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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第四十六回 賽銭箱と貨幣経済

るとかくし ことばでよぶは あきなひの しくみのやぶれ あらましごとぞ (「る」と隱し言葉(隱語)で呼ぶは商ひ(經濟)の仕組み(制度)の破れ(破綻)有らまし事(予測事)ぞ)

「る」とは、江戸時代の芝居仲間の隠語で「銭」のことで、「金(かね)は天下の回りもの」とか「金(かね)は天下の回り持ち」とか言はれるやうに、社会に流れることから「流」の呉音を隠語として使ふことになつたのでせう。


幕末の文久三年から流通した銅の四文銭(文久銭)がありました。形は円形で、中央部に正方形の穴が開けられてゐます。表面には「文久永寳(宝)」の文字が上下右左の順に一字づつ刻まれてゐました。「文」の字は中央の正方形の穴の真上にあるので、穴の四角(口)がその下になります。すると、文と口とを上下に合はせれば「吝」の字になることから、吝嗇(りんしょく)の人(けちな人)を罵る隠語として「文久銭」といふ言葉が生まれました。


これと同様に、金(かね)に纏はる慣用語は沢山あります。「金が敵(かたき)」、「金が言はせる旦那」、「金と塵は積もるほど汚い」、「金の貸し借り不和の基」、「金の切れ目が縁の切れ目」、「金は三欠くに溜まる」、「一銭を笑ふ者は一銭に泣く」など、金銭蓄財の多さを富と認識するやうになつた貨幣経済において、富の偏在による不公平と弊害を戒めたり、揶揄するやうな「金」に纏はる言葉が実に多くあります。


ところで、神社仏閣には、神前、仏前に賽銭箱が置かれてゐます。参詣者の賽銭を受けるものですが、賽銭といふのは、賽(むくゆる)銭ですから、神仏の恩徳に報ひ、利益(りやく)を願つて捧げる金銭のこととされてゐます。もともとは、供物(くもつ)の風習と罪穢れを祓ひ清める神供としての散米(さんまい)とか打撒き(うちまき)と呼ばれる風習とが、貨幣経済が入り込んできたために、それが金銭に変化したものです。「散米」から「散銭」(賽銭)へと変化したといふことです。そして、供物台が無くなつて賽銭箱が置かれることになりました。


初詣などでは、多くの人出があり、小さな賽銭箱では間に合はないので、大きな賽銭受けのスペースまで設けられ、神前や仏前まで人混みのため進み出られない人は、遠くからそこに向けて投げる光景を目にします。最前列で参拝すると、後ろから投げられた賽銭が頭に当たつたりします。

私は、神仏に捧げる物を神仏の前の賽銭箱に放り投げたりする行為は余りにも無礼で不遜なことだと感じてゐます。幼いころから両親の仕草を見習つて、そのやうなことはしません。音を立てないやうに静かに賽銭箱にお賽銭を入れます。


また、銭形平次の投げ銭にも違和感があり、ましてや、昔、傷痍軍人や大道芸人などに通行人や見物人が金銭を投げ与へるといふ見下した行為にも嫌悪感がありました。銭打ちといふ子供の遊びがありますが、それもしませんでした。お金をぞんざいに扱ふことを好みません。ですから、全国各地に、投げ銭供養といふ行事がありますが、それに参加したことはこれまで一度もありません。金銭で供養することも、これを投げて大きな音を立てることを競ふこともしたくはありません。

確かに、柏手や鈴を鳴らして音を立てるのは「霊振り」のためですが、だからと言つて、自然の恵みと御先祖の営みによつて受け継ぐことができた米や作物を供物として鄭重に取り扱ふ心があれば、そのお供へ物を放り投げたりなど決してしないのと同様に、その供物の代用である賽銭をぞんざいに投げ入れて音を立てるやうな振る舞ひはできないのです。


社会の規模が大きくなると、米や産物が、物々交換をさらに発展させる商品貨幣として流通することになりましたが、それがだんだんと金属貨幣や紙幣に代用されて、必要とする商品と直接の対応関係がないものが経世済民の世界を支配することになりました。「経世済民」から貨幣量保有の大きさを富とする「経済」へと堕落し、同時に、祭祀の心を失ふことになりました。


そのことと平行して、供物などについても、散米から散銭(賽銭)へと変化します。これは同時に信仰の堕落でもあります。信仰の堕落とは、祭祀を否定し、祭祀から遠ざかることを教義とした宗教が蔓延つたことであり、そのやうな宗教団体が貨幣経済を受け入れて、貨幣の奴隷となつたことから始まると考へてゐます。


祭祀や原始宗教は、貨幣制度とは無縁でした。原始宗教はすべて祭祀を基軸としてゐました。祭祀とは、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀であり、神人共食による感謝を行ふことですから、海の幸、山の幸、田の幸などをお供へすることにあります。祭祀や原始宗教の発祥は、貨幣制度以前のものであり、その原始神は「とほつおや」(祖先神)ですから、世俗の貨幣では、神人共食ができません。食べられない貨幣をお供へしても、お喜びになりません。カミ、ホトケの世界は、貨幣制度とは無縁ですし、そんなものは通用しません。「地獄の沙汰も金次第」といふのは、俗物思想の神髄です。

日本書紀にも「神々は罪を素戔嗚尊に負はせ、贖罪の品々を科して差し出させた。」とあることから、神仏への供物は、品々、つまり米や産物であつて、金銭といふ人間の作つた俗物ではありません。


ましてや、金貨その他の物質的な稀少価値がある商品通貨であるならば自然物としての価値が認められても、鋳造貨幣や紙幣などのやうな、それ自体では物質的な利用価値のない人工物は、人間の世界での約束事としては通用しても、そんな娑婆の垢にまみれた人間の俗物をカミ、ホトケに捧げるといふことは極めて不遜なことです。

もし、貨幣を有価物として人間世界が取り決めた俗物を有り難がるカミ、ホトケが居るとすれば、そのやうな人間によつて作られたカミ、ホトケもまた俗物の極みと言へます。


このやうな思ひをさらに深めることになつたのは、明治神宮で先に行はれた新嘗祭の折に参拝し、その数多くの奉納品を見たときでした。全国の都道府県のすべてから地元の産物が奉納品として境内の回廊を一周するやうに所狭しと並べられてをり、実に壮観でした。特に目を引いたのは、門前の脇に供へられた砧丸(きぬたまる)といふ野菜の積まれた全長三メートルもある大きな木造の宝船でした。舳先(へさき)には、たわわに実つた稲穂の束があり、船体には種類も数も沢山の地野菜が彩り良く高く積まれた宝船です。これを見たとき、その見事さに感激したと同時に、あることを思ひ出しながら、信仰のあり方や経済の仕組みは、ここに回帰すべきだと確信しました。


その「あること」とは、『祭祀の道』第三十一回「五穀と護国」で述べた、福島県郡山市の飯森山にある飯豊和気神社(いひとよわけじんじゃ)の由緒の文言のことです。

飯豊和気神社には、五穀養蚕の守護の神延喜式内の古神である御饌津神(みけつかみ)が祭られてゐます。御饌津神は、食物を司る神々の習合であり、全国の主な神社に摂社として祭られてゐる御祭神です。この飯豊和気神社の由緒に、「秋の祭典には、甘酒を醸し桶のまま神殿に供えて、参詣の人々に授け飲ませ、また御種貸神事として神前に供えた種籾を、信者へ貸し下げ翌年の祭典に新穀を返納させたが、何種の種が交じっていても雑穀とならず、主穀と同一となるという奇妙な稲霊の御種貸しと言う古代の神事があった。」と記載されてゐることを、このとき、ふと思ひ出したのです。

この神事は、伊勢神宮の神嘗祭に際し、今年収穫された稲穂(初穂)をお木曳車に載せて、豊受大神を御祭神とする外宮に奉納する外宮初穂曳の神事と重なるものです。


これが意味するものは、祭祀と経世済民(経済)の中心が神社であつたといふことです。祖先祭祀は家族が行ひ、神社は、自然祭祀と英霊祭祀を担ひます。そして、家族は、家族ごとに自給自足を確立し、その援助を神社が担ふことになります。神社は、各家族が自給自足を確立させるために、種籾などの作物の種と産物を各家族から神社に奉納されたものを、それを必要とする家族に下賜し、それによつて自給自足を向上させた家族が翌年に自作の作物の種と産物を御礼として奉納します。さうして、遍く多くの家族が自給自足を協同して達成してきた仕組みがあつたのです。これらは、天皇祭祀である宮中祭祀と神宮祭祀の雛形となる社会の仕組みなのです。


また、歴史学者や政治家、評論家などのすべては、さきほど述べた御饌津神(みけつかみ)のことなどについて、単に蘊蓄を傾け知識をひけれかして優越感を味はひ、自己満足するだけで、歴史に学んで現代社会を変革する温故知新の智恵もなく実践することもできない人達ですから、世直しのためには何の役にも立ちません。


世界の経済や社会の仕組みを再生させる実践理論は自立再生論しかありません。私の『國體護持總論』第六章(改訂版)を読めば、世界経済のあるべき姿がどんなものかを必ず理解することができます。これを理解して直ちに家族単位で実践してください。家族が協同して家族の自給力を付け自給率を高めることです。

初詣でその決意を神仏に誓つて新年を迎へてほしいものです。

平成二十五年元旦記す 南出喜久治


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