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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第四十四回 融和と対立

ゆひのみち われすすみける ひとのよの あはあはしきを をさむことはり (結ひ(收束)の道 割れ(擴散)進みける人の世の 淡々しきを治む理)

今や、世界も国内も、「対立」と「拡散」が深まつてゐます。領土紛争、経済摩擦、資源争奪、賭博経済による経済格差、政治制度改革問題、経済制度改革問題、民族対立、宗教対立、皇室改革問題など数へればきりがないほどの対立があり、それに拍車を掛けてゐるのが「拡散」です。


拡散といふのは、経済制度と言へば、分業体制をさらに徹底的に深化させ、賭博経済を推し進め、大量生産と大量消費による奢侈こそが進歩であるとするGDP絶対崇拝思想による政策の遂行であり、政治制度で言へば、国民主権論を振りかざして民主主義なるものが絶対的、普遍的な価値があると唱へ、国内にあつては、占領憲法が有効であると強弁する改憲論と護憲論のヤラセの議論、地方自治や地方主権などといふ空虚で危険な言葉によつて国家を解体する企てや、国民主権思想に毒されて占領典範を有効であるとして皇室の自治と自律を全否定し天皇褒め殺しの議論を拡散する企てのことです。

世界と国内における対立状況は、この拡散傾向が深化することによつてさらに激化することになります。


韓国には、「歳月は薬である」といふ諺があります。歳月が流れれば、対立と憎悪を解消してくれるといふ意味です。ところが、今の韓国は、「歳月は毒である」といふ全く逆の状況にあります。

歴史問題、領土問題、慰安婦問題など、「歳月は薬である」として徐々に忘れさせて融和に向かふことができず、年々憎悪と対立がエスカレートさせます。これは支那についても同じです。このやうな現象は、反日を国内統合と利権の獲得とを実現させるために仕組まれた政治的な意図によるものですが、これに対抗して我が国では自然発生的に排外主義が生まれ、さらに対立を激化させます。その行き着くところは、不倶戴天の戦争による殺し合ひしかありません。


もし、「歳月は毒である」として、年々憎悪が積み重つて行くのであれば、我が国は、白村江の戦ひによる戦没者の無念と、高麗軍が元寇によつて行つた対馬や北九州で行つた大量虐殺に対する憎悪によつて、今や支那と韓半島の人民全部を八つ裂きにしてもなほ飽き足らないほどの憎悪心で怒髪天を突くが如く激昂してゐるはずです。


しかし、我々は、『討匪行』の歌にあるやうに、「敵にはあれど 遺骸(なきがら)に 花を手向けて ねんごろに 興安嶺(こうあんれい)よ いざさらば」といふ民度の高さを誇る民族なのです。この矜持は日本人である限り守らねばなりません。


ところが、世界でも国内でも、対立を煽り、排外主義を高揚させる勇ましい論調が拡散してゐます。しかし、その行き着くところが何なのかを語る言論人は皆無です。愉快犯的な自己満足による売文業者の利益追求に支配されてゐるからです。誰も、世界と自国の行く末について真剣に憂慮してゐないのです。もし、さうでないとする言論人が居るならば名乗り出てほしいものですが、口先だけで名乗り出るだけならば誰でもできます。最も大事なことは、対立と拡散を解消するための方策を提示して実践をすることなのです。


では、どうすれば、世界と自国の対立が緩和され解消できるのでせうか。それは、世界の人々が祭祀の民「日本人」になることです。世界の人々が祭祀の民となれば、対立と拡散は縮小し、最後には消滅します。偏頗な「宗教」では対立を激化させるだけで、「祭祀」といふ信仰世界に回帰することです。祭祀は、自立再生社会を再建します。食料とエネルギーの基幹物資が自給自足できることになれば、領土問題や経済問題、政治問題などは、徐々に解消できるのです。これ以外に道はありません。


国内にあつては占領典憲無効論、世界にあつてはロン・ポールのFRB解体論などは、自立再生社会を実現する一里塚なのです。ところが、これに対して必死に抵抗する輩が居ます。しかし、この輩は、国の内外において、真の平和を実現できる具体的なロード・マップを示すことができません。単に、反対のための反対。昔の社会党と全く同じです。


これまで繰り返し述べてきましたが、「祭祀」と「宗教」とは決定的に異なります。祭祀は「本能」に基づくのに対して、宗教は「理性」に基づきます。また、祭祀は「家族主義」であるのに対し、宗教は「個人主義」です。そして、最も重要な成果としては、祭祀が「人類の融和」を実現するのに対し、宗教は「人類の対立」を生みます。


祭祀には、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀があり、これは、天皇祭祀の雛形です。天皇が世界平和を祈られるのは、祭祀の本質がそこにあるからです。天皇がなされる祭祀を我々が単に有り難がつて傍観してゐるだけではだめです。見物人になつてはいけません。我々もまた、これの雛形となる祭祀を実践することによつて、初めて君民一如の祭祀の民になるのです。


我々が祭祀の民になること。それが日本人になることであり、我が国が祭祀の国となれるのです。もともと、古代においては、ケルト人やゲルマン人なども含めて、全世界の人々が祭祀の民であり「日本人」でした。世界は祭祀の国であつたのですが、それがだんだんと変質してきました。歴史を進歩史観といふ傲慢な思想で眺めれば、祭祀から離れて行くことが進歩と思ふかも知れませんが、明らかに人類のあるべき姿から後退し退化してゐるのです。


あるべき姿とは、人類の本能に適合する姿です。生物は本能によつて生命を維持し、子孫を繁栄させてきました。人類も同じです。基本となる本能は生命維持本能で、これよりも高次の本能は種族保存本能です。さらに高次の本能としては、家族秩序維持本能、さらに、共同体防衛本能、国家防衛本能へと続きます。


近親者らに対する性的欲望を抑へることができるのは、後天的な理性による学習の成果ではありません。種族保存本能を越える家族秩序維持本能によるものです。理性では、心臓を動かし続けることはできません。理性を絶対とする理性主義(合理主義)に限界があることは小学生でも理解できるはずです。ところが、世界の大人たちが、理性万能を唱へて世界を破壊させてきたのです。


理性万能の考へは、絶対神(God)を戴く宗教を生みました。人間の理性の働きで絶対神を観念します。つまり、絶対神は人間の観念の産物です。そして、その絶対神によつて人間が作られたとするのです。完璧なまでの循環論法であり、論理破綻をしてゐます。


ところが、このやうな絶対神の宗教が蔓延したのは、宗教が本質的に「不安産業」だからです。人類は理性を獲得したために、精神的に弱くなり不安を抱へて生きることになりました。もし、キリスト教の言ふ「原罪」なるものがあるとすれば、それは「理性の獲得」です。理性の獲得により、精神的に何かに依拠しなければならなくなつたのです。すると、誰かが理性を働かせて囁きます。「この神仏を信じたら貴方の不安が解消できます」と。さうすれば、藁をもすがる思ひでそれを信じたくなるのが人の常です。不安産業といふのは、病気、怪我、事故などの不安に苛まれる人の心に付け入る産業のことです。保険業や精神医療産業などがその一例ですが、最大の不安産業は宗教ビジネスです。


「世界宗教」と呼ばれるものは、すべて「世界最強の不安産業」なのです。何らかの名目で資金を集めるビジネスと無縁の宗教は皆無です。否、むしろ、資金を集めるビジネスは、すべて宗教的なのです。


 宗教は拡散を促進します。この指に止まれば救はれるが、止まらなければ救はれない、地獄に落ちると脅します。信じる者と信じない者とを峻別して人々を細分化し差別化することが、精神的な意味で分業であり拡散なのです。


その意味では、今生きてゐる者だけで全てが決められるとする傲慢な国民主権思想、民主主義思想、個人主義思想及び現代人権思想などは理性の産物であつて、現代の宗教に他なりません。

そして、その彼方には、対立を激化させて人類を自滅させる結果しかありません。ですから、全世界が対立を解消して融和するためには、これしかありません。


「宗教を捨てて祭祀に回帰せよ」

平成二十四年十一月一日記す 南出喜久治


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