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青少年のための連載講座【祭祀の道】編

第四十八回 低頭と祭祀

おぼえなく かうべをたれて ことかはし たがひのおやを うやまひにけり
(覺え無く(無意識に)頭を垂れて言葉交はし互ひの祖先を敬ひにけり)

私は、平成19年7月23日にソウルにおいて、敬愛する崔基鎬(チェギホ)教授とお会ひして話し合つたことについて、同年8月5日付けの『いはゆる「保守論壇」に問ふ(その五)』で述べたことがあります。

その中で、李氏朝鮮が清の属国になつたとき、朝鮮王の仁祖は、命乞ひをし、それまで輕蔑してゐた胡服を着て、「受降壇」(降伏を受け入れる拝礼壇)で清の太宗に向かつて九回地面に頭をつけて叩頭する礼拝を行ひ、その後に清からの一方的な講和を結ばされ、その屈辱的な記念碑が「大清皇帝功徳碑」(大韓民国史蹟第101号)として今も残つてゐることの話をしました。


今回は、ここに出てくる九回地面に頭を叩き付けて行ふ「九回叩頭」の礼法の話から始めます。この「九回叩頭」といふのは、相手に対して完全絶対服従を示す義務的な儀礼です。完全絶対服従といふのは、何をされても一切を受け入れて隷属しますといふことであり、我が国が大東亜戦争の停戦合意における「降伏文書」において、GHQの隷属下に置かれることを受け入れた「subject to」条項を形式的、儀礼的な動作に置き換へて表現すれば、このやうになるのです。


そして、この「九回叩頭」は、「五体投地」の礼法とともに行ふことになります。「五体投地」とは、一般には仏教徒が仏に対して行ふ最高の敬礼方法とされてゐますが、儒教的な礼法でもあります。立つて合掌した姿勢から両膝を折つて両膝を地に付け、次に、両手を地に付けてから両肘を折つて両肘を地に付け、さらに合掌したまま頭を地に付ける礼法です。両膝、両肘、頭といふ体の五箇所を地に投げ出すこと、五体を地に投ぐのが五体投地です。

そして、九回叩頭といふのは、この頭を地に付ける際に、強く地面に額を叩き付けて、これを九回繰り返すことを言ひます。土が額に付き額が割れて血が吹き出すことが求められる礼儀です。これほど凄まじいことをしてまで、自己の咎を懺悔して相手に隷属したことを示すのです。


このやうな礼法は、もちろん政治的なものであり宗教的なものですが、では、どうしてこのやうな礼法が隷属を示すことになるのでせうか。それは、五体投地や九回叩頭する状態は、外部からの攻撃に対して全く無防備である自己の姿を晒すことだからです。

また、ここまでしなくても、武人が武器を捨て帯刀しない姿で対面することも無防備な姿です。皇帝や国王に拝謁するときは、拝謁前に武器を預けてから丸腰で進み出ます。これは、皇帝側が力の大きさを誇示し屈服させることを意味するとともに、不用意な攻撃をさせないやうに防止するための配慮でもあります。


そして、拝謁のときに、その最も基本となる礼法は「低頭」です。それには、先ほどの五体投地や九回叩頭の礼のやうに屈辱的で極端なものから、最敬礼や会釈の程度に至るまで千差万別であり、これは両者間の立場の隔たりの大きさによつて決まります。


しかし、五体投地や九回叩頭のやうな支配服従の関係における義務的、命令的な儀礼でなくても、両者の立場が対等な場合であつたり、両者の立場の優劣が不明な場合のやうに、自然発生的で自発的にお互ひに「低頭」する習慣的な礼法があります。理性的な判断で行ふのではなく、反射的、本能的な行ふ「低頭」もあるのです。


また、低頭以外の習慣的な礼法として、一般に、両者が対等かそれに近いときに「握手」をすることがあります。ただし、上の者が下の者を激励する意味で手を差し伸べて握手する場合もあります。そのとき、下の者は、自己の左手も添へて上の者の右手を包み恭順の意を示します。そして、この握手といふのは、武器を持つ右手でするのが習はしです。右利きの人が多いのでお互ひに右手ですることになります。これは、欧州でよく見られた風習で、騎士同士がお互ひに武器を携へたまま利き手の右手で握手することによつて、相手に対して攻撃の意思がないことを示す礼法として定着しました。


さらに、時代が下つて人々が馬車に乗ることになると、道で騎士同士や紳士同士の馬車が擦れ違ふとき、騎士達はその都度馬車から降りて握手します。しかし、頻繁に馬車同士が擦れ違ふことになると、いちいち馬車から降りずに、馬車に乗つたままで握手することが始まります。さうすると、馬車に乗つたままで、紳士同士や御者同士がこの握手をすることになると、どうしても左側通行にしないと右手同士で握手ができません。だから自然と左側通行になりました。イギリスで産業革命が起こり、自動車文化が起こると、そのまま左側通行の方式が定着した訳です。

ところが、アメリカがイギリスから独立する過程で反イギリス思想や対抗思想が生まれたために、自国では左側通行を止めて右側通行にしましたが、これは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの類です。余談ですが、アメリカではボストン茶会事件を契機に、それまでの茶の習慣から離れる現象が起こり、これに代はるものとしてコーヒー文化に移行しましたが、このことも、アメリカのイギリスへの対抗意識が後押しした結果です。


ともあれ、握手のやうに、手の動作によつてなされる挨拶礼法には、他にも、手組みや合掌などがあります。これらは、低頭とともに、あるいは低頭に代へてなされるものです。手組みとは、両手の指を交互に股に入れて両手を組んで握りしめ、それを顔や胸に引き寄せることです。合掌とは、十本の手の指と両掌を顔や胸の前で重ね合はることです。これらの行為もそれぞれの仕来りなどによつて千差万別です。ただ、共通することは、顔や胸に引き寄せて手組みしたり合掌したりすることも、自己が無防備な姿であることを示すことにあります。ある武道において、このやうな手組みや合掌の姿勢も防御と攻撃準備の基本として取り入れてゐるものもありますが、これは、一般には恭順と思はれる姿勢から繰り出す意外な攻撃は相手の裏をかくといふ戦術的な効用があることから編み出されたもので、本来の姿勢の持つてゐる意味とは異なる特殊なものです。


そもそも、無防備な恭順の姿勢とはどんなものかは、時代状況や仕来りによつても異なりますが、多くの人々の感覚からして、恭順の姿勢ではないとされてゐるものが一つだけあります。それは、腕を組む姿勢です。腕を組むのは基本的に胸部等を防御する姿勢であり、相手の攻撃を予期した受け身の基本姿勢です。相手を信用してゐないことを示す姿勢なのです。また、腕組み状態からは直ちに攻撃に転ずることのできるので、腕組みの姿勢は相手に対する警戒心の端的な現れです。腕組みの姿勢が相手から見れば失礼であり生意気だと思はれる所以はここにあります。


また余談ですが、合掌と柏手の姿勢は基本的に異なります。よく、合掌風に胸に引き寄せて柏手を打つ人がゐますが、手を突き出して柏手を打つのは、柏手で起こる靈振りが少しでも神前に強く大きく早く伝はらせるためのもので、決して合掌の意味とは同じではないのです。


このやうに、握手や手組み、合掌といふ行為は、元来は「低頭」に付随的なものであり、あくまでも礼法の最も基本になるのは「低頭」です。それには、先ほどの五体投地や九回叩頭の礼のやうに屈辱的で極端なものから、最敬礼や会釈の程度に至るまで千差万別です。


ただ、礼法といふ堅苦しい意識を持たなくても、我々は顔見知り人に会ふと反射的にお辞儀をすることがあります。これも低頭です。意識してお辞儀をすることもありますが、ほとんどは無意識に反射的なお辞儀をします。

突然に知り合ひに会ふと、驚いて姿勢を正し目を見張つて少し顔を上げたりします。そして、次の瞬間には、そのまま頭を下げてお辞儀してゐることが多いのです。この反射行動にこそ真実が隠されてゐます。


どうしてかと言ふと、人間は社会的動物としての本能行動をするからです。どうして人間が社会的動物であるのかと云へば、人間には対人関係に強く反応する本能があることに由来してゐます。とりわけ、対人関係を築く出発点になるのは、人との出会ひです。そのときにはお互ひに顔を見ます。そして、お互ひに顔を認識してその表情を読み取り、その表情から好意と敵意などを識別するのです。つまり、人間の脳には「顔」の形に強く反応する本能を備へてゐるのです。そのことをシミュラクラ(simulacra)現象(類像現象)と呼んでゐます。目と鼻と口などの人の顔の部分と全体の特徴と表情が詳細に識別できる極度の敏感さがあるために、人の顔に類似したあらゆる形像に対しても、それを人の顔であると錯覺することがあります。壁の染みや岩肌などの自然物の造形が目鼻のある人の顔の形に見えてきたり、人面魚とか人面犬などと騒ぎ出したりする、あの現象のことです。これは幻影の一種ですが、このやうなものまで人の顔と錯覚しうるほど人の顔に対しては敏感なのが人間なのです。人には、他人の顔の特徴と微妙な顔の表情を読み取つて対人関係を構築して行く能力が備はつてゐることの証でもあります。これを応用したのが最先端の顔認証技術です。

この本能によつて、家族と他人とを識別して精緻な人間関係を築いてゐるのであつて、ひとたび家族として識別したときは、さらに次の段階の本能として、家族であることの認識に基づき、他人に対するものとは異なつた行動が規律されて行くことになるのです。


このことから、さらには、家族以外の人に対しても、敵か味方かの識別することができます。そのことを記憶する能力があります。人と出会つたとき、全く知らない人であれば、その人が攻撃してくる確率は小さいのですが、知つてゐる人の場合は、敵か敵でないかを識別し、敵であるときは身構へます。ですから、知つてゐる人か否かを判断し、知つてゐる人と判断すれば、それが敵か敵でないかの識別をするために、識別情報を多く求めることになります。そのためには、相手が敵か否かを早く識別するために姿勢を正して視界を広げる必要があります。目を見張り顔を上げたりするのも識別を正確にするための本能的な反射行動です。そして、敵でないことが識別できたときにお辞儀をすることになります。


しかし、お辞儀(低頭)といふ行為を本能的に見れば、頭(かうべ)とは、髪邊(かみへ)であり上部(かみへ)であり、その「頭を垂る」といふ行為は、前方からの攻撃のみならず周囲からの攻撃を受けやすい姿勢をとることになつて最も危険な行為なのです。顔や頭部は脳や五感機能など下界を識別するに必要な臓器が集中してゐる場所であり、それを低頭することによつて前方への視界を遮り、聴覚や嗅覚も妨げることになつて、さらに、その遮られた方向に頭部を差し出すことは、頭部への攻撃を最も受けやすい姿勢をとることになるからです。


ところが、それでも低頭するのは、やはり社会的動物である証です。それは、率先垂範して低頭し、無防備な姿を示すことによつて、相手の警戒心を解いて安心を与へ信頼関係を高めることになるからです。そして、相手よりも率先して自発的に低頭することは、相手に対する服従の証ではなく信頼と感謝の証です。「五体投地」や「九回叩頭」のやうな隷従を義務付ける祭礼は本能に基づくものではなく、政治的、宗教的な「理性」の産物としての礼法ですが、自然な低頭の行為は、まさしく本能行動によるものです。そして、その中でも最も純粋で崇高な低頭は、祭祀としての低頭です。


 実るほど頭を垂るる稲穂かな

といふ句がありますが、稲穂が祭祀にとつて不可分なことと相俟つて、祭祀の心が身に付いた人ほど「低頭」を祭祀として実践することを意味してゐます。「実る(みのる)」とは、「霊宣る」であり、祭祀を身(実)に付けることですから、この句は言ひ得て妙です。


しかも、その祭祀としての低頭とは、ご先祖への信頼と感謝、そして祈りの表現です。祖霊に向かつて行ふ低頭は勿論ですが、人に向かつて行ふ低頭の場合も、その相手の頭上から天空に連なるそのご先祖に向かつて行ふ低頭なのです。そして、お互ひに交はす挨拶の言葉もまた、相手の頭上から天空に連なるその御先祖に向けた挨拶の言葉なのです。


この祭祀としての低頭の意味は、ご皇室の伝統からも理解できます。両陛下が各地を行幸されて慰霊、鎮魂、顕彰をされるときは、手組みや合掌ではなく、ご低頭のみです。これはまさにご皇室の伝統である祭祀としてのご低頭なのです。


我々は、天皇を戴く祭祀の民として、既存の礼法に頑なに拘ることなく、祖先祭祀、自然祭祀、英霊祭祀について、心から湧き出すこの本能行動による信頼と感謝の低頭を常に実践し、また、縁あつて出会つた人に対しても、祭祀の低頭を行ふことを心がけなければなりません。

平成二十五年三月一日記す 南出喜久治


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