉の回復を実現し、崇徳上皇の「祟り」の霊力を國體護持の霊力に転換させて、文字通り「崇徳上皇」として「崇める」日々の祭祀の実践を怠つてはなりません。

私たちは、讃岐(香川県坂出市青海町)にある崇徳上皇の墓所である白峯陵(しらみねのみささぎ)や、崇徳上皇の御霊を讃岐から京都へお戻りいただいて明治天皇が創建された京都の白峯神宮を頻繁に参拝して、崇徳上皇の御霊の鎮魂、慰霊、顕彰の祭祀を不断に続けることが必要です。そして、子孫と祖國の繁栄のために様々な怨念を断ち切り、恩讐を超えて命がけで祭祀を実践しなければなりません。

平成二十三年三月一日記す 南出喜久治


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