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トップページ > 自立再生論目次 > H23.10.30 青少年のための連載講座【祭祀の道】編 「第三十二回 臣民と国民」

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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

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第三十二回 臣民と国民(続き)

この度の大戦に突入したことや、結果において敗戦したことについて、ご皇室やご皇族には何らの落ち度もありません。臣民の側にこそ大きな落ち度があつたにもかかはらず、自らの責任を棚に上げ、敗戦後に火事場泥棒のやうに最大の敗戦利得者となつて、ご皇室から財産を取り上げ、ご皇族の皇籍を剥奪して弾圧するとは一体何事ですか!

これほど不忠不敬な乱暴狼藉は、未だかつて歴史上存在しませんでした。そして、このまま今まで放置して恬として恥じないことは万死に値するものです。ただちに占領典範の無効を宣言して、正統典範奉還を実現し、臣民総懺悔することが臣民がとるべき唯一の道です。これを速やかに実現しなければ、我々は死んで御先祖様に顔向けができません。


次に、自分が占領憲法の「国民」であると思つてゐる人は、明確に自覚すると否とを問はず、祖先を無視し祖先祭祀を疎かにし、この度の大戦で散華されたご英霊を「犬死」であるとすることになります。帝国憲法には、憲法発布勅語の中に、「現在及将来ノ臣民」、「臣民祖先」といふ言葉がありますが、占領憲法には、「祖先」の文字は一切ありません。占領憲法の前文によると、祖先は先の大戦で悪をなしたのであり、その反省によつて占領憲法が生まれたとするのですから、祖先を否定し祖先祭祀を否定するのが占領憲法であり、国民主権です。教育勅語など糞食らへとするのが占領憲法です。ですから、占領憲法の国民主権に基づいて昭和二十三年六月十九日に、傲慢にも衆参で教育勅語などの失効・排除の決議をしたのです。


占領憲法の前文には、大東亜戦争が悪いことであつたと断罪し、戦勝国に全面的に謝罪してゐるのですから、この悪い戦争で亡くなつた人は、すべて犬死であり自業自得であることになります。ですから、靖国神社と全国の護国神社の創建の趣旨と占領憲法とは完全に矛盾します。このやうな「国民」が靖国神社や護国神社に参拝するときは、ご英霊に向かつて、かう言つてゐることになります。

「あなた方は犬死になつてしまつて本当に可哀想でしたね。あなた方は、連合国を敵と思つてゐたでせうが、連合国は、国民が主人となる国民主権といふすばらしい占領憲法を作つてくれた恩人です。あなた方の犬死による抵抗で恩人である連合国を手こずらせ多大の迷惑をかけたことを真摯に反省してください。これからは、あなた方が命をかけて守ろうとした天皇を懲らしめのため国民の家来にしましたので、すばらしい世の中になりました。ですから、どうかこれまでの間違つた価値観を捨てて、その変な思ひを諦めて安らかに眠つてください。あなた方の祭られてゐる靖国神社や護国神社は、これからはあなた方を顕彰するところとしてではなく、哀れなあなた方のための犬死神社として鎮魂するための施設となつたことをよくよく理解しなければなりませんよ。」

として、ご英霊を完全に見下して優越感に浸るための施設として位置づけることになります。ですから、国民主権を支持し、占領憲法を憲法として認める人が、靖国神社や護国神社を参拝することは、ご英霊に対する著しい冒涜になります。国民主権を肯定する人が参拝するべきではありません。


このやうに、精神と認識に歪みがあると、行動にも歪みが出てきます。たとへば、「国民」と自覚してゐる人たちの中には、ほとんど祭祀を日々実践する人が居ません。親や祖先の誕生日や命日も忘れてゐたり、仮に覚えてゐても、その日に祭祀をすることもありません。そのくせ、保守風味の集会に参加したり、自己顕示丸出しの神社参拝などを行ひます。我こそは憂国の士であると思ひ込んでゐるのです。


「国民」が主催する式典で、「天皇陛下万歳」とか「すめらみこといやさか」を発声したり、皇居遙拝をしたりすることをよく見かけます。しかし、その主催者や参加者たちは、精神錯乱してゐるか、あるいは右翼認知症に冒されてゐます。どうもそのことの自覚症状がなく、我こそ尊皇の志が鞏固であると自惚れてゐる重度の患者たちは、驚くほど多いのです。


そして、その患者たちは、天皇や皇族に対する不敬行為がなされると、その行為者を痛烈に批判したりすることがあります。これもおかしな話です。

ご主人様の一人が家来やその家族にぞんざいな言葉を吐いたからと言つて、別のご主人様が家来やその家族に対する不敬行為を無礼だといふのは、ご主人様である「国民」の権威を否定することであり、自己否定の矛盾を来たします。

国民主権を謳ふ占領憲法が憲法であり、自分は主権を有する「国民」の一人だと認識するのですから、家来の天皇を侮辱しようが罵らうが勝手です。「天皇は物言はぬ御輿だから国民が担いでやつてゐるのに、そのことに文句があるなら何時でも御輿から降ろしてやるぞ!」と公言しても、国民主権の国民には当然に許されるのです。


また、占領憲法が憲法として有効であるとする人々は、占領憲法下の「国民」の意識、つまり、国民主権の担ひ手であると自惚れてゐる訳ですから、自分たちが主催する式典における国民儀礼といふのは、国旗国歌法に基づき、国旗掲揚と国歌斉唱以外のことをするのはおかしいはずです。天皇は家来(部下)であるとする占領憲法では、「天皇陛下万歳」とか「すめらみこといやさか」など唱へ、皇居遙拝をすることなどは全く矛盾してゐます。主人が主宰する式典の冒頭で家来を讃へることなどありえないのです。


さうであるにもかかはらず、このやうな矛盾したことを矛盾してゐないと思つてゐるのは、GHQ占領政策によつてばらまかれた国民主権の猛毒によつて、重度の右翼認知症に罹つてゐからなのです。

もし、貴方の隣に、「天皇陛下万歳」と叫び、天皇皇族に対する不敬言動に憤慨する人がゐたら、かう聞いてみてください。「貴方は占領憲法が憲法として有効と考へてゐますか?」と。そして、その答へが「有効である」とし、改正論や自主憲法論を唱へたりする症状の人であるとしたら、はつきりとかう言つてあげなさい。「貴方は重度の右翼認知症です。」と。

もし、貴方の言葉を少しでも謙虚に受け止める人が居れば、それは回復の見込みのある人です。しかし、これに感情的に反発するだけの人は、もう回復の見込みはないと思つてください。


これに対し、占領憲法は憲法として無効であり、現存してゐる帝国憲法の下での講和条約の限度で有効とする真正護憲論によると、我々は占領憲法下の「国民」ではなく、帝国憲法下の「臣民」として生きることなります。しかし、このことを理解しても、日々の祭祀を実践してゐない人も居ます。祭祀が必要なことは理解できても、どうしても億劫で実践しない人が居ます。これも祭祀鬱病とでも言ふ軽度の病気です。

祭祀が実践的に身に付いた人は、参加した式典では、国旗掲揚と国歌斉唱のみならず、「天皇陛下万歳」とか「すめらみこといやさか」を発声し、皇居遙拝に加へて、教育勅語の捧読などが自然に行ふことができます。臣民の自覚があつても祭祀鬱病の人もそれをするのですが、家に帰つたら祖先祭祀、自然祭祀ができない人が居ます。しかし、そのやうな人は、もう一歩です。勇気を出して、祭祀を実践してみてください。必ず御先祖のご加護と励ましを受けるはずです。


明治天皇が宣り給はれた教育勅語(教育ニ関スル勅語)には、「父母ニ孝ニ」に始まる多くの徳目が示されてゐます。これを一人でも多くの臣民が広く実践して世間に範を示せば、祖国は必ず再生します。教育と憲法の再生は、國體の明徴を意味します。そして、教育勅語の徳目を個々に実践するだけでなく、この精神を骨髄までに浸透させて揺るぎないものとするためには、毎日欠かさず朝夕に祖先の祭祀壇に額づいて教育勅語を奏上する必要があります。朝夕欠かさず奏上すると、誰でもが経験することですが、胸に染み入る徳目に軽重の日々変化が出てきます。それは、日々の生活において、自分に至らない事柄が日々一様でないことが原因してゐるからです。そして、「臣民」であるとの強い自覚を持つて、臣民一人一人が一歩一歩前進し、それぞれの臣民家族の絆と祖先祭祀の完全な復活が実現できれば、それが国家再生の原動力となるのです。

平成二十三年十月三十日(教育勅語渙発の日)記す 南出喜久治


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